大切に──蒲生氏郷

国香

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和議

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 天正二十年もそろそろ終わろうかという十二月八日。
 文禄に改元された。
 実に二十年も続いた天正が終わったのだ。
 二十年前といえば、信長が足利義昭を京から追い出した年。冬姫はまだ忠三郎の本当の妻にもなっていなかった頃だ。
(二十年か……天つ正しき。亡き上様が望まれた世が終わってしまうようだ……)
 信長が決めた天正は忠三郎にも思い入れのある元号だった。つい感傷に浸っていると、冬姫から茶碗が届いたという。
 京の隣の屋敷の妹・永姫からもらったものと、会津の窯で作らせたものだという。陣中での慰みに、とのことだった。
 だが、本当の用件は別にあったらしい。
 籍姫のことで相談したいから、会津から京へ赤座隼人を呼びたいという文が添えられていた。
 隼人とは、検地の結果、与えた領地が七万石にもなる重臣・蒲生郷安のことである。もとは六角氏の家臣で、忠三郎は蒲生と郷とを与えていた。
 籍姫は京邸で隣の前田家に嫁ぐことになっていた。利家と正室・まつとの間の次男・利政(又若)が相手である。
 利家の嫡男の利長は、冬姫の妹の永姫を妻としている。つまり、籍姫は兄嫁に叔母を持つことになるのだ。
 隣の屋敷どうし、しかも庭続きでもあり、親しく家族ぐるみで交際してきた。籍姫も、夫となる利政とは顔を合わせたこともある。大名の娘で知人に嫁げる者は稀であろう。
 忠三郎は父として、娘を難しいところへやらずにすんだことを、とても幸せなことだと思っている。
 だが、籍姫はまだまだ子供っぽく、嫁に出すなど考えられない。しかし、思えば冬姫は、籍姫の歳の頃にはとっくに忠三郎のもとに嫁ぎ、立派にやっていたのだ。祝福して送り出すべきなのである。忠三郎は己にそう言い聞かせた。
 冬姫の時は三千人を越す豪華な花嫁行列だったが、籍姫にも華麗で豪華な支度をしてやりたい。
 それは冬姫も同じ思いだ。忠三郎が不在な今、頼りになる家臣を呼びたいと、赤座隼人の話を文に書いたのだろう。
(だが、それは方便だろう。左文らと離しておこうというお考えだろうな)
 忠三郎は会津で作らせた茶碗を撫でながら、そう思った。
 左文は蒲生郷可、もとの上坂左文である。
 彼は韮山城攻めで目に弾丸を受け、大怪我をしながらも奮戦した豪傑である。それだけに自己主張が強い。忠三郎と親戚だという思い上がりもあるのかもしれない。
 そのようなこともあって、隼人とは仲が悪かった。何故左文なぞを重用するのかと、隼人は密かに忠三郎を恨んでいるかもしれない。
 その隼人も難しいところが多く、彼も家中に不仲の者が多い。特に元織田家重臣層に仕えていた者は自尊心が高く、隼人と不仲の者は、彼等の中に多かった。
 とにかく左文と隼人、どちらも我が強く、互いに遠慮も配慮もないから、余計に仲が悪くなるのだろう。
 半年前。忠三郎が会津を発った直後の六月。二人はほんの些細なことから大喧嘩になり、陣まで張って、合戦に発展しかかった。
 坂源次郎(蒲生郷成)が奔走して仲裁に入り、どうにか収まったという。あのまま開戦していたら、今頃蒲生家はなかった。秀吉によって忠三郎は罰せられ、会津は召し上げられていた筈である。
 病の母はどんなに心配しただろうかと、忠三郎は母の身が案じられた。
 冬姫が、籍姫の婚礼の支度を理由に、隼人を京に呼びたいというのは、このとんだ騒動のせいに違いない。
 唐入りは長引きそうだ。いつ終わるのかわからない。忠三郎の帰国はいつになるか。
 忠三郎長期不在の会津に、この隼人と左文を置いておくのは危険過ぎる。今のうちに彼らを引き離しておいた方が安全だと、冬姫は思ったのであろう。
 忠三郎は隼人を京に呼ぶよう、冬姫へ返事を書いた。
(それにしても、隼人は……皆は……風呂しか与えてやれなかった頃はこうではなかった)
 忠三郎は家臣達への礼を、心でしかすることができなかった。それがようやく禄でできるようになって。
(やっと皆の苦労に報いてやれると喜んでいたのに)
 禄がいけなかったのか。
 知行だけではいけない、情けも必要だ。だが、情けだけでもいけない、知行も必要だ。そう信じていたのに。
(知行、禄も与えねばついて来てもらえぬと思っていた。だが、禄なぞなくとも、ついて来てもらえる主君でなければならないということか)
 人の上に立つに相応しいのは、いかような人となりであるべきなのか。
 教会で聞いたパウロの言葉を思う。確かそれは教会の指導的立場の者のことだったが、人の上に立って、皆を導くという点では、領主にも当てはまるであろう。
 それは、非のうちどころのない者でなければならなかった。

