大切に──蒲生氏郷

国香

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対決

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 忠三郎はおよそ一年ぶりに京に帰ってきた。
 天正十九年(1591)の閏一月になっていた。
 聚楽第郭内の蒲生屋敷に入った忠三郎は、ようやく緊張から解き放たれた思いがした。
 まだ昼間だったが、長旅で疲れたし、急に安心して眠気に襲われた。しかし、しばらく居間にごろ寝しようと思った矢先、居間は姫たちに占拠された。
「父上!」
「父上!」
「おおお、何だ何だ」
 姫たちにまとわりつかれて、だるかったが嬉しくないわけがない。
「父上、肩凝ってらっしゃる?」
 全く効き目のない力加減で肩を揉んだり、忠三郎の膝の上によじ登ってきたり。しまいには、ままごと遊びの相手までさせられた。
「なんだか花園にいるみたいだな」
 色鮮やかな着物の袖をひらひら振り、礼儀もなくきゃっきゃと忠三郎を取り囲んで戯れる娘たちに、忠三郎は終始笑顔だった。
 娘たちは、ほかほかして、あの伊達領内での厳しい十日間が、まるで幻だったかのように思えてくる。平和を貪るうちに、泣けてきた。
 気付けば、間もなく夕刻という頃。随分遊んでいた。
「父上」
 呼ばれて振り向くと、籍姫がまだ遊び足りないのか、一人残っていて、紙を数枚持って忠三郎を見上げている。
「父上、お帰りになる途中、遊行柳ってご覧になった?どんなの?殺生石は?」
 などと聞いてくるのだ。小首を傾げているのが可愛い。
「遊行柳?──父の悩みも為すべき方法も、良く示してくれそうな姿だったよ。しかし、何故?」
 そのようなものが気になるのか。半年前、信雄が放逐された地からも程遠からぬので、悩み云々とつい適当なことを言うと、姫は、
「皆で伊勢物語のお話をしていたの。男は東海道を下って陸奥まで行ったのに、唐突に、──信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ──って、おかしいでしょ?だから、武姫が、これは陸奥からだんだん上方に向かって住まいを移していく途中のものではないかって。そういえば、帰り道のことは物語にないから、じゃあ、皆で分担して東山道を上るのを作ろうって。私は毛の国だけど、どう書いたら良いのか、わかんないの、鉢木でも模して作ったら良いかな?鶴千代はこれ、送ってきて──」
と、手の紙を差し出すようにする。鶴千代が作った物語だそうで。
「鶴千代め、学問もせず、このようなことをして遊んでいるのか」
 口では厳格そうにそう言いつつも、ついにんまりしてしまう。その紙の文字を読んでみると、何とも夢幻能のような話で。
 昔、男ありけり。で始まっている。

 寝覚めの床の三帰りの翁と歌を詠み、楽を奏で、男が袖を三返翻して舞うと、それに感銘を受けた精霊、龍神、唐土の天女などが天降って、皆舞い遊ぶ。しまいには、絲綢之路の西の果てより、守護聖人 ──大天使ミカエルか──までもが現れたが、剣を一払いすると、たちまち仙女たちは消えた。
 その時、延喜の帝の勅使が来て、男と御勅使の公達とが、若返りの秘薬を三帰りの翁から授けられる。役目を果たし、雲居へ御帰りになる御使いの公達と共に、男も京の都へと向かう。しかし、垂井まで来た時、男は病んで今にも死にかけて、そこで初めて自分が九十九髪の翁になっていることに気づいた。
 いったい何年寝覚めの床にいたのだろうと、故郷を思い出し、何としても死にたくないと、秘薬を飲んで、若返った。

「これはまた、随分と楽しそうな遊びをしているな」
