白の皇国物語

白沢戌亥

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第四章:万世流転編

第十一話「意志の鉾先」 その五

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 ハイドリシアが以前のような笑みを浮かべるようになった。
 ロディとライエスは出先で受け取ったアーリュの言葉通りに自分たちを出迎えたハイドリシアに、僅かな、しかし拭い去ることのできない困惑を抱いた。
 自分たちの大義を一身に背負っていたハイドリシアが、その役目を果たせなくなったことで塞ぎ込んでしまったことを、ふたりは罪悪感と共に受け止めていた。
 本来であれば自分たちも背負わなければならなかったものを、ハイドリシアはひとりで背負っていた。ならば、今度は自分たちがハイドリシアを背負うのだと思い、この世界で生きる術を見出そうとしていた。
 だが、ハイドリシアはいつの間にか以前のような覇気を見せるようになっていた。
 ふたりはハイドリシアが以前の身体能力を取り戻すと言って出掛けたあと、礼拝堂の一角でこの国の宗教書を読んでいたアーリュを問い詰めた。
「アーリュ、あれは一体どういうことだ」
「僕らがいない間に訊ねてきたのは、この国の役人と皇王陛下だけだと聞いている。君が何かをしたのでなければ、そのどちらかがリシィを変えたということになる」
 ロディもライエスも、ハイドリシアを掛け替えのない仲間だと思っていた。
 自分たちが最後まで戦うことができたのは、ハイドリシアという存在があったからだと思っている。
 そんな大切な仲間が、突然別人になったか――或いは戻ったか――のように振る舞っている。
 多くの死線を潜ってきたふたりが、それを異常だと受け止めない理由はなかった。
「そのどちらかということなら、陛下の方ね。そして、わたしも同じ」
 アーリュはそれがどうしたと言わんばかりの笑みをを浮かべた。
「同じ、だと?」
 ロディが片眉を上げ、疑問を発した。
「そう、同じ。わたしもリシィもようやく世界という鎖から逃れることができた」
 ライエスはその様子を見て、以前から抱いていた疑念が正しかったことを悟った。
 彼はアーリュの目的が教会の権威の護持にあるのではないかという疑いを抱き、しかし戦いの中でそれを確かめることは避けていた。
「――それは、教会の軛から逃れたということですか」
 ライエスは言葉を選び、アーリュの真意を訊ねた。ロディはライエスの言葉の意味を知ってか知らずか、仲間ふたりの遣り取りをじっと見詰めている。
 アーリュはふたりをそれぞれ見詰め、今まで見せたことがないような朗らかな笑みを浮かべた。
「ええ。やっと……やっとあの娘と本当の友人になることができた。戦いが終わることに怯える必要もなく、隣で眠るリシィの顔を見ることも怖くなくなった」
 その言葉に、ライエスは深い罪悪感を覚えた。
 仲間がずっと恐怖に怯えていたというのに、自分はその事実から目を背けていた。本来ならば、自分とロディこそがこのアーリュの笑顔を取り戻すべきだったのだ。
 ライエスはそんな内心を押し隠し、さらに言葉を重ねる。
「でも、リシィの変化はあまりにも急すぎる。あれではまるで別人だ」
「別人ではないわ。ただ、世界を背負うことをやめただけ。わたしたちが当たり前のようにあの娘を『勇者』として見ていた。でも陛下は、あの娘を単なるハイドリシアに引き戻した」
 アーリュの言葉に、ライエスははっとなった。
 思えばハイドリシアと出会ってから、彼女はずっと勇者としての責務に追われていた。
 友人たちと接するときでさえ、その友人たちを守るのだという決意が見て取れた。
 世界のみならず仲間である自分たちでさえ守ろうとしていたハイドリシアが、その守るべき対象をごっそりと失った。
 それはハイドリシアにとって己の存在価値を否定されたに等しい。勇者として育てられ、それこそが正義であり自分の価値であると認識していたのだ。当然の結末である。
「ロディ、あなたなら分かるんじゃない?」
 アーリュに問われたロディは、ライエスの視線を受け止めながら重々しく頷いた。
「俺は騎士として民を守るという大義を抱き、今もそれを自分の宿命だと思っている。この地に民がいるならば、それを守ることで俺の正義は成る。だが、あの世界を守ることを己の正義としていたリシィがこの世界で生きるには、別の正義が必要だ」
 正義とは人が誰しも心に抱いているものだ。
 人々の羨望を集めてやまない巨大な正義もあれば、決して人々の目に触れることのない小さな正義もある。
 ただそれは、正義というものがあまりにも曖昧であることの証拠でもある。
 そして曖昧であるが故に、正義とは他人が作り出すこともできてしまう。
「他者によって作られたリシィの正義。この世界に来て崩れたその穴に新たな正義を収めることができるのは、この国の『大義』の具現である皇王殿以外にいない」
 正義の是非を論じる愚かさを三人はよく知っていた。
 大義とは人々の拠り所であり、それ自体には何の価値もない。ただ、それを信じる者たちによって価値が与えられるのである。
「結局……リシィは救われなかったのか……」
 ライエスは僅かに掠れた声でそう呟いた。ロディはそれに対する答えを持たずに押し黙り、アーリュは空虚な微笑みを浮かべた。
 三人はハイドリシアの今の状態が正しいとは思っていない。
 しかし、それはあくまでも彼らの価値観でしかないのだ。少なくとも、今のハイドリシアにとって、与えられた大義は救いであった。
「陛下には感謝してるの。あの娘には他に何もないから」
 分かりきっていた。
 勇者として生きることのみを求められてきたハイドリシアが、その役目を終えたあとに自分の価値に疑問を持つことは。
 それでも王国や教会は構わなかったのだ。勇者としての役目を終えたとき、ハイドリシアという女の生涯は終わるのだから。
「あの世界にとって、リシィはハイドリシアという名の勇者じゃなかった。勇者という名のハイドリシアだった。勇者ではないハイドリシアなど、存在しなかった……」
 ライエスはそう独語すると、アーリュに背を向けて歩き出した。
「ライエス? 何処へ?」
 ロディの声に、ライエスは立ち止まった。だが、振り返ることはない。
「――贖罪、かな。僕はリシィにリシィとして生きる道を教えてあげられなかった。でもこの世界なら、まだリシィはリシィとして生きる道が残っているかもしれない。だから、その道を見付けるためにも、僕は僕としてこの世界を知る」
 ライエスはそのまま振り返ることなく、礼拝堂をあとにした。
 残されたふたりは、無意識のうちに礼拝堂の奥に鎮座する聖印に目を向けた。
 かつての大義の象徴は、この世界では単なる置物でしかない。
 それを再認識し、ロディはアーリュに向き直った。
「ハイドリシアを頼む」
「それはいいけど、あなたはどうするの?」
 首を傾げるアーリュに、ロディは僅かな笑みを浮かべて言った。
「今度は俺が守る。あいつが単なる小娘として生き、そして死ねるように」
 ずっと抱いていた罪悪感を拭うならば、それしか道はない。
 ハイドリシアが勇者ではなく単なる女として死ぬことが出来たならば、それは勇者の仲間であるロディやライエスにとって最大の戦果だ。
「勇者は勇者として死ぬべきではない。ただの人として生きるべきだ」
「それがあなたの正義?」
 苦笑を浮かべたアーリュに問われ、ロディは頷いた。
「正義ではない。願いだ」

