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第三話 初孫誕生
第三節
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初孫誕生、第三節
いずれにしても、この騒動は、寿々子と、誠一にも知られることになってしまった。
「そう、、、。で、梅子さんはどうしてる?」
寿々子は、女として、彼女が心配だった。
「まあ、今は何とか落ち着いていて、友子さんと一緒にいますけど、僕が悪いことをしたなと、不憫でなりません。」
裕は、正直に言った。
「裕、それは思わないほうがいいぞ。こうなるのは、もう仕方ないことなんだからね。それを責めたって何も始まらん。そうではなくて、これからどうしようかを考えよう。」
誠一も、そう言ってくれたのだが、何か自分に言い聞かすような顔つきをしている。
「すみません、お父さん。」
「俺は、結局どうしたらよかったんだろう、、、。」
新五郎はまだ迷っている様子だ。
「俺は、まだ、自分のやっていたことが間違いだったと思えないんだ、、、。」
「まあね、初めて親になるからね。そりゃ、どうしたらいいかわからなくなって、失敗することは誰でもあるわよ。生まれてからのほうが、失敗することは多いのよ。だから、気にしないの。」
寿々子は、そう言って若い親を励ましたが、彼はまだ、結論には到達していないようである。
「何とか、あいつが気を楽にしてほしいんですけど、俺はどうしたらいいものだか、全くわからない。あいつには、もう少し肩の力を抜いてもらいたいのですが。どうしたらいいものですかね。」
「しばらく、静かにさせてやったほうがいいかもな。許可をもらったら、旅行にでも出すか。」
誠一はそう発言したが、
「そうですね、でも、裕一人では、店の仕事はできませんよ、お父さん。」
寿々子の反対で没になった。
「それに、まだ、買取にいかなきゃいけない家もたくさんあるし、、、。仕事を言い訳にしてはいけないというが、俺、もういろんなところから、契約してしまったので、、、。」
「まず、裕も、新五郎も、自分が悪いと決して思ってはならんぞ。それだけは今、はっきりさせておこう。」
誠一はそういったが、その通りにできないのが人間というものである。全員大きなため息をついた。
と、店の戸を叩く音がした。
「あれ、誰ですかね。」
裕が立ち上がって、店の方へ行くと、玉が立っていた。玉は、紙に何か書いて、裕に渡した。
「あ、そうか今日、稽古だったんですね。すみません、忘れてました。」
玉は、黙って首を傾げた。続けて、もう一枚紙に書いた。
「何かあったって、、、。逆に先生のほうがうらやましいですよ。今でも旗本様のお嬢様の下で、働いているんでしょ。そうやってちゃんと自分の特技を生かしてて。僕は何もないし。今日なんて、僕が存在しているせいで、本来幸せであるはずのことが、不幸に変わってしまったんですから、、、。」
裕は、そう言って、玉から渡させた紙に、「先生がうらやましいです」と書いた。
「きっかけを作ったのはそちらでしょう。」
裕の目の前にそのような文字が現れる。
「先生。」
「たぶんきっと、あなたが、もう少し強くなれば変わると思いますよって、どうですかね。僕はいつまでもこの姿のままですし、、、。」
そう言って裕は、自分の左手を見た。中指の長さは、少なくとも五寸以上あった。このせいで、何度周りの悪童にからかわれてきただろうか。できれば、指を詰めたいと思ったくらいだ。
「まあ、確かに、裕さんには、難しいかもしれませんが、誰でも、前向きに生きていれば、安心してくれると思います、、、か。宇多川先生のように、これだと言えるものがあれば。」
裕は、「先生のような、誰かに教えられるほどの特技があればと思います」と書いて、大きなため息をついた。
「次の稽古、来れます?」
その文字見て、裕は急いで「行きますよ」と書き込んだ。玉は、悩んでいる裕の肩をそっとたたいてくれた。
「本当は、泣きたいですよ。僕だって。皆、自分が悪いんですもの。」
裕は、このセリフを紙には書かなかったが、師匠はその顛末をわかってくれたようである。でも、その答えはどうなるのか、師匠も知っているから、それ以上紙に書くことはしなかった。
ただ、上がり框に座っているだけだったけど、人がいるというのは不思議な物。一人でいると、どんどん悪い方に走って行ってしまうが、人がいるとそういうことにはならない。まあ、世間的に悪いということもあるが、やっぱり一人だけで考え続けるのは、よくないことだなあと、思われる。人がいるということによって、恥ずかしいところを見せまいとか、汚いところを見せるものではないと感じさせる作用がしっかり働けば、それは凶悪な犯罪とか、自身で向こうへ行ってしまうとか、そういう事は激減するのである。事実、裕も、内心では、責任をとって、自分が消えるべきではないかと考えていたが、玉が上がり框に座っている以上、そういう考えを打ち明けることはできなかった。代わりに彼は、こんなことを言った。
「そうですね。先生のおっしゃる通りですよ。誰でも、どうしても変えられないものはありますし、ただ手を合わせる以外には、手段も何もないこともあるでしょう。人であれば、そういう事に、一度や二度は遭遇しますよね。今がそういう時なのかな。まあ、仕方ないとして、できることをやっていくことにします。」
玉は黙ったまま答えない。それもそのはず。彼には空中を伝わる音は聞こえないのだから。
裕は、急いで紙をとり、「一度や二度は、こういうどうしようもない時もあるでしょうね。」と書いた。玉は、紙を受け取って、「いえ、一度どころか。」と付け加えた。
「人生は、そういう事の連続です、そうですか。そうなったら、辛すぎて、もうどうしようもなくなるんじゃないかな。」
裕が、落胆した表情を見せたので、師匠は「お強くなりなさいよ。」とだけ書いた。
「はい、すみません。きっと人生とは、楽しいことよりも、苦しいことのほうが多いのかもしれませんが、頑張ってみます。」
裕が、「頑張ってみます。」と書くと、「当り前のことですよ。」と師匠は書きこんでにこりと笑った。
「はい。」
弟子は、まだ不安そうであったけど、やっと返事をすることができた。人がいるということは、嫌なことでも無理やり受け入れることができるようになるという効果もある。一人で悩んでいたら、そういうことはできない。
「次の稽古の日には、忘れないで来てくださいね。裕さんが、お稽古をすっぽかしたのは、生まれて初めてだったから、あ、そうでしたっけ。先生はそういう事も覚えていらっしゃるんですか。」
裕は、差し出された紙を読んで、師匠の記憶力に驚く。
