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第四章 次の朝

4-2 流れる水 <完>

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 かつて董星とうせいが雌伏の九年間を暮らした山中の離宮。そこに今は、東宮を追放された前の王太子と愛妾が幽閉されて暮らす。
 すっかり立場が入れ替わったが、高人こうじんが見る限り壮宇そうう恵明けいめいは現状に満足し、穏やかに暮らしている。叛意はない。

 幽閉先は当初、壮宇が幼少の夏を過ごした豪奢な離宮のはずだった。が、到着するなり恵明が一言、『広すぎでございましょう』。
 それで急遽、昔の董星の住まいに移った。二つの離宮は山荘と御殿ほどにも違う。
 それでも山荘のような離宮の、手入れがされた庭には牡丹が咲く。間もなく芍薬の花も開く。

 壮宇は高人を酒宴でもてなし、訪問の目的を察して言う。
「私たちに子はできない。後にも先にも……」
 それを聞いて高人は無言で平伏する。今後王太子夫妻の間に子が生まれれば、間違いなくその子が世継ぎとなることだろう。


 牡丹の花を愛でつつ詩を詠み、酒の杯を重ね、夜も更けて高人はそのまま宿を借りる。
 通されたのはかつて彼が使っていた部屋だ。一年前にここを離れた時と変わらない。調度類も、部屋の外に見える景色も。 
 
 もう一つ、変わらないものがある。
蓉杏ようきょう……」
 現れた彼女に向かって高人はつぶやく。一体どこから入って来るのか。相変わらず神出鬼没なのだった。
「お前が来ていると知って」
 蓉杏は堂々と庭を横切り、部屋に入って高人の隣に座った。

「煙草は?」と高人が聞くと、
「やめたんだ」と蓉杏が答える。

 高人は蓉杏の美しい横顔に話しかける。
「あの煙草は……紫煙殿しえんでんそのものだったんだな」
「気づいていたのか?」
 蓉杏は驚いて高人を見る。高人は首を横に振る。
「いや……あなたと別れた後に、人から聞いて知った」

 高人は円了えんりょうから聞いた話を蓉杏に確かめる。紫煙殿のいわゆる「もの忘れの秘薬」の効能について。男と女と、どのように使われるのか、その違いについて。

 あの時、蓉杏が紫煙殿を離れても記憶を保っていられたのは、煙草が「もの忘れの秘薬」の代わりを果たしたせいだと、高人は思っている。そして蓉杏の煙草を共有していた自分は、紫煙殿と結びついた記憶の一部になっていたのだと。

「……だいたいあっていると思うか?」
「詳しいな。私もずっと紫煙殿にいて、同じように考えていたところさ」

 蓉杏は同意する。それは円了と同じ薬師の素地をもっているから、同じ結論に達したのかもしれなかった。

「お前から逃げたことを後悔していた」
と蓉杏は言い、
「でも、あのまま抱き合っていたら、私はあなたを忘れるところだった」
と高人は言い返す。

 さらに蓉杏は反論する。
「でもお前が忘れても、私はきっと覚えていよう……」
「あなたのことを忘れるなんて、真っ平、ご免だ」
 高人はきっぱりと言って蓉杏を胸に抱き寄せる。
「何があっても私はあなたを覚えている、ずっと……だから、このまま、私と夫婦にならないか……央華おうか様のことがまだ心配か……?」

 高人は言外に、蓉杏が紫煙殿を出ることを仄めかす。もしそうすれば、いずれ蓉杏は紫煙殿であったことを忘れてしまうだろう。専心仕えた主君のことも、高人と出会ったことも。

「高人、その心配はないんだ……」
 蓉杏は高人の胸の中で顔を上げる。頬が涙で濡れている。
「泣いているのか……」
 滅多に感情をみせない、まして弱った所など見せたことのない蓉杏だった。高人は驚いた。
「そうだよ」
 蓉杏は言って、再び顔を高人の胸に寄せる。

「もう私は、お前のことを忘れる心配はないんだ……この涙……形を変え、姿を変え、雨にでも川にでもなって、お前の頬を濡らせるものならばと思っていたら……いつの間にか時が経っていた……それでもう一度、お前の所に来たんだ……」

 かつて蓉杏は教え子である央華に暗示をかけた。紫煙殿を離れたとしても、流れる水を見るたびに思い出せ。それがそのまま、蓉杏への暗示となった。
 
 高人と蓉杏は頬と頬とを寄せる。高人は蓉杏の頬に唇を寄せる。
「あなたを泣かせたくない。が、もし流れる涙のあれば、それはすべて私が引き受ける。あなたの思いが、形を変えて姿を変えて私の元へ届いているのだと……」

 そうしていて、不意に高人は蓉杏を引き離し、笑顔を作る。蓉杏が不審がる。

「高人?」
「一年くらい、待てばいい。あの子たちにできて、私たちにできぬはずがない」

 その意味に気づいて蓉杏は目を丸くする。

「教えたはずの子に、教えられたな」
 どちらともなく二人で言い、そして顔を見合わせて笑った。
「愛している。時に寝顔を見るくらいは、許してくれ」

 もう一度二人はしっかりと抱き合った。

<完>
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