少女の血を少々

龍多

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 小学生の頃、親友がいた。
 名前はもう覚えていない。親友と呼ぶほどに仲が良かったのに覚えていないのは、覚えていたくなかったからだ。
 理由は簡単で、周囲に異性と仲が良いことを茶化され、面白がられたからだ。それだけなら良かったが、ちょっとした「変わり者」の扱いは、子供たちの成長に比例するように奇異の目になり、覚えたばかりの幼い猥談の種になり、隔絶されはじめ、最終的には心に傷を負うほどのいじめに発展した。
 親友とは、その過程のうちに距離を置くようになったが、周囲がそれを許さなかった。
「お前たち、つきあってんだ」
「やらしい、やらしい」
 甲高い少年少女のはやし立てる声が、鼓膜についてはなれなくなり、自分は貧血のような症状がではじめたし、とうとう親友は不登校になった。辛抱深く学校に残った自分が、結局唯一の標的になった。
 事が大ごとになったのは、秋に入りかけの、まだ暑い日、教室に一番太陽が照り付ける時間の、掃除の最中のことだった。何かと大人に反抗したがる盛りの少年少女たちは、最初は適当なそぶりで掃除をしていたが、そのうち自分を除いて係を放棄しはじめた。女子はアイドルがどうしたとおしゃべりに夢中になり、男子は箒を振り回してヒーローの真似事をしている。
 自分だって掃除はしたくなかったが、だからと言って除け者の自分が彼らと一緒に楽しくサボれるはずもない。ただ黙々と掃除をすることで、孤立を深めていくしかなかった。
 教室の後ろに掃き溜めたほこりやごみをちりとりで集めていたが、古い鉄製のちりとりは歪んでいて、ほこりがうまくかき集められなくてイライラする。そのちりとりにいきなり黒板消しが飛んできた。うまく当たったことに興奮した男子が、わあっと声を上げた。黒板消しのチョークの粉と、ちりとりのホコリが宙を舞って目に入った。ちくりとした痛みに顔をしかめていると、泣いていると勘違いしたのだろう。クラスの中でもボスのような振る舞いをする男子が、「泣いた、泣いた」と囃し立てた。周囲にいた男子も同調してけらけらと笑う。女子は大声こそ出さないものの、くすくすとこちらに視線を向けてやらしい笑みを浮かべている。
「今日はお見舞いはいかなくていいのかよ、プリント持ってかなくていいのかよ」
 親友の家へ宿題や配布物を届けに行くのは、いつの間にか自分の役割になっていた。正直、家とは反対方向だからあまり行きたくないのだが、他に届けようとする人もいないし、先生はすっかり自分に任せることに慣れてしまって、今更断れない状況になっていた。
 だからといって、自分を学校にひとり残して家でのうのうとしている親友に会うのも憂鬱なので、いつも家のポストに無造作にプリントを突っ込んでそのまま家までとんぼ帰りするのが、数日に一度の日課だった。正直、親友の顔は数か月見ていない。
 それでも、クラスメイトたちは容赦がなかった。
「家に行って、いやらしいことしてるんだ」
「大人ぶってるのよ」
 女子たちは口さがなく、近所のおばさん達みたいな醜い笑い方で円を作ってこちらをニヤニヤする。男子たちはコソコソしないが、露骨に淫猥なことを言ってのけた。
 もう、慣れっこだった。またか、と諦める反面、くらりと軽いめまいがした。その日は特別暑く、太陽まで容赦なく責めたてるから、軽いめまいでも重症に思えた。
 いつもだったら軽く言い返すくらいのことはするのに、その日はふいと顔を背けて、掃除を再開した。男子からはブーイングの声が聞こえたが、無視した。また蹴散らされてはたまらないので、先にちりとりのごみをゴミ箱に入れていると、再び黒板消しが飛んできた。
 今度はちりとりではなく、頭にあたった。
 ぽすっ、と間抜けな音がして、再びチョークの粉が舞った。思いがけず吸い込んでしまってけんけんと咳き込んでいると、ボス格の男子がニヤニヤしながら近づいてきた。
 昼間に動き回り汗ばんだのだろう。体臭が鼻につくほど近づいてきて、思わずのけぞった。
「近寄らないで」
「お前、もうセックスしたの?」
 その単語は、最近男子の間で流行っている言葉だったが、意味は知らなかった。ただ、馬鹿にされていることはよく伝わってきて、とたん、頭がカッと熱くなった。
 ちりとりを持っていないほうの手で彼の胸を強く押して突き飛ばした。2,3歩退いただけだったが、悔しかったのか、大声で「何するんだよ!」と叫ばれた。まだ声変わりを迎えてない声は甲高く、眩暈のする頭にはガンガンと響いた。音が頭の中で反響し、途端、うつむいていた自意識が首をもたげるのがわかった。
 もううんざりだ。どいつもこいつも。
 この、サル山のボスのようなこの男子といい、見て見ぬ振りの先生といい、逃げ出した親友といい。
「うるせえし、臭えんだよ!」
 どの位大きな声が出たのかはわからないが、女子がぎょっとした顔でこちらを見ている。次の瞬間には、サルが金切り声をあげて腹を殴ってきた。
 とんでもなく痛かった。胃が、体の内側ごとひっくり返るような感覚がした。
 喉にすっぱいものがこみ上げてくる。サルは何か激昂して叫んでいる。他の男子たちが、悪魔のような、心底楽しそうな顔で笑い声をあげている。教室が暑い。太陽が絞め殺すように暑い。女子たちがにこやかな声で「ちょっとお、やめなさいよお」と間延びした声をあげている。視界が歪む。陽炎のせいか。息ができないのは、痛みのせいなのか、暑さのせいなのか、眩暈のせいなのか。
 どいつもこいつも、くだらない。
 このくだらない、歪んだ世界をたたき割ってやりたい。
 手に持っていた鉄製の古いちりとりを、力いっぱい目の前に振り下ろした。血が一線、走った。額を切った男子が目を丸くして、間抜けな顔でちりとりを見ていた。その見開かれた目に向かって、ちりとりの歪んだ先を突き出した。
 湾曲したちりとりは、まるでその為に曲がっていたように、少年の顔の形にぴったりとはまり、目玉を潰した。
 少年の体臭に勝る血の臭いが鼻孔をついた。乾燥した紙粘土に定規を力いっぱい当てたときのような、ごりっとした感覚が手に伝わってくる。
 悲鳴が教室を包んだ。眩暈も、夏の暑さもかき消すほどの悲鳴がこだまして、一瞬で狂乱が巻き起こる。
 そこでようやく、殴られた腹がもんどり打つ感触がして、嘔吐した。
 飛び散る血と自分の吐き出したものがまざる床をぼんやりと見ながら、心が穏やかになるのを感じた。嘔吐と一緒に、嫌なことが出てしまったのだろうか。
 うずくまる自分の前で、顔を押えながら絶叫する男子を見た。小さな手の間から血がしたたり落ち、この世のものとは思えない声で叫んでいる。
 …こんなものか。
 何に対してそう思ったのかは、よくわからなかった。
 ただ、穏やかで心地の良い、暖かな何かに、その時、生まれて初めて出会ったのだ。

 手に持ったままのちりとりの柄は、炎で燻されたように、熱かった。
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