白の皇国物語

白沢戌亥

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10巻

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 如何いかなる志を持って何を為すか。
 騎士学校の候補生諸君はこの答えを、ここから旅立つまでの間に見出してほしい。
 君たちがいつか手にするであろう力は、本来であれば決しての目を見てはならないものだ。
 君たちがその武力をふるい、その知力でもって状況を切り抜けようとするとき――それは我国が軍事力による行動を必要としているときに他ならない。同時に、君たちが守ろうと志した誰かが危難にさらされているということでもある。
 ただ、決して忘れないでほしい。
 我々軍人が怠惰たいだであることは決して許されないが、我々軍人が容易に力をふるうことはそれ以上に許されないし、そのような状況を許してもならない。
 軍は、賞賛されるべきではない。
 しかし、決して自分たちを卑下ひげするな。
 君たちは、君たちが守りたい者たちの代わりに多くの危難に立ち向かうのだ。
 席次成績など諸君らの評価の一面に過ぎない。誰もが勇士足りうることをわたしは信じている。
 恐れよ、そして立ち向かえ。
 震える膝をなぐりつけ、逃げようとする心を怒鳴どなりつけよ。
 諸君らの肩にはもう、無辜むこの民の生命がかかっているのだ。


 ――二〇三四年度皇国軍騎士学校入校式 学長タキリ・イチモンジ訓示



   第一章 人形繰にんぎょうく



 巨大な影が砂塵さじんを巻き上げ、地面を波立たせる振動とともに、あるいは空気を圧する轟音ごうおんとともに疾駆しっくする。
 明るい砂色に塗装された二体のそれは、陸軍機甲科学校に第三期練習機として配備されている、〇七式近接格闘型高等練習用自動人形だった。噴射器を内蔵した肩部装甲と、巨大な腰部主推進装置が接続された腰はがっしりしている。だが、全体的な姿はほっそりしており、見るものに優美な印象を与えた。
 比較的軽量で高硬度、高靱性こうじんせいの装甲が開発されて以降、自動人形の姿はよりヒトに近いものになった。かつては、ヒトがまとう魔動式じゅう甲冑かっちゅうのようであったが、現在はヒトとさほど変わらない体型をしている。もちろん、自動人形はヒトの何倍も大きいが。
 この機体はつい二年前に制式化され、ここ一年で配備が開始された新鋭機である。同じ基礎骨格と主要装備を用いた実戦機も前線に配備されており、整備などの実習でも活躍している。
 演習場を走る巨大な〝ヒトガタ〟は、それぞれ肩に〇一、〇二と記されていた。ともに機甲科学校の上級学生に操られている。
 二体は、接近しては樹脂製じゅしせいの近接演習剣で互いを斬りつけ、決定打を与えられずに再び距離を取って相手のすきうかがうという動きを、幾度も繰り返していた。
 元々自動人形は、拠点攻略と拠点防衛のために、古代の遺物である〈装甲機兵パンツァール・アイアトス〉を解析して作られた。その性能はいまだ〈装甲機兵〉に遠く及ばない。少し力のある種族なら十二分に撃破できるものだった。
 だが、皇国が仮想敵国とする国々の多くは自動人形を開発、配備している。
 自動人形とは別の系譜を持つ、装甲車輌から発展した『戦車』と呼ばれる存在もあったが、これらは自動人形を戦力化できない中小国が配備しているもので、皇国では見られない。戦車は履帯りたいと砲塔を持ち、性能価格比の良い、すぐれた陸上兵器であったが、それはあくまでも、という技術に目をつぶればの話だった。
 魔力を用いて強度を高める魔導装甲は、魔導回路を組み込まなければただの金属装甲のままである。そして、魔導回路は装置として車輌に組み込むには複雑で、巨大過ぎた。
 魔の力を精製する器官を持つヒト――それも魔導師を模しているからこそ、基礎骨格にそのまま魔導回路を組み込むことができる。自動人形が発展した理由は、そこにあった。
 だが、自動人形という兵器が抱える問題も、その仕組みにある。
 現在、特殊な例を除けば、地上最強の兵器は自動人形であると言っていい。
 自動人形は、それ相応の資材と設備があれば製造することができる。つまり、資材と設備を用意する資金さえあれば、誰にでも手に入れることができるのだ。
 ただし、魔導回路をはじめとするその仕組みにかかる資金は〝莫大ばくだい〟である。
 実際、それだけの資金をまかなうことができる国家は少ない。各国独自に様々な方法を模索しているが、自動人形が恐ろしく高価な兵器である事実は変わらない。
 そして、自動人形を扱うべき者たち――操縦管制官の育成にも、莫迦ばかげた時間と費用が必要になる。操縦管制官は、陸海のどちらであっても、高度な専門技能を持った技術者として扱われた。それは、彼らが一人前になるまで平均六年という長い時間が必要とされるためだ。
 一般的な歩兵は半年の経験で戦力の一端として扱われる。それに対し、自動人形の操縦管制官は二年の基礎教育と、同じく二年の高等教育、そして二年の実機操縦経験を終わらせて、ようやく戦力に数えられるのである。それ以前は予備の予備、二種後備戦力として扱われる。手間と金がかかる以上、自動人形の操縦管制官も浪費することは許されなかった。
 彼らの教育と習熟を効率的に行う施設は、皇国では機甲科学校や機兵科学校と呼ばれている。正確には、機甲科学校の中に機兵科があるのだが、現在の機甲科学校は機兵科とそれを補助する管制科と整備科で成り立っている。そのため、機兵科学校などと呼ばれることも多いのだ。
 しかし、それらの育成機関を経てもなお、自動人形を上手く扱える操縦管制官の絶対数は少ない。戦力として数えられてからも幾度となく訓練と選別を行い、ようやく正式な部隊付操縦管制官になるのだ。だが、そこで終わりではない。自動人形の性能が上がり、高性能機となればなるほど操縦管制官も技術を必要とされた。
 操縦管制官を志す者のうち、その道に進めるのは三十人にひとり。さらに、皇国でもっとも高性能な機体を駆るに足る技量を持つのは、その中でも百人にひとり程度でしかない。
 戦場の花形となれる操縦管制官は、ほんの一握りなのである。