「稽古の事は、すべて記録していましたから。そういう事だから、何か重大なことでもあったなと思ったのです、ああ、そ、そうですか。すみません。ご心配までかけてしまって。」
そうやって相手がいれば、相手に対して申し訳ない気持ちもわく。だからこそ、しっかりしなければと改めて、人は強くなる。全聾となれば、事情を知りたければ直接こうして尋ねるしか方法はない。それは、玉にはやむをえないことではあるのだけれど、裕は師匠がいてくれて本当に良かったと思った。もし、全聾でなかったら、こうして尋ねてくることはまずないとも考えられる。確かに、様々なところで迷惑になる原因になるのかもしれないけれど、こうして、自分には欠かせない存在になってくれるのであれば、全聾も悪いことではないと言えるかもしれなかった。悪いことというのは、そうやって、何か良いことをはらんでいる。
そして、それを発見できるかできないかが、人の幸福感を左右する。仏法では、すべてのものは存在するだけであり、それを人がどう解釈するかで物事が起きていき、その結果として人の幸不幸が決まるというが、まさしく、人というのは、理屈では動けるものではないから。
裕も、自分の存在がそういう事であればいいなと思った。
悪いことも、いいことも、人が勝手にそう思っているだけに過ぎない。
だってただいるだけなんだもの。
「わかりました。先生。次の稽古には、必ず行きますので。もう二度と、すっぽかすようなことは致しません。」
裕は、「次は必ず行きます」と紙に書いた。
玉も、「よかったです」と紙に書いた。
そのころ、誠一たちは、友子を呼び出して、まだ会議を続けていた。
「そうか。まだ、不安定なままか。」
「すみません。私の不注意で。」
「いやいや、友子さんが、謝っても仕方ない。」
誠一は、こういうときはやさしかった。
「そうよ。それに、動かないとお産が重くなるのは、経験として私が知ってます。本当は、悪阻がなくなったら、積極的に動いたほうがいいの。だから、友子さんが散歩に出したのは、間違いではないわよ。」
寿々子も決して彼女を責めたりはしなかった。
「しかし、こうなってしまうと、本当に問題だなあ。その薩摩焼を壊してしまうとか、そういう事を繰り返したら、店の信用にも関わるし。」
誠一が商売人らしく言った。確かにそうである。商品を壊したら、大変なことになる。
「私も、彼女の話をもう少し聞いてあげられる能力があれば。」
「結局、俺のせいなのかなあ。」
新五郎はさらに小さくなってしまった。
「まあ、誰のせいにしようとしたら、埒が開かない。その話はもうやめにしよう。それより、これからどうするのかを考えなくちゃ。」
「でも、お父様、きっと梅子さんは、ものすごく心労がたまっていると思いますから、これからも同じことを延々と語り続けるでしょうし、それに、生まれてきた子が、奇形児であれば、もしかしたら、向こうへ行ってしまう可能性もないわけではないと思うんです。」
こんな発言は、失礼かもしれないが、可能性は確かにないわけではない。梅子が最も恐れていることはそれなのだから。
「うん、確かにそうだ。梅子はさほど強い女性というわけでもないから、、、。俺は何も支えてやれないのか。」
「そうよねえ。梅子さん、今も不安でたまらないし、それを解消する道具は何もないわけだし、、、。」
寿々子も、もどかしい気持ちでいた。自分の時も確かにそうだった。ある意味では神頼みするしかないと考えたこともあった。
「お母様の、お話を聞かせてやることはできないのですか?私、裕さんに聞いたんですけど、新五郎さんが生まれた時に、やっぱりお母様も周りからものすごく期待をされて、その抑圧でおかしくなってしまいそうになったと聞きましたわ。」
不意に友子が発言した。
「そうねえ。でも、傷のなめあいをしても解決に向かうわけではないし、私の時と、今では状況も違うのよね。私の時は、まだ、お父さんの弟さん夫婦も生きていて、お二人に手伝ってもらっていたから、何とか産んでみようという気になれたようなもので。」
寿々子がそういうと、
「そうでしたね。おじさんは、本当にまめな人だったな。でも今は、おばさんが、どこに誰がいるのかわからないほど、悪くなってしまっているから、うちの手伝いはできないと言っていた。」
新五郎が説明して、友子は、何があったのかすぐにわかった。
「まあ、他人を頼るのはやめておこう。それより、梅子さんに、何とかして産んでもらうようにもっていってもらわなければいかん。そうするには、とにかく梅子さんは、不安な気持ちを聞いてもらうしか前に進めない。」
「そうね。私も、そうだと思う。でも、私は、あの時の薩摩焼の事で、もう梅子さんに信頼はしてもらえないと思うわ。きっと、梅子さんは、あきんどには話を聞いてもらいたくないのね。あの時、私が、薩摩焼のほうへ行かないで、話をしっかり聞いてあげる側についててあげれば、もう少し、彼女の怒りは軽減されたと思うのよ。私も、今回は悪いことをしてしまったと反省してるの。」
誠一の発言に友子は即答した。梅子の怒りから判断すると、自分には、梅子の話を聞いてやることはできないなと確信していた。
「そうだなあ、俺も、男として店は続けていかなきゃならないし。店がなければ、うちは困るだろうし。」
「男も女も関係ないけど、商売をしなければ、ご飯が食べられないわ。」
新五郎の発言もまた事実だった。
「うーん、どうしたらいいんだろう。」
「あたしが、連れて行ってみましょうか?」
寿々子は、あることを思いついた。
「連れていくってどこに?」
「阿部千春先生のところですよ。誰か、そういう事を聞いてくれる人がいないと、梅子さんは、本当に壊れてしまいますよ。そうしたら、赤ちゃんも危ないでしょうしね。私も、そうだったけど、しばらく、あそこで静養させてあげたほうがいいかもしれないわ。」
「阿部さんも忙しいのではないか?今日日、胡弓の先生は少ないんだから、、、。」
誠一は、そう心配した。最近の世情では、胡弓を習ってみたい人は多いようであるが、教えてくれる先生はなかなかいない。箏や三味線はよくあるが、胡弓というものは、奏者が少ないのが実情である。特に、最近はやりだした、天理教の関係者でないとなれば、なおさらである。
「いいえ、他に方法はないんじゃありませんか。だって、私たちには到底解決できないのは、わかってるんですから。それなら、実行するしかないですよ。もしかしたら、そうすることも親の務めなのかもしれませんよ。私、明日、阿部先生の下へ、梅子さんを連れて行ってみます。」