 能を真似て、いかにも子供らしい。それでも、子供達の遊びに何故か、幼い頃の自分の姿が重なってきて、忠三郎はうきうきとしてきた。夢中で物語を読んで、和歌を詠み、里村紹巴に披露した、あの日、あの頃を思い出す。
 不意に籍姫がはあっと大きなため息をついた。
「陸奥から京に帰ってくるまで、全部鶴千代に書いてもらおうかしら」
「全部?そなたは何も思いつかないの?」
「さっぱり。寝覚めの床って大昔の東山道にあった?木曽路って東山道?もう、私、どこ書いたら良いのかわからないの」
 それにしても、子供というのはびっくりするくらい成長する。忠三郎は姫たちを最初に見た時、目が点になった。
(丸々一年会わないと、こんなに大きくなってしまうのか……)
 屋敷に鶴千代はいなかった。冬姫に、鶴千代を南禅寺に入れるよう言っておいた。今、鶴千代は厳しい修行生活を送っている。鶴千代は信長が亡くなった時に授かった子だ。いずれ忠三郎が天下人となれば、その座を継ぐことになる。
(あの子も見違える程大きくなったろう)
 暫くは京に滞在できる。一度鶴千代を屋敷に呼んでやろうと思った。

 その晩、寝所に入って二人きりになると、冬姫は忠三郎の苦労をねぎらった。
 忠三郎は陶然とその姿に見とれる。一年も逢わなかった。焦がれて焦げて、時々抑えきれず、困った。一瞬でも目を逸らすのがもったいないというように、まばたきの間さえ惜しんで、彼は冬姫を夢中で見つめ続けている。
「とても大変で。よく無事で家族のもとに帰ってこられたと思います」
「今夜はどうぞごゆっくりなさって。明日以降、お話し下されば嬉しいです」
 冬姫は忠三郎の苦労を分かち合いたい。せめて話だけでも聞きたかった。彼が愚痴してすっきりしてくれれば嬉しい。
「有難う。では明日お聞き頂きます」
「はい。あ、そうでした。今、この京にヴァリニャーノ猊下がいらしていることはご存知ですか?つい数日前、殿下とお会いになったのです。亡き大友様達お三方が、ローマに遣わされた若君達もご一緒に」
 イエズス会のインド管区長・ヴァリニャーノは、再び日本巡察師に任命され、来日していた。ただ、彼はインド副王の使者も兼ねていた。
 秀吉は、なおも国外に出て行かない伴天連達に腹を立てていた。そこへ新たにヴァリニャーノが来たのだ。
 ヴァリニャーノはただひたすら、自分はインド副王の使者だと言い続け、巡察師のことは隠していたが、さすが秀吉は容易には信用せず、いつまでも対面を許さなかった。
 それでも、ようやく気が変わり、インド副王の使者という話を信じてか、ヴァリニャーノに上洛の許可を出したのは昨年中のこと。ヴァリニャーノと秀吉との対面における一切全てを取り仕切る役目は、奥州仕置奉行の浅野長政(長吉)に命じられていた。
 ところが、九州を出発したヴァリニャーノが播磨の室津に着いた時、奥州ではただならぬ一揆が勃発し、長政は帰京できなくなってしまったのである。インド副王の使節と関白の対面の儀の総責任者が不在では、儀式は挙行できない。ヴァリニャーノはそのため、上洛の許可が下りずに足止めされ、室津での滞在を余儀なくされた。
 いくら待てども長政が帰ってくる気配はない。ヴァリニャーノはついに室津で年を越すことになった。
 長政が帰れなかった。それもそのはず、忠三郎がいつまでも名生城に居座っていたからだ。長政はその間、ずっと二本松に留まらざるを得なかったのである。
 忠三郎は政宗を信用できないと言い続けた。長政は、それならば政宗から人質をとればよいと、忠三郎をなだめた。
 すったもんだの末、忠三郎はようやく名生城から出てきたが、この時点ですでに年明け。忠三郎が二本松で長政と合流したのは、一月十一日だった。