          ◇ ◇ ◇


「つまり、俺は夢だった自動人形の操縦管制官にはなれなかったってことだ」
「なるほど」

 演習場を双眼鏡で眺めつつ、ふたりの男が言葉を交わしている。
 ルフェイル・ゴードンと、だった。
 彼らは演習場脇の丘に魔動車を停め、繰り広げられる人形舞踏ぶとうを眺めていた。
 排熱のために、自動人形の各部の放熱器に取り付けられた遮蔽しゃへい羽板が開き、そこから光が漏れ出ている。その光は人形の動きが加速していくと、人の目に残像として映り込む。
 ルフェイルは、その光景が昔から好きだった。パトリシアと軍の基地祭に行っては、自動人形の公開演習を眺めた。
 いつか自分も、と願う。しかしそれはかなわない夢だった。
 ルフェイルには、致命的なほど自動人形操縦管制官の適性がなかったのだ。徹底した計算の上に成り立つ戦術であれば、彼に問題はない。しかし自動人形の操縦管制官には、直感的に正解を導き出す天与の才が必要だったのである。

「俺には操縦管制官になる才能はなかったが、砲兵士官としての才能ならあった。人生は分からん」
「そんなものでしょうに」

 才能があるだけまし、とレクティファールは言わなかった。
 この世界に才能のない者などいないと考えていたからだ。この世界にいるのは、才能に気付けた者と気付けなかった者、それだけだと。
 ルフェイルは、自分の持つ砲兵士官としての才に気付いた。それで十分なのだ。