寿々子の決断は、変わらないようだった。こういう時になると、女というものは強くなるものだ。男はどうしても周りの状態とかそういう事を考えてしまうものではあるが、こういうとき、猪突猛進に行動できるのは女のほうが上である。
「そうだな、お母さんの言う通りかもしれない。こういう時は、俺たちではなく、他人のほうが、うまく指摘してくれるかもしれない。俺たちでは、どうしても、感情が入ってしまうだろうし、うまく伝えられないよ。同じことであっても。」
と、新五郎も加担した。それはその通りなのかもしれなかった。他人のほうが、指摘してくれるのはうまい、とは名言で、家族では、どうしても伝えられないことは、実は意外に多いのである。
「あ、私も賛成よ。そういう人がいてくれるんなら、今はただ事ではないんだし、頼ってもいいと思うわ。そりゃ、どうしようもない時だって誰でもあるわよ。まあとにかくね、そうして誰かに話しながら、やっていくしかないでしょう。」
「そうかそうか。友子さんもそういうんだから、そうしたほうがいいな。よし、そうしてみるか。こうなったら、しっかりと、度胸を据えるしかないからな。」
誠一がそう結論を出したので、皆の意見は一致した。
翌日。
裕も、友子も、他の人たちも、何も発言はせず、静かに朝食をとった。食べ終わると、寿々子が、ふてくされたように布団に寝ていた梅子を起こして、身支度をさせ、二人そろって出かけて行った。友子だけが、玄関先まで見送って、あとの人たちは、心配しながらも何も言わなかった。
とりあえず、寿々子と梅子は、阿部千春の家に行った。二人はとりあえず、段差のない部屋に通された。寿々子が事情を話すと、千春は、そういう生徒さんは多いので、うちで勉強していきけばよい、寝食は、隣の離れを使ってくれればいいからと、静養するのを許してくれた。
と、言うわけで、梅子は千春の下で暮らすことになった。
当初、梅子は胡弓の教室なんて単にそれを習いにいくだけであって、ただ、演奏技術を伝えるだけではないかと思っていた。
確かにそれもそうなのであるが。
でも違っていた。
生徒さんたちは、やっぱり大量にいた。それは音楽教室だから、生徒がいなければ成り立たないのであるけれど。
勿論、胡弓の演奏もするのであるが。
梅子は、足の不自由な千春の代わりに、生徒さんを玄関先へ出迎えて、お茶を出し、終わったらまた送り出す役目を与えられた。
「先生、うちの子も、最近落ち着いてきて。」
稽古が終わった後、胡弓を片付けながら、生徒さんの女性がそういった。ああ、そうなんですか、と、千春は、弓の毛に松脂を塗りながら答えた。
「あの時は本当に大変なこともありました。でも、おかげさまで、何とか、落ち着いてくれたみたいです。本当に、なんで自分は周りの人と違うんだと怒鳴られた時は、地獄に落ちたのではないかと思われるくらいつらかったですけど。まあ、本人が仕方ないと認識するしかないですものね。あたしが代理で変わってやりたいとなんども思いましたけど、そうやって変な同情をするよりも、かえって突き放してしまったほうがいいのかもしれないですね。私、こっちに来て、それをすごく勉強させてもらいました。」
「まあ、本来、違うっていうのは、当たり前なんですけどね。以前はそれでよろしかったのですけれども。」
千春は、生徒さんの話に当たり前のように返答した。
「なぜか、そういう事にこだわるようになる時代になりましたね。例えば、あの人はこういうものを持ってるのにうちはないとか。そういう事が気になる余裕を持っていられないのが、私たちの世代でしたけど、今の子はそういうもんじゃないのですね。」
と、いう事はつまり、子供さんを持っているお母さんなのだろう。
「あの、すみません。違うって、どういう事なんですか?」
梅子は、恐る恐る聞いてみた。
「ええ、娘の事なんです。生まれた時から、ちょっと顔におかしなあざがありまして、よく近所の子供にからかわれていて。その時に、よく私に怒鳴りつけてきたんですよ。もともとね、気性が荒っぽくて、何かあるとすぐに怒鳴ったりする子でしたけど。あの顔を作った私が悪かったかなあと、本当に後悔しましたよ。まるで、お岩さんを作ってしまったみたいで、娘に対して申し訳が立たないと思いましたし。」
「まあ、その申し訳が立たないと思うのが間違いなんですけどね。」
と、千春が付け加えた。
「その時に、周りの人に、こんな子を作ったのだから、責任をとれとか言われなかったんですか?」
梅子が聞くと、その生徒さんは、ニコッと笑って、あっさりと肯定した。
「ええ。さんざん言われましたよ。特に年寄りからは一層の事。誰も味方になってくれる人などまるでいないのです。そして、娘には怒鳴られる一方で、私は、なんのために生きているんだろうと、自殺まで考えたことだってまれじゃなかった。もしかしたら、娘以上に死にたかったかもしれないですけど、それさえ許されないんですよ。母親だからね。そうなると、もうどうにもならないですよ。でも、やっぱり、自分自身を持って生きているとね、人生は運が向いてくるものですね。」
「どういうことですか?」
「ええ、私は、たまたま江戸市内で聞いた胡弓に感動してしまって、それでこっちへ来させてもらっているんですけれども、ここへ来る前がすごく大変だったのよ。年寄りは本当に気まぐれで、娘の存在が迷惑だと言っておきながら、私が何かしたいと言いだすと、母としてなまけていると言いだすし。でも、そこを打ち破って、こっちへきてしまうと、本当に楽になって、かえって娘と向き合おうという気持ちにもなれたのよ。だから、私はこちらへ来させてもらっているわけ。まあ、娘があの顔でいるのはもう変えられないし、私も、家族もこれ以上優しくはなれないけど、何とか生きて行こうという気にもなれるの。そういう場所があるのとないのでは、偉い違いなのよね。」
「娘さん、まだ、顔の事で怒ったりするんですか。」
「ええ、しないと言ったらうそになるでしょうね。とりあえず今は、落ち着いてくれているけど、果たしてどうなのかしら。でも、それにずっと一緒にいたら、もう私は、大爆発して、終わりになっていたかも。不思議なことにね、少し、離れる時間を作ると、もう一度向き合おうかなという気持ちにもなれる。」
「じゃあ、娘さんを作らないほうがよかったのでは?」
「そういうわがままは言えないわよ。ちょっと宗教的だけど、娘は勝手に生まれてきたわけではないだろうし。そりゃあね、娘に怒鳴られてばかりいた時は、本当になんでこんな奴が生まれてきたんだって、怒ったりもしたけどね。でも、娘がいることで、何から何までが悪くなったのかというとそうでもないのよ。」
意外なセリフだった。そこまで娘さんが迷惑をかけているのなら、捨ててしまうとか、楽になる方法はあるはずだ。それもいけないという事だろうか?
