大切に──蒲生氏郷

国香

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雪の王国

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 会津移封を知らせる忠三郎からの使者に、冬姫も驚愕した。
「では、戦も終わったというのに、殿はそのままそこに置かれて、松坂にも京にもお戻りにはなれないのですか?」
 冬姫は日野から松ヶ島に移された時のように顔を憂えさせた。
 忠三郎からの消息(手紙)を開く。
 いったいいつになったら彼とは再会できるのだろうかと、忠三郎の文字を見ているうちに絶望さえ兆してくる。
 冬姫の傍には次兵衛がいた。すっかり年老いて、近頃病みがちである。隠居を願い出られて、困っていたところだった。
 冬姫はそんな次兵衛を傍らに留めて、会津の地について使者の藪下から話を聞く。冬姫にとっても会津というのは遠い異国だった。
「当家は日野の頃から裕福でしたが、会津は産業がなく、兵ばかり増えて貧しくなります。それに、会津は容易ならざる地でございまして」
 藪下はそう言った。
「それは、米沢の伊達様という方と芦名家とのいきさつですか?」
 忠三郎からの手紙にも、伊達政宗が秀吉を無視して芦名氏を滅ぼし、会津を奪ったことが書かれてあった。
「それもございますが、問題は殿の寄騎という扱いの、木村様三十万石にございます」
 木村吉清に与えられた所領は、小田原に参陣しなかった大崎、葛西両氏のものだった。大崎氏の加美、志田、遠田、玉造、栗原の五郡。葛西氏の牡鹿、桃生、登米、本吉、磐井、気仙、江刺、胆沢の八郡。
 秀吉が会津で命じた検地は、耕作者が直接領主に税を払う形になった。そのため、土地の所有者、地侍などが中間で搾取できなくなった。彼等の不満は相当なものであろう。
 また、これまで東北では三百六十歩が一段だったが、秀吉は全国共通の尺に改めさせ、一段を三百歩とした。ために、農民にとっても増税だし、秀吉は厳しくやれと命じていたから、農民の不満もある。
 秀吉はこの検地を東北全土で実施させている。
 東北各地で検地への不満が高まり、一揆が起きるだろうという。
「けれど、殿ならば巧みに遊ばしましょう」
「はい、それは。ですので、木村様が問題なのでございます」
 木村吉清も、大崎・葛西両氏の旧領で厳しく検地を行わなければならない。
 大崎・葛西氏はじめ、秀吉によって領地を召し上げられた諸氏の旧領も、当然検地の対象になっている。
 これらの地域では、他地域よりも、検地へのより激しい反発が起こり得る。野に下った旧領主やその家臣団の抵抗もあり、彼らが領民を煽って一揆を起こさせる可能性が高い。
「木村様は俄か大名で、家臣の数も少のうございます。我が殿とて、急な大幅加増で、その点苦心しておられますのに」
 忠三郎は秀吉に願い出で、各大名に勘当された浪人や、つい最近まで秀吉に楯突いていた敵の旧臣も、家臣として雇って構わないという許可を得ている。
 上方の人間も多く登用しており、中には信長の憎むべき者も含まれていた。そのような者さえ登用しなければならないことを、忠三郎は手紙で冬姫に詫びてきている。
「殿でも苦心しておいでなら、木村様の所はさぞ大変でしょう。敵地に投げ込まれ、どれほどご苦労なさることか」
「はっ、されば、家臣覚束なき木村様の備えは脆弱と見て、大崎や葛西の旧臣どもが、必ず領民と共に立ち上がりましょう。一揆が起きれば、我が殿もご出陣遊ばさねばなりませぬ」
 それを聞いて、冬姫は大きく溜め息をついた。
 国替えだけでも大変なのに。それも、白河の関の向こうの地の果て。そこでの領国経営は困難を極めるだろう。
 それだけでも冬姫には気が遠くなりそうである。