「お前はどうなんだ」
「さあ、どうでしょう。帝国の陽虎姫ゾーネティーゲ・プリンツェンの姿を間近で見て、それで生き残っているのだから、無能とは思っていませんが」

 さりとて、有能とも思っていない。思えるわけがない。
 レクティファールが大過たいかなく摂政せっしょう職を全うできているのは、ただその身に宿した〈皇剣〉が高い性能を持ち、彼の配下たちがその職分に相応ふさわしい能力を持っているから、と言って間違いないだろう。
 無論、その配下たちから見ればもあるのだろうが、現状のレクティファールにとってそれは分相応の評価だと思えないのだ。
〈皇剣〉があまりにも巨大過ぎて、レクティファールそのものが全く見えてこない。少なくともレクティファール自身が、〈皇剣〉ではない自分というものを見付けきれずにいた。
 ルフェイルはそんなレクティファールの苦悩を知らず、ただ双眼鏡をのぞきこんだまま、己の欲望を漏らした。

「陽虎姫は、美人だったか」
「美人でしたよ」

 ち、という舌打ち。

「俺も見たかった」

 心の底から吐き出されたと思われるその台詞せりふに、レクティファールは苦笑した。
 普段はむすっと黙りこんで寡黙かもくな印象を与えるルフェイルだが、男としての欲望は人一倍〝ある〟。大人しくパトリシアを相手にしていればいいのに、と一度助言してみたのだが、それは違うと却下されてしまった。
 ルフェイルなりのこだわりがあるようだ。

「映像だってあるでしょう。何なら資料を取り寄せればいい」

 戦術資料という形でなら、陽虎姫グロリエの映像もある。もっとも、それを見るには研究のための閲覧えつらんとして各軍の兵站へいたん本部に問い合わせなければならないのだが。

なまがいいんだ生が、女は生が一番だ」
「――いくつか意味があるように聞こえますね」
助平すけべいめ」
「お互い様です」

 ともに微笑を浮かべたふたりの男は、そのまま双眼鏡を掲げ続け、演習を終えた自動人形がおおいに隠されるまでそこに留まっていた。
 その間交わされる会話は特別重要なものではなかったが、無意味なものでもなかった。


 そもそも何故なぜふたりが連れ立って学校の外に足を運んだのか。始まりはその日の昼に起きた出来ごとだった。
 レクティファールは、午前中だけの講義を終えて自室で本業の書類を決裁していた。毎日欠かさず届けられる書類は、城にいた頃よりも枚数こそ減っているものの、扱いに悩むものがほとんどであった。余人では到底判断しきれないがゆえに、レクティファールのもとに届けられるのだろう。
 彼はいつも、騎士学校の講義が終わったあと、夕食と自己鍛錬たんれんの時間を除いて明け方まで書類の処理をしなくてはならなかった。
 この生活が始まった直後、ずっと部屋のあかりが点いていることに気付いたフェリスが、つのを生やして部屋まで訪れたことがあった。しかし、彼女の班長としての叱責しっせきもなんのその、適当な返答と曖昧あいまいな態度でそれをはぐらかし、レクティファールはその後も内職を続けたのである。自室の魔導灯の調子が悪いオリガが訪れ、そのまま朝まで読書をしていくこともある。だが、それを別にしてもレクティファールの行動はフェリスとして看過かんかできるものではなかった。
 注意しても事態が改善されないことに苛立いらだったフェリスが、騎士学校を通して陸軍に抗議したというのだが、軍の担当者はただ「職務上必要なことである」と答えるにとどまった。彼にはそれ以上の回答が用意できなかったのだ。
 陸軍には確かにレクト・ハルベルンという中尉が存在しているが、その正体が摂政レクティファールであると知る者は少ない。せいぜい、陸軍元帥げんすいと参謀総長と、直接の担当者数名程度だろう。
 陸軍は実質、元帥府や皇王府からの指示で〈レクト・ハルベルン〉という士官が存在していると見せかけているだけで、レクティファールに何らかの命令を与えることはしないし、できない。むしろ、レクティファール側からこういった命令を出すようにと指示され、言われるままにそれに従っているだけだ。
 ゆえに、フェリスからの抗議は事前に用意された台本にのっとって処理され、結局ひとつの変化ももたらさなかった。
 これではいけないと、フェリスがレクティファールの仕事を手伝おうとしたこともあったが、それも機密保持の観点から見ればどだい無理な話である。
 本来の立場でふたりが顔を合わせれば不可能ではないのかもしれないが、今のふたりは単なる同窓に過ぎない。
 妙に絡んでくるなと思ったレクティファールが、班員たちにフェリスについて質問してみたところ、三者三様の答えが返ってきた。