 一方、室津に止め置かれたヴァリニャーノのもとには、もう長政は帰って来ないだろうという報告がもたらされていた。
 秀吉は、長政の帰京を待たずにヴァリニャーノを引見しようと考え、年明け早々に上洛を許した。ヴァリニャーノはこうしてようやく上洛でき、閏一月八日、インド副王の使者として、秀吉と聚楽第で対面した。
 聚楽第では盛大な儀式でもって、ヴァリニャーノらを迎えた。また、ヴァリニャーノは有馬、大友、大村がローマに派遣した四人の少年使節を伴っていた。すでに出発から九年経ち、彼等もすっかり青年となっていたが、秀吉は彼等の奏でる洋楽を大いに気に入ったのだという。
 秀吉はその後、尾張へ鷹狩に出掛けて、今は留守。
 ヴァリニャーノは、秀吉がインド副王に宛てた返書をしたためるまで、在京するという。
「それは。私のせいでヴァリニャーノ様にご迷惑をおかけしてしまった。お詫びしたい」
(秀吉は留守だというし。この機会を逃したら、ヴァリニャーノ様にお会いできない)
「すでに室津にいらっしゃった頃から、沢山の人々が会いに参られたそうです。来客が絶えないとか」
 冬姫も対面しても危険はなさそうだと言った。
(明日お訪ねしよう!)
 この夜の忠三郎はいささか欲望が先行していた。しかし、冬姫も忠三郎が欲しくて欲しくてたまらなかったらしく──。
 一年ぶりの冬姫は、少しも変わっていなかった。忠三郎の手の霜焼けの痕を、痛々しげにずっと優しく撫でていた。
 忠三郎は眠らなかった。疲れていたはずだが、積もる話に眠気も忘れ、飽くこともなく冬姫を見つめ続けた。
 これからしばらくは冬姫と過ごせるだろう。話などいくらでもする時間はある。なのに一年ぶりの今夜は、どうしても止まらなかった。
 話と言っても、他愛ないことばかり。この一年、身が焦げて自分を持て余したほど想い欲した相手を、漸く手の内にしたのだ。
「全くお変わりない。何て綺麗なんだ……」
 熱い息とともに囁いて、幾度となく抱きしめる。冬姫も彼の身を抱きしめ、指に力をきゅっと込め──その手で彼への恋情を伝える。忘我、陶酔、うっとり忠三郎は愛に浸った。

 翌日、忠三郎はさっそくヴァリニャーノを訪ねていた。
 ヴァリニャーノは伴天連や伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの四人の少年使節、それにポルトガル人達を連れていたが、それぞれ滞在先が違う。ヴァリニャーノはわずかな供と静かに過ごしていた。
 来客が絶えないと聞いていたが、今日は忠三郎の他にはいないようである。忠三郎が来ると聞いて、わざと予定を空けておいたようだった。
 西洋人の中でも特別大柄なヴァリニャーノは、通訳者のジョアン・ロドリーゲスと二人だけで、部屋の中に忠三郎を待っていた。
「お元気でしたか?」
 昔、信長から安土城に招かれたヴァリニャーノと、そこで何度か忠三郎は会ったことがある。親しく交わったことはないが、幾らか言葉を掛け合ったことはあった。
「信長様の姫君にもお変わりなく?」
「はい、健やかに過ごしております」
 冬姫はそれこそ、ヴァリニャーノの安土滞在中に、信長に連れられて、何度も修道院に彼を訪ねていた。
「ご来日の際には、当家の者どもがお世話になりました」
 忠三郎がローマに派遣した二番目の使節は、マカオからヴァリニャーノと同じ船で帰ってきたのだ。
「いいえ、こちらこそ。良いロザリオは手に入りましたか?」
 ヴァリニャーノはとても穏やかな口調だった。
「大変嬉しく思っております」
 忠三郎は、袂にしのばせていた象牙の麗しいロザリオを見せた。ヴァリニャーノはそれを見て頷く。