「あの、すみません。今までの話を聞いていると、娘さんがいないほうがよほど幸せになれたのではないかと思うのですけれども、それは違うのですか?」
「若い人は、そう考えるのよね。確かに私も、はじめのころはそうだったかも。でもね、私、本当のことを言うとね、ものすごい三日坊主で、なんの特技もなくて、本当に悩んでいたことがあったけど、娘が怒鳴ってくれたおかげで、この教室を見つけることができて、そして、暇さえあれば打ち込むことができて、最近は、鶴の巣ごもりまで弾けるようになってね。そうしたら、気まぐれな年寄りたちが、わしに何か弾いてくれなんて言いだすまでなったのよ。今まで、何を習っていても、三日坊主ですぐ飽きていた私が、ここまで一つの事を極めたのは、娘が怒鳴ってくれたおかげとしか言えないわ。そうなると、娘に感謝しなければならないわよね。今までは、本当に嫁いだ家の中で居場所がなかったんだけど、今は、お正月とかお盆とかで親戚が集まると、必ず一曲やってくれって、お願いされるという役目をもらうことができたから、そう考えれば、娘の存在も悪いことではないかなあ。」
「そうなんですか!でも、そう考えられるなんて、すごいです。私には、できません。」
「そんな、はじめから決めつけてはだめよ。私の場合は、事実そうだったから。きっと、ここまで努力できたのも、娘がきっかけを作ってくれなかったら、何もなかったと思うわ。もちろん、そうなれるように、阿部先生が指導してくれたのもあったけど。」
「いいえ、私は何もしておりませんよ。ただ、ご自身が努力されただけでしょう。私は、単に、胡弓の弾き方と、楽譜の見方を教えただけです。他のことは何もしておりません。」
千春が、二人の話を聞きながら、そう訂正した。
「何を言うんですか、先生。先生は初めのころは厳しかったけど、それで今の私があるんです。はじめは、先生にさんざんお直しさせられて、もうさんざんでしたが、でも、わからないときはちゃんと教えてくれましたし、私の愚痴も聞いてくれて。もう、こんなにうれしいことは、ありませんでしたわ。」
「まあ、確かに、愚痴を聞いてもらうほどうれしいことはないですよね。でも、それ以外私は、何一つ手を出してはおりません。きっと、娘さんから逃げたいとか、いろいろ理由をかこつけていたと思いますが、一番大切なのは、あなたがこの楽器を続けたかった気持ちだけです。他は何もありませんよ。」
「そうですか?先生は、いつまでたっても謙虚なままですわ。あれだけ厳しく指導していただけましたのに。」
「そんなことはどうでもいい。少なくとも、私は、稽古を続けろと言った覚えはありませんから。まあ、稽古を続けさせてくれたきっかけは、娘さんなのかもしれないけど。」
「娘さんですか?」
梅子は、思わず聞いた。
「本人が、ではなくて。」
「ええ、そういう見方もありますよね。彼女の、変われない状況が、彼女を胡弓の名人に仕立て上げたと言ってもいいですよね。まあ、たぶん不便な子を持ってしまうということは、辛いことのほうが多いかもしれませんよ。でも、一つか二つはよいこともある物なんでしょう。」
「まあ、先生は、まとめるのもお上手でございますのね。」
生徒さんは、いつまでも明るかった。
「そういうものなんですか?すべておしまいなのではなくて?」
究極の問いかけであった。
「ええ。まあ、誰でもそういう事をもたらすようにできてますよね。子供っていうものは。ただ、それに気付けるか気づけないかは、また技術が要る様です。」
千春はそう答えを出してくれた。梅子は母親にも同じ質問をしてみた。
「先生のように、ああしてお上手にまとめるということは私にはできません。でも、先ほど、申しあげたように、何か新しいことを学んで、家庭での居場所を提供してくれたきっかけになることはたしかなようです。」
母親の答えはこれだった。
と、いう事は自分にも同じ幸せがやってきてくれるだろうか。
「私も、同じようになれますか?」
梅子は聞いた。
「なれますよ。先ほど、先生が言ったように、気が付くまでが相当大変だとは思いますが。もしかしたら、私が気付かないだけで、もっと幸せなことをもたらしてくれているかもしれないです。きっと。」
母親は、にこりと笑ってそう答えた。先輩らしく、静かな笑顔だった。
その日の夜、梅子は与えられた部屋に戻って、そっと机の前に座った。
「何か、もたらしてくれるきっかけになるのなら、、、。」
ぴく。
同時に腹の中で何かが動いたような気がした。
「こうなったら、、、。」
こうなればもう責任をとるしかない。梅子は覚悟を決めて、あることを決断した。
あの生徒さんが教えてくれたような技術を身に着けることを、まずは、人生の目標にしてもいいとおもった。そのためには、泣いてはいられない。よし、強くなろう。
梅子は机に向かって、紙に何か書き始めたのであった。
いずれにしても、この騒動は、寿々子と、誠一にも知られることになってしまった。
「そう、、、。で、梅子さんはどうしてる?」
寿々子は、女として、彼女が心配だった。
「まあ、今は何とか落ち着いていて、友子さんと一緒にいますけど、僕が悪いことをしたなと、不憫でなりません。」
裕は、正直に言った。
「裕、それは思わないほうがいいぞ。こうなるのは、もう仕方ないことなんだからね。それを責めたって何も始まらん。そうではなくて、これからどうしようかを考えよう。」
誠一も、そう言ってくれたのだが、何か自分に言い聞かすような顔つきをしている。
「すみません、お父さん。」
「俺は、結局どうしたらよかったんだろう、、、。」
新五郎はまだ迷っている様子だ。
「俺は、まだ、自分のやっていたことが間違いだったと思えないんだ、、、。」
「まあね、初めて親になるからね。そりゃ、どうしたらいいかわからなくなって、失敗することは誰でもあるわよ。生まれてからのほうが、失敗することは多いのよ。だから、気にしないの。」
寿々子は、そう言って若い親を励ましたが、彼はまだ、結論には到達していないようである。
「何とか、あいつが気を楽にしてほしいんですけど、俺はどうしたらいいものだか、全くわからない。あいつには、もう少し肩の力を抜いてもらいたいのですが。どうしたらいいものですかね。」