 一人の妻の夫であること。
 節制し、分別と品位があること。
 よくもてなし、よく教える能力があること。
 酒を飲まず、暴力をふるわず、寛容で争わないこと。
 金銭に執着しないこと。
 自分の家庭をよく治め、我が子を厳格に育てること。

(なるほど、当たり前のことのようだが……)
 ふっと笑みをこぼし、自分にまずいところがあるだろうか、あるならどこだと、筆を手にしたまま思った。
 近頃、時折、気鬱する。良くないことだと、その都度、そっと彼の神に祈ってきた。今もそうした後、楽しいことを考えようという気持ちになり、まだまだ幼く思える籍姫を思った。
 以前、一年見ないと驚くほど成長したことに思い至って、もしかしたら、今、自分の知らないところで、嫁に行くに相応しいほどに大人になっているのかもしれないと考えた。
(そういえば、帰路の物語というのは、できたのかな)
 くすくすと一人で思い出し笑いする。去年の春、蒲生家の子供達の間で流行ったという遊びについて、籍姫に相談された。
(結局、鶴千代に全て書かせたのかな。佐野の、鉢木はないだろうに)
 伊勢物語だというのに、全て能の舞台となった名所を取り上げ、能を元に話を作ろうとしていた。しかも、上野国高崎の佐野で、鉢木である。鎌倉時代の執権・北条時頼の話とは。
(そこなれば、船橋だろう。船橋のシテは、岳父に殺され、地獄の業火に身を焼かれ、焦げて苦しみもがいても、浅ましくなお妄執の恋に狂う)
 とはいえ、能を模せば、ワキの僧侶を登場させることになってしまうが、それで伊勢物語がうまくできるだろうか。まして、それらの場所を、一度も見たことのない籍姫には、能のワキも伊勢物語の男の心情も、なかなかつかめないのに違いない。
 佐野の舟橋ならば、万葉集以降、多くの歌人に詠まれた場所だから、かえって能やら僧侶やらを出さない方が、物語ができそうだが。
(それよりも、鶴千代に、そんなにさっさとできたならば、全て書けと言って、喧嘩になってはいないだろうか)
 子供達の喧嘩の様がまざまざと浮かんできて、忠三郎は一人、いつまでも笑っていた。