「船中、ご家中の竹村殿から、レオ飛騨守殿がローマに竹村殿達を遣わされた理由を伺いました。正直驚き、感嘆も致しました。実は日本の皆様は、我々からロザリオを贈られることを熱望される。日本で作られたものには見向きもせず、ローマからもたらされた物を、我々の手から渡されることを望まれる。熱心なことですので、素晴らしいことなのですが、我々とてそう山ほど持っているわけではありません。幾らもう無いとお伝えしても、しつこく乞われるので、正直少々困惑しておりました。レオ飛騨守殿はそのことを知り、我々の手を煩わすまいと、直接ローマに調達に行かれたとか」
「ああ、はい」
 発想が面白いとヴァリニャーノは思った。
 オルガンティーノやその友人だというロルテスなる者が、彼を非常に高く評価していることも肯ける。何より、信長の婿という血筋の良さ。
「ところで、本日、それがしがヴィジタドールをお訪ねしたのは、お詫び申さねばならぬことがあったからでございます」
「はて、何でしょう?」
 ヴァリニャーノは一つまばたきをした。
「ヴィジタドールは室津でおよそ二ヶ月も足止めされたと伺っております。浅野殿の帰京が遅れたためでございますが、その原因はそれがしにあるのでございます」
 忠三郎は名生城に籠もっていたことなどを、正直に洗いざらい話した。ヴァリニャーノはそれを静かにずっと聞いていた。忠三郎は話しながら、心に溜まった鬱憤が不思議とすっと消えて、穏やかになっていくことを感じた。
 忠三郎はひたすら申し訳ないという、懺悔を告白する心持ちでいたのだが、話を聞き終えたヴァリニャーノは、何故か明るい笑顔で神を讃美し始めたのである。通訳のロドリーゲスまでそうするので、忠三郎は不思議でならなかった。
「まさにデウスの御業!」
「あの、ヴィジタドール?」
「レオ飛騨守殿、あなたの功績は多大なるもの、とてつもなく大きいです。まず、室(室津)滞在が長引いたおかげで、ポルトガル定航船の今回の出航に間に合わず、私は来年まで、つまり一年長く日本にいられるのです」
「それは……」
 良いことだろうか。しかし、バテレン追放令が出て以降の日本に、ヴァリニャーノが予定より一年長く滞在できるとなれば、それはキリシタン達に大いなる喜びと慰め、勇気を与えることになる。
「それから、もっと素晴らしいことがあります。室に滞在した時期は、ちょうど日本の暦で年の瀬でした。大名の各皆様は、殿下に年始の挨拶に出向かなければならないとか。室は西国から上洛する時の中継の、通り道。室にいた時、そのようなわけで、沢山大名達がそこを通って行ったのです。キリシタンもそうでない人も、ローマに行った四人には是非会って話を聞きたいと、室を通った人はほとんど皆様、我々を訪ねて下さいました。我々は彼等にデウスのお話をすることができました。キリシタンは必ず励まされ、また異教徒も皆熱心に聞いて下さり、受洗した方も沢山いるのですよ。民の間にも、沢山のキリシタンを新たに作ることができました。思いもかけない大成果でした。我々は皆、室長期滞在はデウスの御摂理なりと、喜び祝福していたのです」
「なんと……」
 忠三郎は圧倒された。
「では、デウスがそれがしの心を強固に頑なにして、それがしの身を名生城に閉じ込め、浅野殿の帰京を阻められたのですか?」
「そうです。レオ飛騨守殿の頑固はデウスの御業によるものなのです。あなたの信仰がデウスを動かし、我々に大いなる成果をもたらした!」
 謝りに来て、思いもよらない事態になっていたことを知り、忠三郎は驚くばかりである。
 そんな彼を、ヴァリニャーノは微笑みながら褒め称えていたが、そういえばと思い出し、
「今日は坂ジョアン(源次郎)殿はお連れでないのですね?」