「しばらく、静かにさせてやったほうがいいかもな。許可をもらったら、旅行にでも出すか。」
誠一はそう発言したが、
「そうですね、でも、裕一人では、店の仕事はできませんよ、お父さん。」
寿々子の反対で没になった。
「それに、まだ、買取にいかなきゃいけない家もたくさんあるし、、、。仕事を言い訳にしてはいけないというが、俺、もういろんなところから、契約してしまったので、、、。」
「まず、裕も、新五郎も、自分が悪いと決して思ってはならんぞ。それだけは今、はっきりさせておこう。」
誠一はそういったが、その通りにできないのが人間というものである。全員大きなため息をついた。
と、店の戸を叩く音がした。
「あれ、誰ですかね。」
裕が立ち上がって、店の方へ行くと、玉が立っていた。玉は、紙に何か書いて、裕に渡した。
「あ、そうか今日、稽古だったんですね。すみません、忘れてました。」
玉は、黙って首を傾げた。続けて、もう一枚紙に書いた。
「何かあったって、、、。逆に先生のほうがうらやましいですよ。今でも旗本様のお嬢様の下で、働いているんでしょ。そうやってちゃんと自分の特技を生かしてて。僕は何もないし。今日なんて、僕が存在しているせいで、本来幸せであるはずのことが、不幸に変わってしまったんですから、、、。」
裕は、そう言って、玉から渡させた紙に、「先生がうらやましいです」と書いた。
「きっかけを作ったのはそちらでしょう。」
裕の目の前にそのような文字が現れる。
「先生。」
「たぶんきっと、あなたが、もう少し強くなれば変わると思いますよって、どうですかね。僕はいつまでもこの姿のままですし、、、。」
そう言って裕は、自分の左手を見た。中指の長さは、少なくとも五寸以上あった。このせいで、何度周りの悪童にからかわれてきただろうか。できれば、指を詰めたいと思ったくらいだ。
「まあ、確かに、裕さんには、難しいかもしれませんが、誰でも、前向きに生きていれば、安心してくれると思います、、、か。宇多川先生のように、これだと言えるものがあれば。」
裕は、「先生のような、誰かに教えられるほどの特技があればと思います」と書いて、大きなため息をついた。
「次の稽古、来れます?」
その文字見て、裕は急いで「行きますよ」と書き込んだ。玉は、悩んでいる裕の肩をそっとたたいてくれた。
「本当は、泣きたいですよ。僕だって。皆、自分が悪いんですもの。」
裕は、このセリフを紙には書かなかったが、師匠はその顛末をわかってくれたようである。でも、その答えはどうなるのか、師匠も知っているから、それ以上紙に書くことはしなかった。
ただ、上がり框に座っているだけだったけど、人がいるというのは不思議な物。一人でいると、どんどん悪い方に走って行ってしまうが、人がいるとそういうことにはならない。まあ、世間的に悪いということもあるが、やっぱり一人だけで考え続けるのは、よくないことだなあと、思われる。人がいるということによって、恥ずかしいところを見せまいとか、汚いところを見せるものではないと感じさせる作用がしっかり働けば、それは凶悪な犯罪とか、自身で向こうへ行ってしまうとか、そういう事は激減するのである。事実、裕も、内心では、責任をとって、自分が消えるべきではないかと考えていたが、玉が上がり框に座っている以上、そういう考えを打ち明けることはできなかった。代わりに彼は、こんなことを言った。
「そうですね。先生のおっしゃる通りですよ。誰でも、どうしても変えられないものはありますし、ただ手を合わせる以外には、手段も何もないこともあるでしょう。人であれば、そういう事に、一度や二度は遭遇しますよね。今がそういう時なのかな。まあ、仕方ないとして、できることをやっていくことにします。」
玉は黙ったまま答えない。それもそのはず。彼には空中を伝わる音は聞こえないのだから。
裕は、急いで紙をとり、「一度や二度は、こういうどうしようもない時もあるでしょうね。」と書いた。玉は、紙を受け取って、「いえ、一度どころか。」と付け加えた。
「人生は、そういう事の連続です、そうですか。そうなったら、辛すぎて、もうどうしようもなくなるんじゃないかな。」
裕が、落胆した表情を見せたので、師匠は「お強くなりなさいよ。」とだけ書いた。
「はい、すみません。きっと人生とは、楽しいことよりも、苦しいことのほうが多いのかもしれませんが、頑張ってみます。」
裕が、「頑張ってみます。」と書くと、「当り前のことですよ。」と師匠は書きこんでにこりと笑った。
「はい。」
弟子は、まだ不安そうであったけど、やっと返事をすることができた。人がいるということは、嫌なことでも無理やり受け入れることができるようになるという効果もある。一人で悩んでいたら、そういうことはできない。
「次の稽古の日には、忘れないで来てくださいね。裕さんが、お稽古をすっぽかしたのは、生まれて初めてだったから、あ、そうでしたっけ。先生はそういう事も覚えていらっしゃるんですか。」
裕は、差し出された紙を読んで、師匠の記憶力に驚く。
「稽古の事は、すべて記録していましたから。そういう事だから、何か重大なことでもあったなと思ったのです、ああ、そ、そうですか。すみません。ご心配までかけてしまって。」
そうやって相手がいれば、相手に対して申し訳ない気持ちもわく。だからこそ、しっかりしなければと改めて、人は強くなる。全聾となれば、事情を知りたければ直接こうして尋ねるしか方法はない。それは、玉にはやむをえないことではあるのだけれど、裕は師匠がいてくれて本当に良かったと思った。もし、全聾でなかったら、こうして尋ねてくることはまずないとも考えられる。確かに、様々なところで迷惑になる原因になるのかもしれないけれど、こうして、自分には欠かせない存在になってくれるのであれば、全聾も悪いことではないと言えるかもしれなかった。悪いことというのは、そうやって、何か良いことをはらんでいる。
そして、それを発見できるかできないかが、人の幸福感を左右する。仏法では、すべてのものは存在するだけであり、それを人がどう解釈するかで物事が起きていき、その結果として人の幸不幸が決まるというが、まさしく、人というのは、理屈では動けるものではないから。
