大切に──蒲生氏郷

国香

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渇愛

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 冬姫が心痛のあまり病んでいる、そのため参上できかねると次兵衛が断ってからしばらくして、また秀吉が冬姫に側室になれと言ってきた。なお具合が悪いと答えると、さらに秀吉はしつこく言い寄ってきたのである。
「そこまで病んでおられるからこそ、お慰めしようと申している」
 秀吉は苛立っているらしい。使者の口ぶりからもわかる。一度や二度なら我慢してやるが、それ以上は許さぬ。暫しの間なら待ってもやるが、それ以上は許さぬ。ということのようだ。
「これ以上焦らされたら、殿下は蒲生家の不忠を咎められましょうぞ。すぐにも蒲生家との縁組み、取り纏められるべし」
 使者は脅してきた。
 冬姫はよろよろと倒れ込んだ。
 どうして秀吉はこうもしつこく言い寄ってくるのだろう。冬姫には理解できない。
 冬姫は本当に窶れていた。
 彼女もすでに三十代の半ば。
 ところが、やつれても痩せても、一向に容色が衰えないのだ。やつれているのに、肌はなお透き通り、白く艶やかで、髪も輝き潤い、美しいままだった。
 それどころか、やつれて愁いを帯び、透けてしまっている姿が、かえって惹き込まれる。これがいわゆる未亡人特有の魅力とか、色香とかいうやつなのかもしれない。
 なお若く美しい。そこに儚さと、放っておけない愁いとが加わって、冬姫を見慣れた家臣達でも、その色香にどきりと、思わず迷いかける。
(姫さまはどうしてこうも美しく生まれてしまわれたのか……)
 一人次兵衛だけは、冬姫の国色振りを気の毒に思う。
 そして、ある時遂に、秀吉から迎えが来た。
「御方様、迎えまで来られては、これ以上は拒否できませぬ」
 源次郎を牽制して、彼を鶴千代のもとに行かせた隼人が、冬姫の所にやって来てそう告げた。
「何故?私は亡き殿をお慕いしているだけなのに……どうして殿をお偲びしてはいけないの?」
 冬姫は珍しく気弱な言葉を吐いた。
 隼人もそれには同情する。彼とて、秀吉の執心を気の毒に思うし、冬姫の忠三郎への想いをいじらしくも思う。
 忠臣は二君に事えず、
「貞女は二夫を更えずと申しますのに……」
「ですが、御方様、もうどうしようもございませぬ。及ばぬところ」
 冬姫の双眸は赤みを帯びていた。しきりに瞬きをする。その都度かすかに睫が凝って行った。
「これは政治にございまする。古くから、美人計なるものもございます。御方様のお麗しさは武器。その武器であれば、殿の望まれた夢も掴めましょう。そして、若殿を天下人になされませ。殿の果たせなかった夢を、若殿に──」
 隼人がそんなことを望んでいるとも思えないが、冬姫に決断させるために言ったのだろう。
 だいたい、どうやって鶴千代が天下人になれるというのだろうか。
 母子ともども秀吉の世話になるということか。冬姫が秀吉の室に入り、鶴千代は連れ子として、秀吉の養子にでもなるというのか。
「お支度を──」
 隼人が促した。
「忠三郎さま、お逢いしたい」
 かすかに冬姫が口にした。隼人には聞こえていないのか、彼は控えていた腰元達に、支度を言いつけた。
 冬姫の周りを腰元達が取り囲んだ。隼人が下がり、秀吉の迎えのもとへ行く。
「お召し替えを」
「自分で支度します」
 冬姫は腰元らの手を借りるのを拒み、一人隣室に閉じこもった。
 無性に忠三郎に抱きしめられたかった。
 彼女は自分で自分を抱きしめるようにした。だが、彼女の腕には、忠三郎のような熱はない。
 いつも寄せられた息吹きの熱さも、男にしては柔らかな髪も、力強い腕も、優しい唇も、甘やかな声もない。どこにも。
「忠三郎さま……」
 彼以外の人間に触れられるなど、想像もできない。彼女は忠三郎以外の人間の体温を知らない。
 初めて忠三郎に抱かれた夜のことを思い出す。
 冬姫はとても恐かった。忠三郎にちょっと触れられただけで気絶したほど。なのに彼は容赦しなかった。