と彼の背後を見回した。
 今日この場に伴った者達は、もともと京屋敷にいた者ばかりで、会津から供してきた者には、今日のところは出仕は控えさせていた。
「はっ、疲れておりましょうから、今日は休ませております」
 ヴァリニャーノは当たり前のように頷き、
「では、彼に宜しく。一度会いたいものです」
と言った。
 ちょっと不思議に思った。坂源次郎はキリシタンだが、何故ヴァリニャーノと親交があるのだろう。
 ヴァリニャーノは笑って、何でもないと言った。なお忠三郎が首を傾げていると、
「彼は信長様の王子・三七殿と親しかったようですね。安土に滞在していた頃、一緒に見えましたよ」
と、初めて聞く話を披露した。





****************************
 伊達政宗が尾張で秀吉と合流した。
 政宗は金箔を塗った磔柱を担いで、秀吉の前に現れた。
「何だそれは?」
 見た途端、秀吉は笑い出しそうになったが、政宗を打ち据え、威厳たっぷりに座っている。
「蒲生飛騨守からの訴え、もはや逃れられぬと覚悟してのことか」
 秀吉からそう言った。政宗は平伏した。
「む。京で厳しく詮議する故、ついて来い」
「はっ」
(とりあえず、京までは首が繋がったな……)
「政宗!」
「はっ」
「どうであった蒲生飛騨守は?」
(どうって、ご覧の通り仕損じたよ。気付かれたから、お前の茶番に付き合ってやっているのに。この狒狒猿爺め。俺を殺す気なんだろう?)
「──蒲生殿はまことにお強うございました」
「うむ?一揆を鎮圧したのは、そちであろう?」
「名生城を落としたは蒲生殿にござる。行軍速度といい……それがし、蒲生殿があんなにお強いとは知りませなんだ」
 聞いていなかったぞと、顔を上げ、秀吉を射るように見る。
(いいこと言って騙したな。本当は俺と蒲生殿を戦わせて、蒲生殿に俺を討たせる気だったんだろう?)
 秀吉は政宗の眼から眼を逸らした。
 秀吉はやがて政宗と共に帰京した。

 忠三郎は京を発つというヴァリニャーノに、もう一度会いに行った。前回、帰り際に坂源次郎に宜しくと言われたので、今回は彼も伴っていた。ヴァリニャーノは源次郎の姿を認めると、その目に頷いてみせた。
 忠三郎は特別気にもせず、それよりも探りを入れなければなるまいと、こう切り出した。
「関白が以前から度々口にすることなのですが──朝鮮への出兵。関白周辺の話では、亡きコエリョ様が言い出されたこととか?実行されれば、それがしも朝鮮へ渡らなければならないでしょう。関白の心が和らげば、すぐにも我が領内にて布教したいのですが……」
 コエリョはヴァリニャーノの来日前に亡くなっていた。秀吉からの攻撃を想定しての自衛目的か、あるいは以前、秀吉に唐入りの折には援助を頼むと言われたからか、コエリョは多数の武器を集めていた。だが、ヴァリニャーノはそのことを憂えて、来日すると、密かに処分していた。
「ヴィジタドールにとっても、我等が朝鮮へ侵攻することは望ましいことなのでしょうか?」
 ヴァリニャーノはイエズス会の日本巡察師。コエリョなどよりも、もっと重要な機密を扱っているに違いない。スペインの意向も、彼ならば知っているはずである。
 忠三郎にとって、今の質問は、さり気ない中にも核心を突くものであった。
「従軍させて頂ければ、征服先で布教できます。かの地は我々の未開拓の地ですから、この教えを伝えたいとは思います。ただ、今の殿下のご様子だと、我々を従軍させては下さらないでしょう」
 宣教師らしい返答である。ならばと、忠三郎はこう返した。
「なれば、それがしはじめキリシタン武将どもが、密かにパードレ達を自軍に隠し参らせ、朝鮮へお連れ致しましょう」