裕も、自分の存在がそういう事であればいいなと思った。
悪いことも、いいことも、人が勝手にそう思っているだけに過ぎない。
だってただいるだけなんだもの。
「わかりました。先生。次の稽古には、必ず行きますので。もう二度と、すっぽかすようなことは致しません。」
裕は、「次は必ず行きます」と紙に書いた。
玉も、「よかったです」と紙に書いた。
そのころ、誠一たちは、友子を呼び出して、まだ会議を続けていた。
「そうか。まだ、不安定なままか。」
「すみません。私の不注意で。」
「いやいや、友子さんが、謝っても仕方ない。」
誠一は、こういうときはやさしかった。
「そうよ。それに、動かないとお産が重くなるのは、経験として私が知ってます。本当は、悪阻がなくなったら、積極的に動いたほうがいいの。だから、友子さんが散歩に出したのは、間違いではないわよ。」
寿々子も決して彼女を責めたりはしなかった。
「しかし、こうなってしまうと、本当に問題だなあ。その薩摩焼を壊してしまうとか、そういう事を繰り返したら、店の信用にも関わるし。」
誠一が商売人らしく言った。確かにそうである。商品を壊したら、大変なことになる。
「私も、彼女の話をもう少し聞いてあげられる能力があれば。」
「結局、俺のせいなのかなあ。」
新五郎はさらに小さくなってしまった。
「まあ、誰のせいにしようとしたら、埒が開かない。その話はもうやめにしよう。それより、これからどうするのかを考えなくちゃ。」
「でも、お父様、きっと梅子さんは、ものすごく心労がたまっていると思いますから、これからも同じことを延々と語り続けるでしょうし、それに、生まれてきた子が、奇形児であれば、もしかしたら、向こうへ行ってしまう可能性もないわけではないと思うんです。」
こんな発言は、失礼かもしれないが、可能性は確かにないわけではない。梅子が最も恐れていることはそれなのだから。
「うん、確かにそうだ。梅子はさほど強い女性というわけでもないから、、、。俺は何も支えてやれないのか。」
「そうよねえ。梅子さん、今も不安でたまらないし、それを解消する道具は何もないわけだし、、、。」
寿々子も、もどかしい気持ちでいた。自分の時も確かにそうだった。ある意味では神頼みするしかないと考えたこともあった。
「お母様の、お話を聞かせてやることはできないのですか?私、裕さんに聞いたんですけど、新五郎さんが生まれた時に、やっぱりお母様も周りからものすごく期待をされて、その抑圧でおかしくなってしまいそうになったと聞きましたわ。」
不意に友子が発言した。
「そうねえ。でも、傷のなめあいをしても解決に向かうわけではないし、私の時と、今では状況も違うのよね。私の時は、まだ、お父さんの弟さん夫婦も生きていて、お二人に手伝ってもらっていたから、何とか産んでみようという気になれたようなもので。」
寿々子がそういうと、
「そうでしたね。おじさんは、本当にまめな人だったな。でも今は、おばさんが、どこに誰がいるのかわからないほど、悪くなってしまっているから、うちの手伝いはできないと言っていた。」
新五郎が説明して、友子は、何があったのかすぐにわかった。
「まあ、他人を頼るのはやめておこう。それより、梅子さんに、何とかして産んでもらうようにもっていってもらわなければいかん。そうするには、とにかく梅子さんは、不安な気持ちを聞いてもらうしか前に進めない。」
「そうね。私も、そうだと思う。でも、私は、あの時の薩摩焼の事で、もう梅子さんに信頼はしてもらえないと思うわ。きっと、梅子さんは、あきんどには話を聞いてもらいたくないのね。あの時、私が、薩摩焼のほうへ行かないで、話をしっかり聞いてあげる側についててあげれば、もう少し、彼女の怒りは軽減されたと思うのよ。私も、今回は悪いことをしてしまったと反省してるの。」
誠一の発言に友子は即答した。梅子の怒りから判断すると、自分には、梅子の話を聞いてやることはできないなと確信していた。
「そうだなあ、俺も、男として店は続けていかなきゃならないし。店がなければ、うちは困るだろうし。」
「男も女も関係ないけど、商売をしなければ、ご飯が食べられないわ。」
新五郎の発言もまた事実だった。
「うーん、どうしたらいいんだろう。」
「あたしが、連れて行ってみましょうか?」
寿々子は、あることを思いついた。
「連れていくってどこに?」
「阿部千春先生のところですよ。誰か、そういう事を聞いてくれる人がいないと、梅子さんは、本当に壊れてしまいますよ。そうしたら、赤ちゃんも危ないでしょうしね。私も、そうだったけど、しばらく、あそこで静養させてあげたほうがいいかもしれないわ。」
「阿部さんも忙しいのではないか?今日日、胡弓の先生は少ないんだから、、、。」
誠一は、そう心配した。最近の世情では、胡弓を習ってみたい人は多いようであるが、教えてくれる先生はなかなかいない。箏や三味線はよくあるが、胡弓というものは、奏者が少ないのが実情である。特に、最近はやりだした、天理教の関係者でないとなれば、なおさらである。
「いいえ、他に方法はないんじゃありませんか。だって、私たちには到底解決できないのは、わかってるんですから。それなら、実行するしかないですよ。もしかしたら、そうすることも親の務めなのかもしれませんよ。私、明日、阿部先生の下へ、梅子さんを連れて行ってみます。」
寿々子の決断は、変わらないようだった。こういう時になると、女というものは強くなるものだ。男はどうしても周りの状態とかそういう事を考えてしまうものではあるが、こういうとき、猪突猛進に行動できるのは女のほうが上である。
「そうだな、お母さんの言う通りかもしれない。こういう時は、俺たちではなく、他人のほうが、うまく指摘してくれるかもしれない。俺たちでは、どうしても、感情が入ってしまうだろうし、うまく伝えられないよ。同じことであっても。」
と、新五郎も加担した。それはその通りなのかもしれなかった。他人のほうが、指摘してくれるのはうまい、とは名言で、家族では、どうしても伝えられないことは、実は意外に多いのである。