「フェリスも色々な意味で悪い女じゃない。上官にするには疲れそうだが、それも悪くはない」

 と、ルフェイルは工具の手入れをしながらレクティファールに語った。
 身体つきは貧相だが、という言葉を付け加えるのも忘れない。

「まあ、生まれのせいで色々面倒ごとを抱え込んでいるのは確かだな」

 摺動部しゅうどうぶに作動油を差し、あふれた油を布で拭き取ると、レクティファールにそれを突き出して彼は言った。

「人間も手入れは必要だ」

 茶目のひとつもない、淡々とした口調だった。

「フェリスちゃんは真面目まじめだからぁ……かわいいでしょ? あ、レクト君も無理しちゃ駄目だめよ?」

 一方パトリシアは、厨房ちゅうぼうに立って質問に答え、微笑ほほえんだ。

「一生懸命なのはいいことだけど、それだけじゃ何も得られないし、ひょっとしたらぽろぽろ大事なものをこぼしてるのに気付かないかもしれないの」

 鍋をき回し、焼きがまの窓をのぞきこみ、ひとつも無駄のない動作で厨房ちゅうぼうを右へ左へと動きまわるパトリシア。

「あのはいつも色々なところに行くから、落とし物をどこに落としたか、きっと分からなくなっちゃうのね」

 悲しげな声音こわねは、彼女に似合っていなかった。
 ちなみにオリガと言えば、他ふたりとは明らかに違う反応を示した。

「――? 何か問題あるの? フェリス?」

 研究に没頭すれば昼夜なんて関係ないという生活を送る彼女にとって、レクティファールの行動は何の問題も感じないようであった。当然、彼の質問についても。
 ただ、フェリスの行動はオリガにとって非効率極まりないようで、わずかながらあきれているようにも見える。

「回り道ばかり、他所見よそみばかり、自分よりも他人……ついでに口うるさい」

 オリガの生活に口を出しては無理やりそれを改善させようとするのも、フェリスの杓子定規しゃくしじょうぎな性格の表れかもしれない。
 龍族ならどうということもない夜更かしでさえ、フェリスはあまり良い顔をしない。しかしその根底にある理由を知るオリガは、面と向かってそれを突っねることができないのだ。