 恐いのに。逃げたいのに。彼に触れられると、身動きできなかった。
 そうして彼の悦びに、冬姫も幸せを感じた。
 あの日から、忠三郎しか知らないのに。
 秀吉にあのようなことを──
「嫌!」
 冬姫は激しく瞼を閉じた。
 やがて、迎えの使者の前に現れた冬姫は、驚くほど凛然としていた。
──己を愛するように汝の隣人を愛せ──
 ふと、彼女の脳裏にその言葉がよぎった。
 見知らぬ無数の人々のため、自分の命を犠牲にすることさえできる愛。忠三郎なら──。
 冬姫は家老達に見送られ、秀吉のもとへ向かった。

 通されたのは、随分奥まった場所だ。側室が秀吉と対面する所であるらしい。隣室の襖の奥には、閨が設えてあるようだ。
 冬姫はしばらくそこで待たされた。
 秀吉が床板を踏み鳴らして跳ねるように現れたのは、一刻ほど経った時である。
「姫さま、よう来て下されました。お痩せになりましたなあ」
 秀吉は座りもせず、いきなり冬姫のすぐ前に来ると、いつものような屈託のない笑顔を見せた。頬には暗さも、目には妖しい光も垣間見えず、いつもと変わりないいたわりに満ちていた。
 秀吉は年をとった。実年齢より遥かに年老いて見える。
 冬姫は両手をついた。秀吉は半歩下がって座り込む。
「何度も具合が悪いと断ってこられましたな。まことにお痩せになられた。それほど悩まれたかな?」
 冬姫はそっと面を上げた。秀吉はなおいたわるような眼差しを向けている。
「それほど嫌がる冬姫さまを、ついにはわしのもとへ献じてしまうとは、蒲生の家臣は不忠者ばかり。さぞお辛かったでしょう」
 冬姫は目を瞬いた。話が間違ってはいまいか。
「蒲生家には色々な輩があり、わしの息のかかった者もおる。そやつらから聞いたが、姫さまは随分強情に拒まれたそうじゃの。そんな姫さまを我が儘と罵る者ばかりであったと。許せぬ!」
「あの、殿下は……?」
 そもそも秀吉が冬姫を召し出したせいではないか。秀吉が蒲生家に怒るのは変だ。
「このままわしのもとに居ませ。奴らのもとに帰ってはなりませぬぞ。奴らは危険じゃ。若君もわしが育ててあげる」
 結局そういうことだろう。そして、秀吉の本心は蒲生家解体にある。
(冬姫を豊臣に入れたら、蒲生は潰す。会津は安心できる家に任せる)
「殿下は何故、当家に憤慨遊ばされるのでしょう?」
「だって姫さまは忠殿が亡くなって、ご苦労なさいましたろ?忠殿が死は奴らのせいじゃ。奴らの中には、未だ下剋上を夢見る時代遅れや、元の主に未練を残し、忠殿に復讐を企む者もいる」
「まさか!」
「伴天連と結託して、忠殿に謀叛を起こさせようとしていた者がおることも、承知しておりますぞ。キリシタンの忠殿を天下人にすれば、戦無しに日本を制圧できる、イスパニアのその意向を受けた伴天連どもに乗せられたのじゃろう。忠殿が築き上げた危険ではありますが」
 だからこそ、秀吉が忠三郎を葬ったのではないのか。
 確かに忠三郎は謀反を企んでいた。だが、天下の座についた後は、日本をスペインに献じるつもりは全くなく、伴天連には乗せられていない。
 むしろ、スペインや伴天連の思惑に対抗するような言動をしたため、伴天連には疑われたのではないか。
 秀吉への謀叛が成就したあかつきには、日本を何者の手にも渡さず固守したまま、日本の秩序を全く変えようとしていた。宗教をがらりと変え、日本を唯一絶対なる神に立ち返らせ、原点に戻るべきだと考えていた。
 だが、それがこの世の根本で、それが正しいとしても、今の日本から見たら反逆だろう。
 秀吉の言うように、忠三郎が家中の者に殺されたなら、それは秀吉がその者に密命して殺させたのではないのか。
 ただ、秀吉は為政者だ。天下人として逆賊を討つのは当然である。
 だが、逆賊であっても、冬姫はその逆賊の夫を正義と信じている。
(冬姫よ。謀反企んだ蒲生は解体せねばならん。忠三郎は死んだが、今度は鶴千代を奉じようとする者どもがおろう。すまんな、姫がわしのものとなっても、蒲生家は維持してやれぬのじゃ)
 秀吉は冬姫を不憫そうに見つめた。