「あ、私も賛成よ。そういう人がいてくれるんなら、今はただ事ではないんだし、頼ってもいいと思うわ。そりゃ、どうしようもない時だって誰でもあるわよ。まあとにかくね、そうして誰かに話しながら、やっていくしかないでしょう。」
「そうかそうか。友子さんもそういうんだから、そうしたほうがいいな。よし、そうしてみるか。こうなったら、しっかりと、度胸を据えるしかないからな。」
誠一がそう結論を出したので、皆の意見は一致した。
翌日。
裕も、友子も、他の人たちも、何も発言はせず、静かに朝食をとった。食べ終わると、寿々子が、ふてくされたように布団に寝ていた梅子を起こして、身支度をさせ、二人そろって出かけて行った。友子だけが、玄関先まで見送って、あとの人たちは、心配しながらも何も言わなかった。
とりあえず、寿々子と梅子は、阿部千春の家に行った。二人はとりあえず、段差のない部屋に通された。寿々子が事情を話すと、千春は、そういう生徒さんは多いので、うちで勉強していきけばよい、寝食は、隣の離れを使ってくれればいいからと、静養するのを許してくれた。
と、言うわけで、梅子は千春の下で暮らすことになった。
当初、梅子は胡弓の教室なんて単にそれを習いにいくだけであって、ただ、演奏技術を伝えるだけではないかと思っていた。
確かにそれもそうなのであるが。
でも違っていた。
生徒さんたちは、やっぱり大量にいた。それは音楽教室だから、生徒がいなければ成り立たないのであるけれど。
勿論、胡弓の演奏もするのであるが。
梅子は、足の不自由な千春の代わりに、生徒さんを玄関先へ出迎えて、お茶を出し、終わったらまた送り出す役目を与えられた。
「先生、うちの子も、最近落ち着いてきて。」
稽古が終わった後、胡弓を片付けながら、生徒さんの女性がそういった。ああ、そうなんですか、と、千春は、弓の毛に松脂を塗りながら答えた。
「あの時は本当に大変なこともありました。でも、おかげさまで、何とか、落ち着いてくれたみたいです。本当に、なんで自分は周りの人と違うんだと怒鳴られた時は、地獄に落ちたのではないかと思われるくらいつらかったですけど。まあ、本人が仕方ないと認識するしかないですものね。あたしが代理で変わってやりたいとなんども思いましたけど、そうやって変な同情をするよりも、かえって突き放してしまったほうがいいのかもしれないですね。私、こっちに来て、それをすごく勉強させてもらいました。」
「まあ、本来、違うっていうのは、当たり前なんですけどね。以前はそれでよろしかったのですけれども。」
千春は、生徒さんの話に当たり前のように返答した。
「なぜか、そういう事にこだわるようになる時代になりましたね。例えば、あの人はこういうものを持ってるのにうちはないとか。そういう事が気になる余裕を持っていられないのが、私たちの世代でしたけど、今の子はそういうもんじゃないのですね。」
と、いう事はつまり、子供さんを持っているお母さんなのだろう。
「あの、すみません。違うって、どういう事なんですか?」
梅子は、恐る恐る聞いてみた。
「ええ、娘の事なんです。生まれた時から、ちょっと顔におかしなあざがありまして、よく近所の子供にからかわれていて。その時に、よく私に怒鳴りつけてきたんですよ。もともとね、気性が荒っぽくて、何かあるとすぐに怒鳴ったりする子でしたけど。あの顔を作った私が悪かったかなあと、本当に後悔しましたよ。まるで、お岩さんを作ってしまったみたいで、娘に対して申し訳が立たないと思いましたし。」
「まあ、その申し訳が立たないと思うのが間違いなんですけどね。」
と、千春が付け加えた。
「その時に、周りの人に、こんな子を作ったのだから、責任をとれとか言われなかったんですか?」
梅子が聞くと、その生徒さんは、ニコッと笑って、あっさりと肯定した。
「ええ。さんざん言われましたよ。特に年寄りからは一層の事。誰も味方になってくれる人などまるでいないのです。そして、娘には怒鳴られる一方で、私は、なんのために生きているんだろうと、自殺まで考えたことだってまれじゃなかった。もしかしたら、娘以上に死にたかったかもしれないですけど、それさえ許されないんですよ。母親だからね。そうなると、もうどうにもならないですよ。でも、やっぱり、自分自身を持って生きているとね、人生は運が向いてくるものですね。」
「どういうことですか?」
「ええ、私は、たまたま江戸市内で聞いた胡弓に感動してしまって、それでこっちへ来させてもらっているんですけれども、ここへ来る前がすごく大変だったのよ。年寄りは本当に気まぐれで、娘の存在が迷惑だと言っておきながら、私が何かしたいと言いだすと、母としてなまけていると言いだすし。でも、そこを打ち破って、こっちへきてしまうと、本当に楽になって、かえって娘と向き合おうという気持ちにもなれたのよ。だから、私はこちらへ来させてもらっているわけ。まあ、娘があの顔でいるのはもう変えられないし、私も、家族もこれ以上優しくはなれないけど、何とか生きて行こうという気にもなれるの。そういう場所があるのとないのでは、偉い違いなのよね。」
「娘さん、まだ、顔の事で怒ったりするんですか。」
「ええ、しないと言ったらうそになるでしょうね。とりあえず今は、落ち着いてくれているけど、果たしてどうなのかしら。でも、それにずっと一緒にいたら、もう私は、大爆発して、終わりになっていたかも。不思議なことにね、少し、離れる時間を作ると、もう一度向き合おうかなという気持ちにもなれる。」
「じゃあ、娘さんを作らないほうがよかったのでは?」
「そういうわがままは言えないわよ。ちょっと宗教的だけど、娘は勝手に生まれてきたわけではないだろうし。そりゃあね、娘に怒鳴られてばかりいた時は、本当になんでこんな奴が生まれてきたんだって、怒ったりもしたけどね。でも、娘がいることで、何から何までが悪くなったのかというとそうでもないのよ。」
意外なセリフだった。そこまで娘さんが迷惑をかけているのなら、捨ててしまうとか、楽になる方法はあるはずだ。それもいけないという事だろうか?