 明とは敢えて言わず、朝鮮と繰り返した。
「是非」
 ヴァリニャーノは笑顔で頷いた。忠三郎は今度はざっくり切り込んだ。
「その、コエリョ様はどうして関白に九州を、さらに明を攻めて欲しいと仰有ったのでしょう?正直、そのために関白は警戒したのだと思うのです。何故日本に頼むのですか?」
「彼ほどデウスの忠実な僕はいません。九州攻めはキリシタンの殿達が危機に瀕していたので、殿下を頼りました。また、彼は明を救いたかったのです。しかし、本国からは遥かに遠く、また、明の軍事力を見ても、我々では手に負えない。日本ならば、明を攻められる距離にあり、また、明と戦えるだけの軍事力があります。だから、殿下にお願いしたのです」
「イスパニアは明が欲しいわけでは?」
「できることなら、欲しいでしょう。日本が代わりに討って下さるなら、国王もどれほど感謝することか。しかし、今の殿下が明を討ったら、己のものとしてしまうことは明らか」
「確かに譲るはずありません」
「ええ、だから我々イエズス会としては、明で布教させて頂けるだけで結構なのです。それも許されないなら、日本が明を得て強大になることに、国王は強く警戒するでしょうが──」
「我等が明を得るためには、まず朝鮮を得なければなりませぬ」
「そうでしょうね」
 ヴァリニャーノの表情は明るくない。ふうと、溜め息さえつく。
(この反応はどうしたことだろう?キリシタンどもが朝鮮に拠点を持ち、それをイスパニアに献上すれば、或いは、日本の遠征がうまく行かず、ある程度のところで撤退すれば、蹂躙されて弱りきった朝鮮、明をイスパニアは容易に手にできる。朝鮮を得れば、明ばかりか日本を討つ足掛かりをも得られるわけだが──)
 スペインには日本を討つ意志はないということだろうか。
 今は明や朝鮮に出兵すると、スペインを刺激することになるのだろうか。布教させれば、イエズス会としては賛成ということか。
 ローマはどうなのか。キリスト教が広まることを望んでいるだろうが、日本の力を借りてでも、布教をしたいだろうか。
(イスパニアを刺激した時の危険度はいかほどだろう?仮に戦になると、イスパニア本国かヌエバ・エスパーニャからルソンに集結して、そこから船でやってくる。決戦の場は九州だろうが──)
 彼等が日本周辺の荒波を越えて、集結し得た場合、彼等の船には大砲が搭載されているから、さほどな兵数でなくとも、威力はあるはずで、文永や弘安年間に蒙古が襲来した時のようなわけにはいかないだろう。
 陸上戦では、日本の武士がそうやすやすと討たれるとは思えないが。
 忠三郎には、秀吉の朝鮮出兵が、ますます悪い方に傾くように思われた。
 それはそれとして。彼には今、目の前に問題がある。

 ヴァリニャーノが京を去った数日後、忠三郎と政宗は秀吉に召し出された。
 忠三郎は政宗が一揆勢に送った書簡と、須田伯耆とを提出している。
(秀吉!そなたであろう?そなたなのであろう?政宗に一揆を起こさせ、一揆勢と政宗とで私を挟み撃ち、私を殺そうとしたのであろう?秀吉!!)
 忠三郎の烈しい念力が秀吉にも伝わった。瞬間、秀吉は忠三郎を小動物のような目で見た。
 だが、すぐに視線を政宗に向け、忠三郎から提出された書簡を持って来させると、それを振りかざした。
「こりゃ、政宗!これは、そちのこれまでの書状と、筆跡も花押も寸分違わぬぞ!」
(それはそうだ。それは紛れもなく政宗が書いたもの。いいや!そなたが政宗に書かせたものだ、秀吉!)
 秀吉は忠三郎とは目を合わせない。
(見ろ、私を見ろ秀吉!真っ正面から──)
「確かに、それがしの花押にございまするが──」
(私は気付いているぞ!)
