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第一章 出会い

1-3 覚えなし

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 董星とうせい紫煙殿しえんでんで、すでに七日を過ごしていた。
 女ばかりの紫煙殿で、子どもは董星と央華おうかの二人だけだった。それで央華は『よいお姉さん』の董星の側を離れず、董星も央華がいてくれる方が心強かった。

「ねえねえ、今までの事、思い出せた?」
「いや、まだ何も……」
 並んで歩きながら、董星は央華の質問をやり過ごした。
 央華は明らかに董星のことを女だと思い込んでいる。彼女は董星のことを知りたがるが、話すと余計なことまでしゃべってしまいそうで、素性が知れるのは嫌だ。
 それで董星は、ここに来る以前のことはよく覚えていない、ということにしていた。

 相変わらずの董星の返答を聞いて、央華には安堵した様子が見えた。
 今までのことを思い出したならば、董星はきっと元の場所に帰ってしまう。自分の元から去ってしまうと、恐れているのだ。
 央華の気持ちがよく分かって、董星はますます口を堅くした。


 董星が今までのことを覚えていない、というのは嘘だ。それどころか、恐ろしいくらいにはっきりと思い出せる。 

 あの日木に登ったのは、『会ってはいけない』と強く念押しされていた人物から逃れるためだった。
 いつもなら、そいつはもっと、山の下の方までしか来ないはずだった。でもその日は、供の者を連れてずいぶん上の方まで来ていた。
 ここまでは来るはずないと高をくくっていた董星はあせり、木の上に逃げた。なのに、そいつときたら木の上にいる董星をイタチか何かと勘違いしたらしく、木の根元で犬をけしかけたり、供の者に見張らせたり、なかなか辛抱強かった。
 連中があきらめて去って行った頃には董星はぐったりとしていて、木から降りてくるときに足をすべらせ、……そこから先は、央華が『木の下に倒れていたのを見つけた』と言った通りだ。

 董星は話題を転じて央華に言った。
「それよりも今度は、何の勉強を?」
 見習い修行中の央華は学問や武芸の教授を受けていた。神殿にいる間、董星もやることがなかったので、彼女の授業に一緒に連いて行った。
 てっきり今日もそうだと思っていたら央華は首を振った。
「勉強じゃなくて……みんなには秘密で。こっちに来て」
 央華に袖を引かれて歩きながら、董星は横目でちらりと山門を見た。
 確か蓉杏ようきょうは、神殿の門は開かれていて、いつでも好きな時に帰れると言った。しかし外界につながる唯一の出口と思われるその門は、いつでも閉ざされたままだった。開いたのを、まだ見たことがない。
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