「あの、すみません。今までの話を聞いていると、娘さんがいないほうがよほど幸せになれたのではないかと思うのですけれども、それは違うのですか?」
「若い人は、そう考えるのよね。確かに私も、はじめのころはそうだったかも。でもね、私、本当のことを言うとね、ものすごい三日坊主で、なんの特技もなくて、本当に悩んでいたことがあったけど、娘が怒鳴ってくれたおかげで、この教室を見つけることができて、そして、暇さえあれば打ち込むことができて、最近は、鶴の巣ごもりまで弾けるようになってね。そうしたら、気まぐれな年寄りたちが、わしに何か弾いてくれなんて言いだすまでなったのよ。今まで、何を習っていても、三日坊主ですぐ飽きていた私が、ここまで一つの事を極めたのは、娘が怒鳴ってくれたおかげとしか言えないわ。そうなると、娘に感謝しなければならないわよね。今までは、本当に嫁いだ家の中で居場所がなかったんだけど、今は、お正月とかお盆とかで親戚が集まると、必ず一曲やってくれって、お願いされるという役目をもらうことができたから、そう考えれば、娘の存在も悪いことではないかなあ。」
「そうなんですか!でも、そう考えられるなんて、すごいです。私には、できません。」
「そんな、はじめから決めつけてはだめよ。私の場合は、事実そうだったから。きっと、ここまで努力できたのも、娘がきっかけを作ってくれなかったら、何もなかったと思うわ。もちろん、そうなれるように、阿部先生が指導してくれたのもあったけど。」
「いいえ、私は何もしておりませんよ。ただ、ご自身が努力されただけでしょう。私は、単に、胡弓の弾き方と、楽譜の見方を教えただけです。他のことは何もしておりません。」
千春が、二人の話を聞きながら、そう訂正した。
「何を言うんですか、先生。先生は初めのころは厳しかったけど、それで今の私があるんです。はじめは、先生にさんざんお直しさせられて、もうさんざんでしたが、でも、わからないときはちゃんと教えてくれましたし、私の愚痴も聞いてくれて。もう、こんなにうれしいことは、ありませんでしたわ。」
「まあ、確かに、愚痴を聞いてもらうほどうれしいことはないですよね。でも、それ以外私は、何一つ手を出してはおりません。きっと、娘さんから逃げたいとか、いろいろ理由をかこつけていたと思いますが、一番大切なのは、あなたがこの楽器を続けたかった気持ちだけです。他は何もありませんよ。」
「そうですか?先生は、いつまでたっても謙虚なままですわ。あれだけ厳しく指導していただけましたのに。」
「そんなことはどうでもいい。少なくとも、私は、稽古を続けろと言った覚えはありませんから。まあ、稽古を続けさせてくれたきっかけは、娘さんなのかもしれないけど。」
「娘さんですか?」
梅子は、思わず聞いた。
「本人が、ではなくて。」
「ええ、そういう見方もありますよね。彼女の、変われない状況が、彼女を胡弓の名人に仕立て上げたと言ってもいいですよね。まあ、たぶん不便な子を持ってしまうということは、辛いことのほうが多いかもしれませんよ。でも、一つか二つはよいこともある物なんでしょう。」
「まあ、先生は、まとめるのもお上手でございますのね。」
生徒さんは、いつまでも明るかった。
「そういうものなんですか?すべておしまいなのではなくて?」
究極の問いかけであった。
「ええ。まあ、誰でもそういう事をもたらすようにできてますよね。子供っていうものは。ただ、それに気付けるか気づけないかは、また技術が要る様です。」
千春はそう答えを出してくれた。梅子は母親にも同じ質問をしてみた。
「先生のように、ああしてお上手にまとめるということは私にはできません。でも、先ほど、申しあげたように、何か新しいことを学んで、家庭での居場所を提供してくれたきっかけになることはたしかなようです。」
母親の答えはこれだった。
と、いう事は自分にも同じ幸せがやってきてくれるだろうか。
「私も、同じようになれますか?」
梅子は聞いた。
「なれますよ。先ほど、先生が言ったように、気が付くまでが相当大変だとは思いますが。もしかしたら、私が気付かないだけで、もっと幸せなことをもたらしてくれているかもしれないです。きっと。」
母親は、にこりと笑ってそう答えた。先輩らしく、静かな笑顔だった。
その日の夜、梅子は与えられた部屋に戻って、そっと机の前に座った。
「何か、もたらしてくれるきっかけになるのなら、、、。」
ぴく。
同時に腹の中で何かが動いたような気がした。
「こうなったら、、、。」
こうなればもう責任をとるしかない。梅子は覚悟を決めて、あることを決断した。
あの生徒さんが教えてくれたような技術を身に着けることを、まずは、人生の目標にしてもいいとおもった。そのためには、泣いてはいられない。よし、強くなろう。
梅子は机に向かって、紙に何か書き始めたのであった。
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