 その上、忠三郎の戦はまだまだ終わらない。それも、東北じゅうで一揆が起きたら、これまでの戦とは比較にならない困難さである。おまけに、隣には警戒が必要そうなくせ者。また、足手まといとしか思えない俄か大名。
「殿は、父のもとで新しい世を築き上げてきた事を、殿下が買って下されたのだと──。御文を読む限りでは、随分張り切っておいでのご様子だけれど……東北で、新しいやり方を、己の手で実行できると──」
「姫様に心配をかけまいと、左様に仰せられたのでございましょう」
 次兵衛が隣でそう言った。
 冬姫にもそう思われた。忠三郎の体が案じられた。側で手助けできないことが、もどかしい。焦燥感に襲われる。無性に。
「それにしても、殿下は何故、木村殿なぞに左様な難しい場所を与えられたのでしょうな。まるで、一揆が起きて欲しいようではございませぬか」
 次兵衛の疑問はもっともだ。これで一揆が起きない方がおかしい。
「わざと一揆を起こさせ、旧領主や家臣、その息のかかった地侍、領民もろとも皆殺しにしてしまおうというおつもりでしょうか?」
 じっくり腰を入れて挑むこともできようが、かなりの時間と犠牲、それに忍耐を強いられる。それならば、反抗勢力を皆殺しにしてしまった方が手っ取り早い。
 だからと言って、理由もなく攻撃はできない。だが、向こうから一揆を仕掛けてきたなら、話は別だ。
 秀吉は旧勢力を一掃する口実が欲しいのではないか。
「殿も左様お考えのご様子で、さっそく出陣の支度を始めておられました」
 藪下もそう答えた。しかし、次兵衛はどうも浮かぬ顔である。
「殿が仕損じるはずはございませぬが──」
「次兵衛?」
「奥州各地で一揆が起きれば、休む間もなく転戦を強いられましょう。いたちごっこが数ヶ月ならば、宜しゅうござる。されど、奥州は上方とは比較にならぬほどに広大にて。各地で起きれば、完全に鎮圧させるまでに、かなりの年月を要するやもしれませぬ。気の短い殿下のこと──」
「長引けば、殿が責任を問われると言うのですか?」
 冬姫は青ざめかけたが、気を取り直して強く言った。
「大丈夫です。殿なれば、すぐに片付けてしまわれます」
「いえ、そうではございませぬ。わざと長引かせられたら、どうなります?」
「わざと?そのようなことができますか?」
「お味方の内に一揆勢と内通する者がいれば、可能ですぞ」
 冬姫は怪訝そうに次兵衛を見やった。
「そのようなこと、殿下に知られたら、身の破滅ではありませんか。いったいどこの誰がそのような愚かな真似をするというのです?」
「いや、予め殿下がご承知ならば、問題ありますまい。殿下が殿に一揆鎮圧を長引かせた罪を問い、腹切らせるために仕組んで……」
「次兵衛!」
 珍しく冬姫は声を張り上げた。
「縁起でもないことを申しました。何卒お許し下さいませ」
 次兵衛は即座に平伏した。
 しかし、冬姫の狼狽は止まらない。少し前、那須に放逐された兄の信雄から、織田家の後事を託すという旨の書簡が届いたが──。
「兄の文に……」
 その中で、信雄は冬姫に注意を促していた。
 信雄は次に秀吉が狙うのは忠三郎だと言ってきていた。
 織田家と豊臣家、君臣逆転するだけでは満足できず。いや、逆転したからこそ不安で、織田家を完全に踏み潰したいのだと──。信長の息子は消えたから、今度は婿に狙いを定めるだろうと。
 同時に、弱小になった織田家を傘下に入れるために婚姻を希望するはずで、秀吉は妹達のいずれかを、側室に望むだろうと。
 また、忠三郎が奥州に封じ込められている間、聚楽第に閉じ込められている冬姫は、秀吉の好色に注意せよなどとも信雄は言ってきていたのだ。
 信雄からのその書簡のせいで、冬姫は次兵衛の言うように、本当に秀吉が企んでいるのではあるまいかと思い、動転した。
 忠三郎が正月に佐々成政の馬印を秀吉に求めた日のことが、頭に蘇る。あの日の忠三郎の狂気じみた目。秀吉の気に障るようなことを口走ったのではあるまいか。
「それでこんな……」
 そもそも、佐々の馬印を乞うこと自体が挑発じみている。