                            ◇ ◇ ◇

 レクティファールの後宮執務室に報告書類を携えてきたマリカーシェルは、その報告書の一番上にあった名前を見て僅かに顔を顰めた。
 ハイドリシア・ヴィラーゼ・グランデア。
 レクティファールが自ら名を与えた女だ。
「悪趣味ですか?」
 マリカーシェルの表情の理由を、レクティファールはハイドリシアに対する行動に見出した。
 マリカーシェルの属するごく一般的な価値観からすれば、その行動は明らかな悪道である。他人の心の拠り所を破壊し、そこに自分の望む価値観を押し込む。
 少なくとも、多くの人々はそれを非道と断じるだろう。
「は、いいえ」
 マリカーシェルはそれ以上何かを言うことができなかった。
 肯定すればレクティファールを悪と呼ぶことになり、否定すればレクティファールの行いを否定することになってしまう。
 だから、彼女は押し黙るしかなかった。
「ええ、まあ、三流の悪役のやることですね。少なくともリリシアたちには怒られそうだ」
「されど、たとえお怒りになっても、否定なさることはないでしょう」
 マリカーシェルは言った。
「殿下たちは陛下を信じておられますから」
「それは君もか?」
 レクティファールは微笑と共にそう問い掛けた。
 マリカーシェルはそれに応えるように笑みを浮かべ、頷いた。
「勿論です。我々の正義は陛下の正義であり、我々の悪は陛下の悪。そしてわたしにとっても……」
 それ以上の言葉を続けることは、マリカーシェルにはできなかった。
 それは主従の分を超える言葉であったからだ。
 ただレクティファールはマリカーシェルの真意を知ることのないまま、しかし彼女の望んだ言葉を口にした。
「それは頼もしいことです。ありがとう、マリカーシェル」
「は、過分なお言葉。ありがたく」
 マリカーシェルはその言葉で、レクティファールにとっての自分が唯一無二の存在であることを理解した。それは彼女のような武人の女性にとって、恐ろしいまでに甘美な報酬であった。
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