「他人のため、あれだけ口を出せる。多分才能」

 自分にはとても無理だと暗に示した言葉だろう。確かに、オリガがフェリスのように細かく他人の行動に口を出すというのは想像できない。
 もともと彼女の一族は、自分の子どもにすらさしたる興味を抱かない。どこで何をしようとも、生きていようと死んでいようと構わないのだ。
 黒龍公の一族は、他の龍氏族と異なって集団を形成することがなかった。
 他の氏族も大所帯になることはないのだが、それでもつがいを維持し、子育てを行う程度はする。
 しかし、黒龍にはそういった性質がない。
 つがいは発情期のみともに行動し、それ以外は別行動を取る。子どもが生まれれば一定期間母親が子育てを行い、子どもがある程度成長すると問答無用で置き去りにする。
 そういった気質を残しているためか、アナスターシャはオリガに一切干渉しない。ただ、親子の情がないわけではなく、単にそれを示す必要性を感じていないのだろう。
 もしも娘に愛情を抱いていなければ、レクティファールへの手紙にオリガの近況をたずねる文章を交ぜることはない。
 もっとも、今まではそんなことすらしなかったことを考えると、彼女の一族も変化しているのだと分かる。
 その変化があまりにも緩慢かんまんで、余人には理解できないだけなのだ。しかし同じ龍族から見れば、黒龍の一族は随分ずいぶん子煩悩こぼんのうになったと思うだろう。それほど、彼女たちの一族は集団行動をしなかったのだ。
 そこには、龍の姿では地下の龍脈りゅうみゃくからき上がる魔素まそは元より、大気中の魔素まそさえほとんど食い尽くしてしまうという理由もあった。あの巨体を維持するには、それだけの魔素まそを必要とするのだ。魔法技術の発達がなかったら、今も彼女たちは龍の姿を取ることにいちじるしい制限を受けていただろう。ましてや複数の龍が一緒にいたら、自然由来の魔素まそなどあっという間に枯渇こかつしてしまう。
 ただし、本人たちがそういった一族の苦労を気にかける素振りを見せたことは一切ない。
 また、かつての黒龍の一族がどれほど大量の魔素まそを必要としていたかは、龍族以外の者たちから見れば、大食にその面影を感じる程度である。

「マリア様も、だいぶ口うるさいけど……フェリスはもっとうるさい」

 一方、蒼龍の一族は、オリガのこの言葉通り、他人に対して干渉することが多い。本人の性格もあるのだろうが、種族的な気質もある。
 古来、蒼龍をはじめとする水龍によって沈められた船は多い。ただ、水龍の手助けによって他の巨大水棲すいせい生物から生き延びたという話も多い。船乗りの水龍信仰の根底にあるのも、この航海の守り手という水龍の行動だ。
 蒼龍公の一族は、その始まりからして他人への興味が大きな要素を占めている。初代皇王に面白みと深い興味を抱いたから付き従ったというのが、マリアの父である初代蒼龍公の言い分だ。
 商売に手を出したのも、多くの者と関わりを持つことで、他者への興味を満たすためだと言われている。
 彼らはヒトが好きだ。龍族としての、超越種としての傲慢ごうまんさが、好意としてあらわになっている。それは、愛玩あいがん動物に向けるものに近いのだが、それゆえに見返りをほとんど求めない。
 レヴィアタン公爵家が純然たる経済力で皇王家に次ぐ力を持っているのは、ヒトに対する好意と興味によって商圏を開拓し、また他の商会を次々と取り込んでいったからである。そしてその手は、今も世界中に向けて伸ばされている。
 蒼龍公の一族が、誰かに手を伸ばすのをやめることはない。

「――自分のこと、気にすればいいのに」

 オリガのつぶやきは、多くの感情が混ざり合ったものだった。黒龍の一族である彼女も、友人を大切に想う心は持っているのである。
 もっとも、班員たちに話を聞いたレクティファールといえば、「やっぱり普通のお姫さまなんていないんだ」と落ち込むばかりだった。一癖ひとくせふたくせなら可愛かわいいもの、十癖百癖が当たり前なレクティファールの対人関係に、新たな側面が追加された。


 結局のところ、レクティファールの内職は、フェリス以外の班員には黙認されることになった。だが、フェリスはやはり認められないらしく、一日に一度は顔を出し、早く寝るように一言注意するか、眠気を誘うような飲み物を差し入れるようになった。
 レクティファールとしても邪険じゃけんに扱うことはできず、されるがままになっているのだが、フェリスの思惑が上手くいく気配はない。眠気さえ制御できる〈皇剣〉の前に、温めた牛乳など無意味だった。
 ただ、あまりフェリスに心配をかけるのもどうかと考えたレクティファールは、内職の時間を変えることにした。
 つまり、夜明け前に一度眠り、をして仕事をする。
 フェリスはレクティファールの睡眠時間が増えたと喜んだが、実際には――ということだ。
 そしてこの日の午後一時、内職をしているレクティファールのもとに、同じく午後に講義の予定がないルフェイルが訪ねてきた。
 彼は、日頃ほとんど変わらない表情を珍しく暗いものに変えており、付き合いの浅いレクティファールでさえ心底驚いた。