 秀吉はついに忠三郎を見てしまった。忠三郎の心まで──。
(政宗、どう切り抜ける?そちの返事次第によっては、生かしてやる)
 秀吉は忠三郎から目が離せなかったが、心の中では政宗に話しかけていた。
 政宗は二人の火花をよそに、ひどくいい加減に言ったものである。
「蒲生殿が提出なされたものは、それがしが書いたものではござらん」
 秀吉も忠三郎も、同時に政宗の顔を見た。
「なに?何じゃと?」
「ですから、それは偽物でござる」
 政宗、せいせいと答える。
(そうか、秀吉め……政宗の一揆煽動の事実はなく、私が政宗の罪をでっち上げたことにするつもりなのだな!私を罰する気だな!)
 危機のはずだが、忠三郎は怒りで、青ざめさえしない。
「なにい?そちは今、己で己の筆跡じゃと認めたではないか?」
 そんな秀吉の言葉は、忠三郎には茶番としか聞こえない。
「それがしの右筆(祐筆)はそれがしの筆跡を真似て、寸分違わず、まるきり同じに書けまする。それは右筆が書いた偽物です」
「ははあ、これはけしからん。白々しいにもほどがあるわい」
「いいえ。それがしは、右筆どもが勝手に筆跡を真似て、それがしのものとして文書を出すことを防がんと、右筆どもも知らぬ仕掛けをしておりまする。それがしの書いた花押には必ず、鶺鴒の花押に針で刺した目がございまする」
「なんだと?」
「蒲生殿が提出されたものには針で開いた穴がございませぬ。それがしがこれまでに殿下に参らせた文書をご覧になって、ご確認下されませ」
「む?」
 秀吉は忠三郎が提出した書簡の花押を、眉をしかめて見ている。
(狒狒爺、老眼のくせに見えるか?)
 政宗はにやりと笑った。秀吉は近づけたり遠ざけたり、日に透かしてみたり。首をひねりひねり色々試みている。
 政宗の発言に、周囲は何という奴かと呆れていたが、当の忠三郎だけは白けていた。
 結局、秀吉は政宗を不問に処した。
 忠三郎にも特に何もなかったが、秀吉はその後、忠三郎だけを呼び寄せ、猫なで声で言ったのである。
「不服か?」
「いいえ」
 政宗が有罪か無罪かなど忠三郎には関係ない。
「これも政じゃ。政宗は奥州を治めるのに必要なのじゃ」
「わかっております」
「気を悪くするな。奴はまことは有罪じゃ」
「……」
「それを敢えて許したのは、奴の軍勢が要るからじゃ。心配すな。奴はもうすぐ死ぬ。奴の軍勢も全滅じゃ。ふふ、奴をな、朝鮮、明にぶち込むのじゃ。激戦で全滅じゃ。今は兵は一人でも多い方がよい。そちは恥をかかされたと腹立つであろうが、しばし堪えてくれぬか?」
 忠三郎は秀吉を軽蔑し、さっさと退出してきた。
(忠三郎は兵数の差などあってないようなもの。それでも六千では、政宗と一揆勢の二万を越える軍勢には苦戦した筈。政宗は多勢とはいえ、忠三郎に苦しめられた筈。互いに消耗し合い、二人とも死ぬと思ったが。それでも忠三郎は一揆勢を一気にほふり、旧勢力を根絶やしにできるとも思ったが。一揆は壊滅、忠三郎と政宗は共倒れ、一石三鳥のはずが、二人とも死なぬとは。忠三郎め!よくも気付いてくれたな!)
 忠三郎を殺そうとしたことを忠三郎本人に気付かれ、秀吉はしばらく彼に手が出せなくなった。
(奴に謀反を起こされたら面倒じゃ。朝鮮出兵前に、無用の戦で兵を減らせぬ。機嫌をとらねばなあ)
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