「三蓋笠の馬印……」
「え?」
「一揆を鎮圧できずに切腹させられた人の馬印よ……」
 佐々成政と同じ目に遭うわけにはいかない。
 ふと忠三郎のくれた手紙の中に、薄く染みが付いている部分があることに気付いた。
 ずっと同じ所を持って書いていたのであろう。多忙の中、馬の背ででも書いたか、指の脂に土埃が付いたらしい。薄ら黒いそれをよく見ると、指紋の形が浮き出ている。
 忠三郎の指が、確かにそこにあったという証。
 冬姫はその染みに、自分の指を重ね置いた。そこだけ他とかすかに手触りが違う。目を閉じれば、そこに忠三郎の手があるように感じて、冬姫はいつまでも指を離せなかった。
 その夜、彼女はその手紙を抱いて眠った。
 翌日から、冬姫は京屋敷の家臣達を会津に送る作業を始める。松坂からも度々相談の使者が来る。松坂と京との行き来が盛んになり、冬姫はてきぱき指示を出して行く。
 京には大名達が集結しているので、彼等との交際のため、京屋敷には饗応役が多い。会津で忠三郎は上方の文化を見せつけたいだろうと、冬姫は武に秀でた者ばかりでなく、饗応役も会津に遣ることにした。
 また、次兵衛の後に女佐にしようと思っていた冬姫付きの織田系の臣下までをも、忠三郎の役に立つと思えば、構わず出した。冬姫の周辺が寂しくなろうと、孤軍奮闘する忠三郎を思えば、彼女には何でもない。
 ただ、忠三郎への返事の文には、どう書いたら良いのかわからず、しばらく悩んだ。嘆くのはおかしいし、励ますのも違う気がする。単純に祝辞を述べて喜ぶべきなのか。早く帰って欲しいとは言いたいが、それも迷う。それで、蒲生家の祖先・藤原秀郷(俵藤太)がまさに生きていた関東、陸奥を直に見て暮らして、どのような所なのか鶴千代に詳しく語ってやって欲しいとしたため、藪下に託した。

 松坂から会津への引っ越しが始まり、京から会津へ行く者、また京から松坂、そのまま会津へと赴く者もいる。
 そうした中で、キリシタン領主がいなくなったからであろうか、再興した願証寺の顕恵が阿ろくを連れて松坂へやってきた。蒲生家の人間にはそれどころではなく、誰も気にかけなかったが、やがて顕恵は松坂にも願証寺の通寺を開くのである。
 それもあるのか、本願寺顕如の後継・准如は忠三郎に丁重な態度を取るようになる。





****************************
 奥州仕置の軍勢が引き上げると、やはり奥州各地に加え、出羽でも同時多発的に一揆が起きた。それら東北各地の一揆の中で最大規模だったのが、旧大崎・葛西領だった。
 新領主・木村吉清の勤めは二ヶ月ともたなかった。領主となって、準備も何も整わぬうちに、旧葛西領の胆沢、気仙、磐井で次々に一揆が起きたのである。そして、それは旧大崎領にまで広がっていく。
 登米の寺池城に吉清が、その子・清久は古川城にいた。清久は一揆が起きたので父のもとへ向かったが、その隙をついて一揆勢は玉造の岩手沢城とともに古川城を落としてしまった。清久は佐沼城に逃れた。吉清が救援に来たが、一揆勢に包囲され、家臣達も次々に一揆勢に殺されたので、父子は佐沼城から出られなくなっている。
 忠三郎は、十月中には会津でその異変を聞きつけている。秀吉は、一揆が起きたら、伊達政宗を先陣に鎮圧するよう命じていた。政宗は検地奉行の任務を終えた浅野長政(長吉)からの要請で、さっそく出陣している。忠三郎も木村父子救出のため、準備万端整えて待機した。
 政宗は先鋒として十月二十六日に出陣し、忠三郎へは暫く待つよう言ってきた。白河にいた長政もそう言うのでそれに従ったが、いつまで待っても連絡がない。
 忠三郎は訝った。三蓋笠の馬印を睨む。
(こうしていられようか。木村殿を助けに行くのが遅れたことが原因で、木村殿の身にとりかえしのつかないことが起きては一大事。秀吉からもきつい沙汰が下ろう。佐々殿の二の舞になるわけにはいかぬ!)