************************
 一ヶ月にも満たない文禄元年はあっという間に明け、翌文禄二年(1593)。
 秀吉も名護屋に戻ってきた。
 日本の軍勢は朝鮮で目覚ましい勝利を重ねながらも、極度の寒さと兵站不足から、大量の死者を出していた。一方の名護屋では特にすることもなく、所在ない日々が続く。
 忠三郎の陣中に、来客があった。親族である。
 親族の小倉作左衛門行隆(行春)は熱心なキリシタンで、その人脈で、忠三郎は身内を志岐にいるジョヴァンニ・ニッコロに預けていた。その者が訪ねてきたのだ。
 ニッコロは伊留満で、画家でもあった。
 そこで絵を学んでいる者が、休暇でも与えられたのだろうか。それとも、ニッコロの、或いはイエズス会の使いなのかもしれない。
 その場に通すと、大きな丸顔の青年が現れた。貞秀という。青年になりかけの、未だ少年とも呼べそうな彼は、一時、忠三郎が養嗣子にと考えていた養弟だ。
 本能寺の変直後、日野で籠城した時、信雄に援軍を頼もうとして、幼かった彼を人質に出そうとしたこともあった。結局、籍姫が人質となったので、貞秀は信雄のもとには出さなかったが、鶴千代に万一のことがあった時のためにと、備えに養っていたのでもある。だが、今はこうしてキリスト教の中に身を置かせて、修行させているのだ。
 この青年、いや少年は以前、ルソンの日本人居留地はじめ、東南アジア諸国を巡ってきたことがある。なかなかの情報通となったが、絵に親しみ、あまり武将らしさを持たない質に育った。
 もはや鶴千代の身に何かあったとしても、家督にかかわらせることはないだろう。
「今日はセスペデス様からの伝言で。しばらく休暇をやると言われて参りました」
と、貞秀は一親族、一家臣のように挨拶する。
 今回の朝鮮への出兵。実はこの後、キリシタン武将に付いて、伴天連も渡海して朝鮮に上陸することになる。グレゴリオ・デ・セスペデスなど、朝鮮に渡った人々からの情報は、日本のイエズス会のみでなく、マカオのヴァリニャーノなどからも大変重宝されることになるのだ。今まで知ることのなかった朝鮮の情報であるから。
 だが、現時点でも、伴天連たちはキリシタン武将達へ、後方で指示を出し、彼等からの相談にも乗っていた。朝鮮にいるキリシタン武将達は、日本にいる伴天連達と連絡を取り合っていたのである。当然、朝鮮の戦況など、様々な情報がイエズス会のもとにもたらされていた。
 ニッコロのもとへも何らかの情報が、いや、情報をもとに上の者達が決めた命令が届いているのであろう。
 朝鮮への先鋒は小西行長と加藤清正が務めていた。特に行長は一番隊である。清正は二番隊だった。
 一番隊の行長はキリシタンである。一番隊は、他にも、宗義智や有馬晴信、大村喜前などのキリシタンが多い。
 秀吉の方針、命令に忠実な清正とは異なり、行長は開戦当初から、しきりに朝鮮側に対して降伏を促していた。現在までずっと、清正と競い合って目覚ましい勝利を重ねながらも、しばしば朝鮮側に和議をもちかけている。
 これは行長一人の考えではなく、一番隊の武将達の考えであるのだろう。イエズス会の助言があるのかもしれない。ともかく、行長は時に清正が秀吉の意を実行するのを邪魔するかのように、先んじて行動してきた。
 ただ、行長と清正が競い合った結果でもあろう、日本軍は朝鮮での戦闘を有利に進めていた。
 朝鮮が攻められたというので、明が参戦してきたが、それでも日本軍は強く、敗れた戦闘もありはしたが、戦闘そのものでは深刻なことはあまり起きていなかった。
 問題は朝鮮水軍に敗れて兵糧の補給が難しくなったことだ。また、厳しい寒さと病のため、多数の死者を出した。それで、逃亡してしまう兵も少なくなく、兵は当初の三分の二ないし半数にまで減っているという。
「このような状況で、なお戦闘に及ぶは不可能。また、明の方でも、日本には勝てぬと、戦闘意欲をなくしているというのです。そこで、小西アゴスチーノ殿が密かな計画を──」
 アゴスチーノとは行長のことである。
「計画とな。それを私に伝えよと、そなたが遣わされたわけよな?」
 忠三郎は急に貞秀が休暇を与えられた理由を察した。行長の計画とやらには、イエズス会の意向が存在するであろう。貞秀は頷き、
「小西アゴスチーノ殿は、これまでにも何度も明との間に休戦、和議を持ちかけてこられました。明は応じつつも、実は休戦している間に、次の攻撃の準備をするという有り様。しかれども、この度ばかりは誠にございまする」
 とにかく、朝鮮に行かされている兵は皆、この戦が嫌でたまらない。戦を止め、即時撤退したかったのは行長だけではないのだ。軍奉行の石田三成らも、明との和議には賛成なのである。
 明側としても、日本には穏便に帰国してもらいたい。
 明の沈惟敬は、今度こそ本当に行長に和議を求めてきた。それに行長も三成も乗った。
 そこで日本軍と明軍との間で談合に及び、沈惟敬から名護屋の秀吉のもとへ、使節を派遣することになったのである。
「ただ問題は、この明軍との和議が、明皇帝の預かり知らぬ事だということです」
 秀吉も知らぬ事である。
「正式な和議ではないということだな」
 明から持ちかけた和議ならば、明皇帝の指示でなくてはならない。又、日本から持ちかけたものならば、当然秀吉の指示でなくてはならない。
「左様です。つまり、戦に辟易した現地の敵と味方とが、現地で勝手に戦をやめようと共謀したということです」
「それはいかん。発覚したら、死罪だ」
「ですが、この和議、是が非でも成立させんと、既に使節が名護屋に向かっておりまする。己一人、死罪になるくらい厭わぬと、石田殿達が──」
「では、和議は明皇帝の指示だと偽り、太閤に和議に応じさせるわけよな?応じれば、和議は偽りから誠に変わる。今度は和議は日本の意志として、正式に明皇帝に申し入れが叶うということか」
 忠三郎は、現地で勝手に、強引に終戦に持っていこうとするほどの、現地の窮状を思った。やはり、当初忠三郎が危惧していた通りになった。この遠征は失敗に終わり、途中で撤兵することになるのだろう。
「それで、私に小西殿らの計画を後押しせよというのだな?」
 イエズス会が貞秀を送ってきた理由が判明した。
「御意。これ以上、明人、朝鮮人を殺してはなりませぬ。戦はならないのです」
 石田三成は小西行長は、いや、イエズス会は、朝鮮から撤兵するよう秀吉に進言してくれと、忠三郎へ依頼してきたわけである。