「とにかく、蒲生家は危険がいっぱいじゃ。わしは姫さまを、忠殿を殺した家臣どもから守りたかったのよ。だから、どうしても呼んだんじゃ。しかし、ここまで拒まれるとは思わなかったよ。そんなにわしがお嫌いか?」
 すっと手を伸ばした。はっと冬姫はその六指を避ける。
 秀吉はそこで動きを止め、その六指を睨みつけた。
「そんなにお嫌か?わしにここまでの想い抱かせながら──。だったら、どうしてわしに優しい言葉をおかけになられた?何故、珠玉の言葉でわしに期待を抱かせたのです?」
「私は夫の妻です……私はただ、夫を想っているだけで……」
 声が震えた。
「姫さまは双瞳は嫌じゃと仰せられたではないか。虞姫になりたくないと。なのに、何故そんなに忠三郎ばかり見ているのです。わしは!……姫さまが大事じゃ!わしがここまで来れたのは、姫さまが、この忌々しい指を褒めて下されたが故。それなのに!」
 冬姫は困惑するばかりだった。
「姫さまへの想いは忠三郎には負けない!想いの強さなら、忠三郎以上じゃ!」
 秀吉は悲しげに六指を見下ろしていた。
 幼い頃、言ったことさえ忘れてしまったような些細な一言。それが、これほどまでに偉大な一人の人間に、ここまで大きな影響を与えていようとは。
「何故です?いつから?いつからそんなに忠殿がよくなった?」
 秀吉が身を乗り出して問いつめる。その目に冬姫はたじろいだ。だが、ここで負けては、彼女はこのまま秀吉に組み敷かれてしまうだろう。彼女は必死に言い返した。
「初めて会った時から、一目で恋に落ちました!理由なぞありませぬ。ただ夫を一目で好きになったのです」
「項羽は嫌じゃと仰っしゃったではないか!」
「はじめは──」
 ロルテスの言葉を口にした。
 ロルテスの故郷イタリアか、ポルトガルかスペインか、それに対立するオランダかイギリスかは知らぬが、西欧では近年、一目惚れこそ真実の恋だと言われているという。
 だが、その一目惚れには、憎悪や嫌悪、憤怒も含まれる。一目見て、何かしらの強い感情を覚えること、それが真実の恋だというのだ。
「私は夫を無礼者だと思ったのです。強く怒りを覚えました」
 かの阿弥陀像を押し付けたほどに。
「だから双瞳は嫌じゃと?それは矛盾していないと?忠殿に怒るは恋じゃと?──何かしら感じる……なれば、わしも姫さまに一目惚れしたのじゃな」
 秀吉は思い出す。木の上の秀吉を見上げた冬姫を。
 頭上に注意する者など、めったにいない。頭上を忘れるは、人間の不可思議な性質だ。なのに、その性質を利用して木に登り、お市御寮人を盗み見た秀吉を、幼い冬姫は見つけてしまったのだ。
 その衝撃。
 その時の黒い澄んだ穢れのない瞳。
 そして、六指は王者の証と言ったその言葉。
 秀吉は忘れない。ずっと焼き付いている。あの時からずっと冬姫を見てきた。
「わしは姫さまを一目見て、ずっと見守りたいと思ったのじゃ。ずっと見ていたいと」
 幼女に一目惚れする男など、おかしいかもしれない。だが、あの時、冬姫に感じた驚きは、一目惚れに含まれるのだろう。
(わしの醜さを初めて……)
 秀吉、急にそこで思い得た。
「いっひゃひゃひゃっひゃっ」
 不意に奇妙に笑い出したので、冬姫はぎょっとして、身を仰け反らせる。
「初めて会った時に、何かしらの強い感情を覚えたら、それは一目惚れじゃと?ひゃひゃひゃ!わしは、わしはいつもこの醜悪な姿で、初めて目にする者に嫌悪感を与えてきた。わしを見て、男も女も醜さに笑い、嫌悪したものぞ。それじゃ皆わしに一目惚れしたことになるわい」
 だが、秀吉は実際多くの人間を魅了し、彼等の手を借りて、天下を手に入れた。
「異形は王者、確かにな。異形を目にした者は、一目で嫌悪する。そうして、この醜いわしに、どうしようもなく従いたくなって、わしを天下様に押し立てたわけじゃな。わしのこの醜さが、道を拓いたのじゃ。姫さまはまことに良いことを口にされたものじゃ。わしはこの世の全ての人間を、一目で惚れさせた!」
 異形は王者の証と言った幼き日の冬姫は、やはり素晴らしかった。
「だがよ、姫さま」
 秀吉はそこで急に笑いをおさめ、真顔になり、ややさし俯いた。