 一揆を討ち果たすことは、秀吉にいいように使われているだけとも思える。だが、やらねば待つは死か、運良く命は助けられても、せっかく得た四十二万石は召し上げられる。
(何としても死ぬわけにも、領地を取り上げられるわけにもいかないのだ!それに、木村殿が困っているのに!困っている人を見捨てられぬ!義務がなくても頼まれなくても、私は行く!)
 十一月五日。大雪で視界もきかないその日。
 忠三郎はついに出陣を決行した。
 会津は雪深いと聞いてはいたが、想像を超える寒さだった。家中はほとんどが上方出身。あまりに剛勇な冬の魔王に、皆気力が萎えていた。
 会津黒川城の庭木は、何れも重い雪を被って、あたかも得体の知れない化け物のようである。
 それまでの忠三郎にとって、雪景色はそれは綺麗なものだった。優雅な庭に雪が降って、庭木を飾れば、和歌を詠みたくなるほどで。
(そういえば冬姫が、冬になると見向きもされない木々が謀って雪を降らせ、美しくなった身を見せつけるのだと言ってたな)
 だとすれば、この会津の木々は、己の強さ、冷酷さを見せつけるために、このように化け物のようになって、凄みをきかせているのかもしれない。
 忠三郎は鎧直垂を着ずに甲冑を身につけ、軍勢の前に現れた。
「このくらい何だ!私はちっとも寒くないぞ!」
 木々に雪をおどろおどろしく塗り付けた冬の魔王の如き形相で、寒がる兵達に吼えた。
「なんと!」
 家臣達は気を引き締めた。それどころか士気は最高潮に達した。こんな大雪の進軍、疲労するばかりと嘆いていたのが嘘のよう。
 関一政ら信頼できる重臣に後の守備を任せて出陣。木村父子のように留守を奪われるわけにはいかないので、会津諸城の備えを固めた。そのため、軍勢は六千ほどしかない。積雪によって塞がれている道を、雪かきさせながら進んだ。

 仕置、検地の役目を終えた浅野長政の軍勢は、一旦引き上げていたが、この事態に、引き返して二本松へ行くという。二本松から先は伊達領に入る。忠三郎がここに着いたのは、会津黒川城を出た翌々日の七日。
 道案内役でもある先陣の政宗は、一万五千の大軍。大雪のためか、大軍でもあるので、機動性に欠け、後軍はなおまだその辺にいる。
 動きの鈍い伊達軍に対し、蒲生軍中には不審の眼差しを向ける者が出てきた。
 忠三郎が二本松にいた頃、蒲生軍の先手はもっと先に進んでいたから、伊達軍と入り組んでしまった。彼等はいよいよ動きの鈍い伊達軍に疑惑を抱き、忠三郎に言ってきた。
「伊達軍は一揆を鎮圧する気がないのではありますまいか。一揆勢を動かしているのは、大崎と葛西の者どもでございます。伊達様とは互いに昔からの馴染み。伊達様のご本心が明らかになるまで、殿はこちらにお控えを」
「冗談じゃない!一揆を長引かせられてたまるか!伊達殿が立ち止まっているなら、追い抜かしてやるまでだ!」
「ですが、もしも伊達様が一揆勢に寝返ったら、殿の御身が危のうございます。そもそも、殿は出陣令が出ていないうちから、ご出陣遊ばされました。十分誠意はお見せになっておられ……」
「命令が出てから助けに赴くようでは、漢ではない!──兵数の問題を気にしておるのか?関係ない、たった六千でも討ち果たせるわ!とにかく、一刻も早く、木村殿を救え!」
 忠三郎は声を荒げ、進軍を強行した。
