タルパと夜に泣く。

seitennosei

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タルパと夜に泣く。

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カーテンを締め切った自宅。
ダイニングテーブルに着き真面に思考出来ない状態で呆けている。
午前10時を回りいつもならとっくに店舗に移動している時刻だ。
早く行かないと一条君が集荷に来てしまう。
だけど、身体が動かない。
清太郎は影山百合子だった時の私を見ていた。
何て事だろう。
どうして物事って最悪の方にしか行かないのだろう。って、この世の全てを恨みたくなる。
神様なんて居ないんだ。
居るのだとしたら私の事が嫌いなんだ。
これ以上無いくらいに、一番見られたくない人に一番見られたくない場面を見られ続けていたなんて…。

私は数年前から月に3~4のペースで男と会っていた。
近所だと誰かに見られる可能性があるので、車で1時間程のところにある少し栄えた街にある表向きはビジネスホテルと謳いつつもご休憩での利用も設定されているホテルを行き着けに決めていた。
その街は都下ながら多くの沿線が乗り入れ、大きな駅にはいくつかのファッションビルが立ち並んでいる。
その中にある何件かの雑貨屋さんにハンドメイド商品を卸している関係で月に3度程足を運んでいる為、男と会うのはそのついでが多かった。
アナとして身体の欲求を解消し、町田手毬としても清太郎を好きになってからは自然と止めていたけれど、数ヶ月前までの私はかなりの頻度でそういった方法で心の穴を埋めていた。
思い返してみれば路地に佇むホテルの隣、表通り側には大きな家電量販店やオフィスビルが立ち並んでいたような気がするけれど。
まさか、その何処かに清太郎が居たなんて…。
初めてアナになった日を思い出す。
その時の清太郎は町田手毬の事を「ビッチ」だと断言していた。
言われた瞬間は何を根拠にと腹も立てたが、これ程までに立派な根拠があったとは…。
今、完全に腑に落ちた。
何度も見られていたのなら清太郎の反応も頷ける。
寧ろ今日の大志との状態まで目にしたのにも関わらず「今でも完全に信用してないわけじゃない」という言葉を引き出せた事が不思議なくらいだ。
私はどれだけ清太郎を傷付けていたのだろう。
一体どの口が元カノの事を言及してんだか。
反省してももうやり直せない。
こつこつ積み上げてきた関係でも壊れる時は一瞬なのだと思い知る。
なんて残酷なのだろう。
それに清太郎が私を拒絶した理由は大志との事でも過去の男遊びの事でもなかった。

『お互いに自分よりも相手が傷付く方を選択しちゃう人間』

清太郎の言う通りだ。
元カノと会うくらいなら早く私を好きだと言ってくれれば良いのに。
どこかでそう思っていた。
町田手毬のままでは男を受けいられないかもしれない。
その問題点を免罪符に自分から関係の進展を食い止めるような態度もとっていた癖に。
アナの時でしか見られない清太郎を手放したくなくて現状維持に努めていた癖に。
清太郎の方からきて欲しいだなんて。
臆病な彼に対し随分と酷な役目を背負わせようとしていた。
卑怯なのは私なのに清太郎は最期まで一方的に責めるのではなく『お互い』という言葉を使って表現してくれていた。
その優しさが今は痛い。
これからどうすれば良いのだろう。
アナになりきったとしても清太郎と顔を合わせてまともで居られる自信が無い。
だけど。
もし今の状態でアナが消えたら?
清太郎はどうなってしまうのか。
最後に見た苦しそうな表情が浮かぶ。
せめてもうこれ以上傷付けないよう、私は本物のアナになる必要があるのかもしれない。
アナとしてだけでも清太郎と居たいという自分のエゴが全くないかと問われれば否定できないけれど。
これからは私の願望は一切胸に仕舞い、清太郎が望むアナで居続けよう。
取り敢えず今夜、仕事が終わったらアナになろう。

そして私は源造さん宅の鍵を持ち店舗に向かった。


水中で無理やり呼吸をするような苦痛。
失恋がこんなに苦しいものだとは思わなかった。
比喩でなく本当に身が引き千切れているのかと思う程に痛くて。
清太郎の悲しそうな顔を思い出す度に心臓が大きく跳ねる。
その鼓動に翻弄されるくらい身体に力が入らなくて。
漂うようにただ生命を維持する他ない。
何も上手く思考出来ないのに、脳内がフル回転で「つらいつらい、いやだいやだ」と繰り返していて。
壊れたレコードのように延々と続くそれに何もかも引っ張られ頭が狂ってしまいそうだった。
別れ話にごねる人を馬鹿にしていたけれど、今日の私は恥ずかしい事にまさにその状態を晒した。
失恋で死んだ昔の歌人を笑っていたけれど、このままいけば私も死んでしまいそうだ。
失恋ごとき、通常生きていれば当たり前に経験する痛みだろう。
人と向き合い深く関係を育む事から逃げてきたツケが今初めて回ってきたのだ。
そしてもう1つ。
「やっぱり私は私のままでは男を受け入れられなかった。」
はっきりと突きつけられた。
こうして決定的になるのが怖くて今迄一度も試す事をして来なかったのだ。
だけどもう…。
どうせ清太郎と上手くいかないのなら全てどうでもいい。
町田手毬としては一生一人で生きていく事が決定したに過ぎない。

23時。
アルコールの匂いが充満した源造さん宅の居間。
畳の上で清太郎は眠っていた。
今朝あんなことがあって、どんな顔をしてアナのフリをすればいいのかと思案していた私はそれを見て一気に力が抜け落ちてしまった。
寝息が聞こえる。
畳に手を着き顔を覗き込むと目の下に深く刻まれた隈が見えた。
そう言えば昨夜は眠れなかったと言っていたな。
そんな状態で今朝私と一悶着あって。
きっとその後深酒をして寝落ちたのだろう。
こんなに荒れている清太郎を見るのは久しぶりだ。
ギュッと胸が痛む。
清太郎は離れると決めた途端お酒に手を出す程に私の事が好きで。
私だって朝から何も喉を通らなくなるくらいに清太郎の拒絶が耐え難くて。
どうしてこんなに好き合っているのに私達は一緒に居られなくなったのだろう?
頭では分かっている。
私が沢山間違えたからだ。
言うべき言葉も言わなかった。
好きなだけでは駄目だって事も分かっている。
全て理解はしているのに。
心だけがどうしても着いてこない。
不意に手を伸ばす。
ひたっと清太郎の頬に届いた。
ああ、触れられる距離に清太郎が居るんだと思った。
この時だけは。
アナとして清太郎と過ごすこの時だけは失うわけにはいかない。
だから全力で…。
人間の出来損ないな町田手毬なんて消す勢いで、私はアナになろう。
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