「誰しもわしを一目見て嫌悪するのに、姫さまだけは褒めて下された……姫さまはわしを見ても何とも思われなかったのですな……わしを嫌悪しなかった」
 秀吉の感情の波は烈しい。いきなり顔を上げると、冬姫を睨みつけた。
「つまり、姫さまは忠三郎には怒ったのに、わしには優しい言葉をかけて……わしを嫌悪されなかった。わしに惚れては下さらなかった!」
「……殿下……!」
 目が暗かった。冬姫によからぬ予感がよぎった。
「世の中の皆がわしに一目で惚れるのに、わしの大切な御方は、大切な御方だけが、惚れて下さらなかったのじゃっ!」
 いきなり突っ立った。冬姫目掛けて手を伸ばす。冬姫も立ち上がり、後退った。
「殿下っ!」
 冬姫が逃げかける。しかし、狂気の秀吉の動作は異常に速く、冬姫の襟を両手で鷲掴みに掴んでいた。そして、その勢いのままざっと襟を開く。
 ぼとっ。
 その拍子に何か下に落ちた。
 秀吉は硬直した。襟を掴んだまま。寸前までの乱暴が嘘のように。
 落ちたものの音もその姿にも気づかず、冬姫の胸元を凝視していた。
「姫……」
 冬姫の襟の下から現れたのは、死に装束であった。
 秀吉が茫然とそれを見ている。はっと冬姫はその隙に身をよじり、秀吉の両手を振り払って、そのまま素早く畳に落ちた物を拾い上げた。
 銀に宝石がいくつも埋め込まれた、小さな細長い小刀。南蛮製の珍しいそれ。
 拾うが早いか、冬姫はそれを抜いた。
 秀吉、はじめて意識が戻り、
「ややっ、わしを殺す気か?わしを殺せば──」
と、半歩後退る。
 冬姫とてこの場で斬られる。しかし、差し違えてもと、覚悟を決めているであろう。
「いいえ!」
 けれど冬姫は、刃を己の首にあてがった。
「ひひ姫さま!」
「殿下は日本の要。なくてはならない御方ゆえ、今殺すわけには参りませぬ」
「やっやめなされ。いったい何をお望みか。望みなら、何でも叶えて進ぜましょう。秀吉、冬姫さまのためなら、天下だって差し上げられる。だから、やめなされ」
「望み?天下?私が欲しいのは……」
 秀吉が隙あらば刀を取り上げようと、右足を前へやや擦らせる。
「私は忠三郎さまの天下が……ええ、殿下、忠三郎さまに天下を下さいませ!」
 冬姫は声を張り上げた。
「隠谷の蘭ではないのです!あの方は死んでも死にきれないと仰有った!蘭なのです、天下は忠三郎さまのもの!」
 冬姫の目は光っていた。
「わわ、わかった。わかったから、その危ない物をこっちに寄越しなされ」
 しかし、冬姫はかえって刃を皮膚すれすれに近づける。
「わしのものは若君に遣わそう。天下を若君にやる、のう?」
「いいえ!」
 冬姫は強く頭を横に振った。
「忠三郎さまに!」
「そうしてあげたいが、忠三郎はもう亡いではないか。無理なのじゃ。だから、忠三郎の嗣子に。それで忠三郎が天下を得たことになろう。姫さまとて我が子を天下様にしたいじゃろう?」
「思いませぬ」
「なに?」
「あの子がそれを望むなら、そして、それに相応しい器量なら、私も援けます。でも、天下に血筋は関係ありませぬ。もし、それに拘るならば、私はとうの昔に殿下に、秀信(三法師)に返してと申し上げておりました。天下は忠三郎さまだけに相応しい、忠三郎さまだけのもの!下さい、忠三郎さまに!」
 秀吉は困惑した。
「それだけは無理じゃ。忠三郎は死んだんじゃよ。諦めなされ。それに──」
 秀吉は冬姫には言うまいと思っていたが──。
「……忠三郎はわしに一服盛るような男じゃ」
 盛ったのは毒ではないが、病気の者にとっては、薬草も害になる場合もある。
「そんな男のために、死ぬことはありますまい。さ、それをこちらに寄越しなされ」
 右手を差し出した。
 冬姫はふるふる首を振って拒否した。
 秀吉とて、忠三郎を殺そうとしたくせに。いや、実際殺したのかもしれない。
「私だって、忠三郎さまが生きておいでだったら、自分ではなく殿下を殺すところです!こんな絶好の機会はありませぬ。でも、忠三郎さまはもういらっしゃらない故……天下は、殿下にお守り頂くしか……だから、私が死ぬのです」
「姫さま……」
(忠三郎に天下を譲らぬ限り、死ぬというのか?わしに抱かせる条件は、天下を忠三郎に譲渡することだと?)