**************************
 日本軍は漢城から釜山まで撤退した。代わりに明軍が漢城に入り、休戦している。

──明が朝鮮の半分を日本に割譲することを条件に、秀吉に和平を求めている。そのため明皇帝の使節が名護屋に赴く──

 三成や行長らは、秀吉に対してそのように偽った。そして、彼等は実は沈惟敬が用意した二人の偽使節を伴って、名護屋へ。
 明から持ちかけてきた和議であり、朝鮮半国を割譲すると言ってきていることから、秀吉は、明は日本に降伏したのだと思った。
 そこで。

──明は朝鮮半国を日本に譲ること。明の皇女を、和平の証として帝に嫁がせること。日本と明との間の通商を再開すること──

 などを、秀吉は使節に対して要求した。
「明からの回答があるまで、停戦するわい」
 忠三郎は、秀吉が使節を引見した時、他の大名とともにその場にいた。
(明がこのような要求を受け入れるとは到底思えない。受け入れられなければ、まだまだ戦は続けるつもりだろうが──)
 ともかく、秀吉が使節に言った通り、言行一致していれば、本当に一時は停戦になる。それですむ話で、わざわざ忠三郎が撤兵を進言するまでのことはないと思われた。
 しかし、そうではなかった。
「停戦中に、既にこの戦で得た地の防備を堅固にする必要がある。朝鮮各地に城塞を築き、さらに全羅道を攻略せよ」
 使節のいない席では、秀吉がそう命じたからだ。
 その場には、キリシタンの大名も、キリシタンと親しい大名も複数いる。秀吉の発言を聞いて、彼等がしきりに忠三郎の顔を見る。彼等は小西行長らの計画を知っているはずで、忠三郎にその後押しを依頼していることも知っているはずであった。
 だから、忠三郎は言わないわけにはいかなかった。
「和平交渉中は敵味方何れも停戦してございまする。しばし撤兵させても問題ないはずです。十五万人もの兵糧、十分に補給できませぬ。兵どもはそれでなくとも疲弊しきっておりまする。これ以上どうして攻撃する必要がありましょうや」
 先日の貞秀の顔が頭にあった。セスペデス、イエズス会の面々の姿も目に浮かぶ。この場にいるキリシタン大名達がかすかに頷いたようだ。
 しかし。
「撤兵じゃと?」
 すかさず、秀吉は聞き咎めて、いったいどうしたらそんな考えになるのかと、目を丸くした。そして、ややあってから、さも憎々しげに、顔じゅう皺だらけになるほど眉を強く顰めたのだ。
「だから、そちはイスパニアの犬だというのじゃっ!」
 苛立ちを珍しく隠そうとしなかった。
「そちが如き売国奴に、信長公ほどのお方が、どうして冬姫さまをご下賜になったかと思うぞ!」
 忠三郎には口是心非な思いもないわけではない中、意を決して発言したこともあり、思わずかっとなって、顔を紅潮させた。だが、秀吉は本音を包み隠さなかった。
「伴天連の犬め!──信長公も明を抑えねばならぬとお考えだったかと思うが──最悪でも、朝鮮南半分は確保せねばならぬ!できれば明も手に入れたいが、最低でも朝鮮はなければ困るのじゃ。わからぬか?そちはルソンを刺激するなと申したな?イスパニアが怒るとな」
「ですから、そもそも渡海を致しては……」
「イスパニアの水軍は今、日本を攻撃できる状況にはない。我等がルソンを撃っても、イスパニアに反撃する力があるかどうか」
 忠三郎は前のめりになっていた体を後ろに引いた。顔の赤みがやや引く。
 秀吉もふうと一つ息を吐き出し、今度は冷静に言った。
「問題は、イスパニアがポルトガルを併合したことで、天竺をも手にしたことだ。わしが朝鮮を固守するのは奴らへの備えぞ。伴天連どもは、わしが朝鮮、さらに明へ出兵することに反発していよう。それは、奴らが欲していた明を、わしに奪われるのが悔しいからじゃ」