 蒲生軍は伊達軍の後ろから、せき立てるように進軍する。あまりな速さで、追い立て追い立て突進してくるので、伊達軍も焦って、雪道を進軍せざるを得なかった。
 それだけに迷惑だったか。上方のせっかち性分に嫌がらせしてやれということだったか。伊達軍は領内の民に、後からくる蒲生軍には手助けしてやるなと告げたのか──。
 二本松から先、白石、岩沼など、全て伊達領内である。伊達軍を追い立てて進む蒲生軍に対し、ここの領民達はひどい態度だった。
 蒲生軍には宿を貸さない。
 蒲生軍は仕方なく、雪原の中に野営した。薪も売ってもらえないので、火をおこすのにも難儀した。
 吹きさらしの雪の野で、ようやく焚き火ができても、手は悴み、震えて歯は鳴る。凍傷も負っていよう。
 しかし、伊達軍への怒りで寒さも忘れ、皆よく堪えていた。
(町野の言う通りかもしれないな……)
 町野左近は、この寒さでは兵の気力体力に障るから、春を待って、雪解けと共に出陣すべきだと言っていた。
(人使いの荒い主だと、皆迷惑に思っているだろう……)
 春とは悠長に過ぎるが、兵達の体を思えば、たとえ秀吉の怒りを買おうとも、出陣は遅らせるべきだったのかもしれない。数日後、雪が止んでからでも良かったはずだ。それでも大雪にもかかわらず出てきたのは──。
(私の身勝手さだよな)
 秀吉によって領地を召し上げられたら、家臣達を路頭に迷わせることになる。強行軍は家臣のためでもある。だが、それは言い訳だろう。
 伊達軍やその領民に怒る兵達を見ると、申し訳ない気さえしてきた。
「我慢ならぬ!向こうの農家に押し入って、無理矢理にでも薪を買ってきてやろうか!」
「それこそ伊達殿の思う壷だろう?一応味方なのだしさ。その味方の領内でこちらが暴れたりしたら、伊達殿に攻撃される。伊達殿と当家で戦になれば、勝っても負けても殿下のお咎めを受ける。先に味方の領民に手を出したこちらが罰せられる」
「伊達殿は我らを討ちたくて討ちたくて、うずうずしているのやろ。伊達殿に攻撃させる口実を与えたら駄目だ」
「そうか、それでわざとこんな嫌がらせをしてくるのだな?」
 焚き火に手を翳す兵達が、そんなことを言い合って怒りを鎮めようと努め、宥め合っている。
(嫌がらせかどうかはわからない……伊達軍の後に、まさか我らが来るとは思わず、連日の行軍に迷惑しているのだろう。いや、薪は昨日伊達軍に提供してしまったから、今日はもう残ってはいず、我らに売れないだけなのかもしれないではないか……)
 忠三郎は、ふと先の北条氏との戦を思い出した。あの時、北条氏の策で、当初、こちらは現地での兵糧確保が不可能だった。北条氏の命を受けた民が、こちらに兵糧を売らなかったからだ。
 今の伊達氏も同じなのだろうか。
 はたまた、秀吉が計画している唐入りを思う。朝鮮へ渡った時、朝鮮が日本に味方しない場合は、朝鮮の民から兵糧を買うことはできないだろう。
 この奥州の地でさえ苦労するのに。異国で兵糧も確保できず、今以上の寒さに堪えなければならないのだとしたら、海に隔てられ、帰るに帰れないのに──。
 忠三郎は気が沈んだ。だが、そんな素振りは見せられない。彼は当然という顔で、静かに寒さに堪えている。
 忠三郎でさえ、何も言わずに雑兵に混じって寒さに堪えているのだ。家臣達の心も一つになった。