 秀吉は脱力した。
「辱めを受けるくらいなら死ぬか……」
 ぽつりと呟いた時、冬姫がその珠のような白い肌を、刃で切り裂かせた。
──冬姫さま、冬さま──
 どこからか声が聞こえたような。同時に冬姫の手元は狂わされ、刃は彼女の首筋をすり抜ける。
「……忠三郎、さま……」
「ぎゃああああ!」
 秀吉が尻餅ついて、喚いた。目が血走っている。
 冬姫は、はらりと髪が頬にかかるのを見た。ぽとりと刀を取り落とし、そして、手に握っているものを見やる。
 美しい髪。長く真っ直ぐに伸びた艶やかな髪の束。
 彼女は自分でそれを切り落としていた。
 手にした髪を見つめ、冬姫はその場に崩れるように座り込んだ。
 血が涙のように首筋をすっと伝って、彼女の死に装束をほんのわずかに染めている。
「ひ、姫さま姫さま、何ということを!」
 冬姫の髪の長さは、秀吉が初めて彼女に出会った頃と同じくらい。
 ぽとりと畳に落ちたのは涙。血ではなく涙だった。
──御身は私を愛している──
 忠三郎の言葉が頭に響く。
「忠三郎さま……」
 涙は幾つも幾つも落ちた。
 忠三郎にさえ見せたことのない涙を、秀吉に見せようことになろうとは。
「忠三郎さま……忠三郎さま……」
 髪を抱きしめ、冬姫は何度も呟いた。その度に珠のような涙が零れる。
「忠三郎さま」
 涙に洗われる度に、彼女の顔は清しく輝いていく。
 感涙──秀吉にはそのように見えた。それに見とれ──。
「忠三郎さま」
「しいっ!」
 やがて、尻餅ついた体を起こし、秀吉は自分の唇に人差し指を押し当てた。
 初めて会った日に、木の上から幼い冬姫にしたのと同じように。同じような眼差しで。
「もうその名は、呼んでは駄目じゃ」
 幼い子をあやすような口調で言った。
「このまま、この秀吉のそばに居ませ、姫さま」
 冬姫は首を横に振る。首を動かす度に、髪が頬にかかる。首筋にかかった髪には、血がついた。
「痛いじゃろう?ほれ、手当てして進ぜよう」
 秀吉が伸ばした手を、さっと払った。
「姫さま……」
 はあっと秀吉は物凄く大きな溜め息をついた。
(死してなお、冬姫の体を縛り付けるか!)