 その先は、頭に閃いたものを忘れぬうちに吐き出そうと、一息に捲し立てる。
「仮に奴らが怒って日本に攻めてくるとして、奴らには前線基地がない。ルソンから直接日本に来るのは難儀ゆえ、おそらく明のいずこかに拠点を築き、さらに容易に日本へ出兵できるよう、朝鮮にも拠点を築こうとするであろう。水軍に頼れぬなら、天竺より陸路辿って攻めてくるかもしれぬ。奴らが明を突き破って日本を目指した時、それでも奴らは朝鮮に拠点を築かねばならぬ。だから、そうさせぬための先手を打ったのだ。我等が朝鮮を前線基地としている限り、日本本国に攻められる危険は減る。我等の基地が明国内にもあれば、二重の防衛にもなる──だから、信長公も明に目を付けられたのであろう──だが、最低でも朝鮮は固守せねばならぬのじゃ。それを、苦労して得た朝鮮に城塞も築かず、どうして撤兵なぞできようぞ?」
 だから、そもそもスペインを刺激してはならなかったのだ。日本が朝鮮、明に攻めて行きさえしなければ、スペインは黙っていただろうに。いや、それ以前に、日本の実力では唐入りは不可能。途中で投げ出すしかなくなる、撤兵せざるを得なくなる。
 日本が撤兵した後、さほど軍事力のないスペインとはいえ、日本との戦で弱体化した朝鮮ならば、制圧できるし、交渉による同盟もあり得る。
 だから、日本は渡海してはならなかったのだ。
 だが、現実として、忠三郎が会津に押しやられている間に、秀吉はフィリピン総督やインド副王に挑発的な書簡を送りつけている。そして、朝鮮に攻め入ってしまった。
 時を遡って、やり直すことはできない。
(取り返しがつかぬ以上は……始めてしまった戦には必ず勝利せねばならぬ!)
「イスパニア海軍が弱体化しているならば、撤退してきても問題ありませぬ。されど、弱体化したという確証もございませぬ。我等は彼等を怒らせてしまったのですから──。陸路に備えるだけでは不十分、海軍にも備えるとして、確かに、イスパニアがルソンから直接日本に来ることは難儀でしょう。おそらく明のいずこかに拠点を築き、さらに容易に日本へ出兵できるよう、朝鮮に拠点を築くに違いありませぬ。されど、イスパニアはヌエバ・エスパーニャからルソンに直接渡ってくる力があるのでございます。日本の海も克服できるかもしれませぬ。ルソンから直接日本へ来ることも?」
 忠三郎は言いながら、過去の自分を思い出していた。
 いつの間にか、彼は熱烈な信仰心を持っていたが──。
 先年のコエリョの言動に、スペインの奸策を疑った秀吉。だが、最初は忠三郎も、ポルトガルの、スペインの考えを探るため、伴天連に近づいたのだ。いつしか信仰に入ってしまってはいたが。
 本心は知らぬが、秀吉は度々帝を明皇帝にするつもりだと口にしているので、忠三郎は言った。
「おそれながら、朝鮮をそれがしに賜りませ。それがしが明まで撃って出て、中原を献上致します」
 明への遷都。秀吉は忠三郎の豹変と、その発言に驚いた。
 そして、しばしの後。半分呆れて、
「これやまた、随分とまあ、とんだ大言壮語よな」
「いいえ。イスパニアの艦隊に備えて、高山(台湾)にも琉球にも参りまする。これらを拠点とすることで、ルソンから攻めてくるイスパニア艦隊を食い止めることができます。日本の近くにさえ寄せさせませぬ。これらをことごとく日本の拠点と致しましょう。そして、攻めに攻め上り、それがし、ルソンを献上致します。それがしに琉球をお任せ下さりませ」
 忠三郎は西欧の海軍技術を研究する目的も兼ねて、昨年、ロルテスや六右衛門らをローマに派遣している。
「ふうん、そちは頭のめまぐるしい奴よな」
 秀吉は無表情に感心した。
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