 古代中国が生んだ天才・呉起(呉子)の人間性は、忠三郎には到底理解不能だが、この雪原に於ける彼は、あたかも戦場の呉起の姿を彷彿とさせた。
 とはいえ、こんな生活を十日も続けていたら、そろそろ限界である。
 伊達領内の黒川郡前野という所に至ったその日、忠三郎は目の下に隈さえ見せている兵達の間を回って励ました。
「もう少しだ。明日には伊達殿の領内を出るだろう。あと一踏ん張りしてくれ」
 そして、側近達の群れている所にやってきて、冗談を口にした。
「それにしても、殿、本当に寒うございますよ。殿のご気力は凄い」
 尾張出身の谷崎忠右衛門が軽口を言うと、忠三郎はふっと笑った。
「実は正直私も相当寒い。十日も続けているのに少しも慣れぬ。町野、大丈夫か?」
 町野左近は老人の域に足を踏み入れかけているのだが、全然何ともないと言い張った。
 忠三郎、笑って、ふと思い出したように、焚き火の炎の色を眺めやった。
「そういえば松ヶ島にいた頃、そう、あれは於次様が亡くなられた頃だから、ちょうど今頃か、夜中に凄まじい地震があったよなあ。海嘯が来るというので、皆で高地に逃げて、こんなふうに一晩過ごしたよな」
「そんなこともございましたねえ。あれはなかなか恐ろしゅうございました」
 町野が懐かしそうに応える。
「あの晩も相当寒かった。しょっちゅう揺れるし、風は冷たいし。肝が潰れた。だが、寒くてどうなるかと思ったが、今に比べたら、暖かいくらいだったよな」
「もう五年も前のことですな」
「そんなに経つか?まるで昨日のことのようだ」
 そこで不意に、何を思い出したか、ぷっと吹き出すと、わははと声を立てて笑い出した。
「如何なさいましたので?」
 側近達が皆、忠三郎に注目する。
「いや、なに。あの時、奥が幼い娘に怒って、それは恐かった」
 側近達、その冗談に笑ってよいやらわからず、しかし、笑わずにはいられなかった。
「おっと、今のは奥には内緒ぞ」
 忠三郎が冬姫の恐い顔を思い出して、身をやや竦めていると、伊達政宗のもとから使者がやってきた。
「いよいよこの先は、伊達領内を出、一揆勢の溢れる領域に入ります。その前に打ち合わせを致したく存じますので、明日の朝、当方の陣へお越し願えませんでしょうか?」
というのである。
 家臣達は危ぶんだが、忠三郎は二つ返事で承諾した。
「殿、これは伊達殿が殿の謀殺を企てているのです。殿を己の陣中に招き、伊達の軍勢で囲って、我等と引き離し、その中で殿を殺してしまおうと──」
 家臣達が引き留める。
「いったい私が何故、伊達殿に恨まれるというのだ?二、三度顔を合わせたに過ぎない。ろくに口を聞いたこともないのに、恨まれる覚えはないぞ」
「伊達殿は会津を関白殿下に取り上げられました。今、会津を領するは殿。殿を殿下の代理と見ておりましょう。このような混乱した時なら、殿を謀殺したとしても、一揆勢のせいにして、上方へ報告もできましょう。伊達殿の領内での我等への仕打ちを思えば、伊達殿の企みは明らか」
 忠三郎はにやりと笑って、あとは何を言われても気にとめなかった。
(私が秀吉の代理だから、私を討つのか。だったら、政宗は私の敵ではない)
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