「――レクト、すまない」
「え、あ、うん、なんでしょう」

 何故なぜ謝る。そう思ったレクティファールは、次の瞬間猛烈な寒気に襲われた。
〈皇剣〉使いが風邪かぜをひくなど冗談じょうだんにもならない。ならば何故なぜか。それは、精神から身体に警告が発せられたからだと考えるべきだろう。なにせ、謝罪の言葉を口にしたルフェイルは、いつの間にかその手に一抱えほどの紙箱を持っており、それをレクティファールに押し付けてきたのだ。

「これを預かってくれ……! 頼む」
「何ですか、これ」
「見てみろ」
「はあ……」

 紙箱の蓋を開けると、そこには肌色。
 肌色、肌色、肌色だった。

「――」

 沈黙するレクティファール。何故なぜか額からねばり着く汗が噴き出た。
 ある種見慣れた、でもこんな昼間から目にするのはどうかと思う品々。

「ルフェイル」
「分かってくれとは言わん。趣味を押し付ける真似まねはしない。だが……!」

 あきれたように溜息ためいきくレクティファールの肩を引っ掴み、ルフェイルは血走った目で訴える。

「パティが俺の部屋を掃除そうじすると言って聞かん。うちの阿呆母あほははに頼まれたと言ってな。あいつは莫迦ばかだが、勘が鋭い。部屋に隠しておいては間違いなく見付かってしまう」
「見付かって困るようなものですか」

 艶本つやぼんなど、年頃の男なら持っていて何の問題もあるまい。
 レクティファールは周囲が許してくれないので持っていないが。

「見付かることは別に構わん。高等学院時代、いつの間にか綺麗きれいになっていた部屋の机の上に重ねて置いてあったことも、今では良い思い出だ。だが、だがな……」

 ルフェイルは震えていた。
 泣いているのかもしれない。

「パティがことあるごとに俺の大事なお宝の内容を持ち出し、こういうものが好きなのかといてくることには耐えられん! 分かるか! 幼馴染おさななじみに趣味嗜好しこうすべてを握られていることの苦しみが……! こういうの好きだよね、と書店で指差されることの痛みが……! くそっ、パティもいい歳だぞ、見掛けも悪くないんだぞ、なのに何であいつは全く恥ずかしがらないんだっ!」
「――へぇ」

 至極しごくどうでも良かった。
 心底どうでも良かった。
 それでも一応、レクティファールも男である。決して突き放すことはできない。

「虚しい、虚しいぞレクト。俺の兄貴は幼馴染おさななじみとくっついて結婚まで行ったのに、俺の初恋の人だったのに、畜生ちくしょう、何で俺ばかり貧乏くじを引かなくてはいけないんだ……」
「あ――と、うん、大変だった。大変だったね」
「分かってくれるか」

 がばり、と顔を上げるルフェイル。
 その鉄面皮に喜色が交じっていた。
 レクティファールは微笑ほほえみ、告げる。

「いや、全く」
「勝ち組め!」

 心の底からの罵倒ばとうであった。

何故なぜ罵倒ばとうされなければならないんでしょう。ひがみですか」
「うむ」

 素直にうなずくルフェイル。そんなおかしな態度が表に出るほど、追い詰められているらしい。
 レクティファールは仕方がないとでも言うように嘆息たんそくし、ルフェイルからの紙箱を備え付けの衣裳いしょう棚に押し込んだ。

「あとで別の場所に移しますが、とりあえずここで」
「感謝する……! 今日から俺を親友と、いや、こころの義兄弟と呼んでくれ」
ゆるい親友やお手軽な義兄弟ですね」
「きっかけとは些細ささいなものだ」
「まあ、確かに」

 うなずくレクティファール。言われてみればその通りだと思った。
 今の自分の立場とて、あの湖の出会いから始まったのだ。人生とは何が契機になるか分からない。

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