 忠三郎が憎かった。
「姫さまをお帰しするわけにはいかぬのじゃ。姫さまがどんなに奴を想おうと、わしは姫さまを返さぬぞ」
 冬姫は我に返った。
 髪を下に置き、襟を整え座り直すと、南蛮の小刀を収めた。そして、凛然と返事した。
「お断り申し上げます」
「それは許されぬ。姫さまはわしの側室じゃ」
 秀吉は睨みつけると、胡座する。が、何故かすぐに下を向いた。
「姫さまのお心がわしになくても構わん。ずっと奴を想っていても良い。わしは姫さまを傍に置く!──そう心配せんでもわしは……わしは、もう男ではないのじゃ……」
 何と愚かなことをしたのかと、冬姫の切られた長い髪を眺めた。
(わしは小便さえ己で管理できんようになった。冬姫をこの手に抱き、愛でようとも、完全に愛で尽くし、一体になることはできぬ)
「……名目上の側室となるだけじゃ」
 遅かった。もっと若いうちに欲しい人を奪っておけば──。
 忠三郎は、冬姫を人質に寄越せと言えば、妹を寄越し、有馬で手籠めにしようとすれば、妹を用意して、いつも邪魔してきた。それでも、無理矢理押し入ろうと思えば、できないこともなかったはずだ。
 顔を上げ、冬姫を見た。冬姫は凍りの月のようだ。
「私の身を勝手にできるのは、夫だけです」
「姫さま!」
 秀吉の目にぶわっと涙が涌いた。
「こんなに懇願してもか!?」
 おいおい泣き出す。
「……わかった。側室にはせぬ。だが、一度だけ、冬姫さまの御唇に触れさせてくれぬか?」
「いいえ!」
 秀吉は泣いたまま、ふっと笑った。
「傷の手当てをせんと」
 秀吉は涙を拭きつつ立ち上がり、人を呼んだ。
「また戻って来る」
 一度冬姫のその姿を貪り見ると、出て行った。
 すぐに若い医師が現れた。見覚えがある。確か、秀吉が忠三郎に寄越した施薬院全宗につき従っていた者だ。
 医師は冬姫の様子を見て頷き、安堵した様子で言った。
「傷は極めて浅く、心配ありません」
 一応治療はするのか。薬剤などを取り出し始める。
 そうしている間に、もう一人入ってきた。
 あっと思った。相手は驚いたようで、冬姫を見た途端、眉根を寄せた。
「三蔵さま」
「冬姫さま、これは──」
 藤掛三蔵だった。
 三蔵は人を呼ぶと、何事か命じた。
 医師が冬姫の首に薬を湿布する。血止め薬のようだ。そして、治療を終えると、冬姫のことをしげしげと見つめて。
「会津宰相殿のご内室様を──死してなお宰相殿は守っておられるのですなあ」
「どういうことでしょうか?」
「いや」
 何でもないと言って、医師は片付けると、立ち上がった。
「宰相殿は殿下に大それたことをなさったものです。殿下は治りませぬ」
 医師はそう言い残して去って行った。
 医師と入れ替わりに現れた侍女から、美しい唐綾の被衣を受けとると、三蔵はそれを冬姫に被せた。頭から被われたことで、髪の長さがわからなくなり、普通の女人と変わらぬ様子に見える。
「そうしていると、やはり姫さまは絶世の美女であらせられる」
 三蔵は美しい冬姫に悲しげな声を投げた。
「これほど美しい方が、これほど美しい玉の御髪を、惜しげも躊躇いもなく、御手ずから切り落としてしまわれるとは……」
 三蔵は懐紙を取り出し、その翠の黒髪を丁寧に包んだ。
「姫さまにここまでさせる宰相殿はまこと恐ろしい方です。姫さまもこんなに夢中になられては──」
 大名の娘は、たとえ相手が夫であっても、恋をしてはいけない。しかし、三蔵はそうは言えなかった。
「ところで、それがしは殿下より姫さまの監視を仰せつかっております。殿下は姫さまを帰してはならないとお命じになりました」
「三蔵さま!私はここを出たいのです」
 冬姫は縋るように訴える。
「殿下はそれがしを寄越されたわけですから──」
 三蔵は立ち上がった。
「行きますか?」
 冬姫は頷いた。それでも三蔵を気遣う。
「それで、三蔵さまにご迷惑がかかりはしないでしょうか?」
「家臣の迷惑も考えないくせに、今更何だっていうんです?」
 くすっと笑って三蔵は歩き始めた。冬姫はその後ろをそっとついて行く。
──己を愛するように隣人を愛せ──
「私は夫しか愛せない……」
 小さく彼女は呟き、死に装束の襟を着物の上から掴んだ。
「蒲生家には、お返しできませんぞ」
 前を進みながら、三蔵が話をする。
「実は先程、次兵衛から助けを求められました。次兵衛によれば、蒲生のご家中では、冬姫さまがお出座しになった直後、山三殿や水野など、姫さまのお身内や織田家縁の側近衆を追い出してしまったそうです。そして、冬姫さまは豊臣に入られたお方ゆえ、姫さまが戻られても、中へお入れ申すなと申しているとか。ご家中益々荒れているとのこと。殿下の御意もありますが、落ち着くまでは暫く帰れないかと」
 三蔵は冬姫を雑人用の門へと導いた。何故かそこには輿が用意されており、冬姫はそれに乗せられた。
 門を出て、三蔵が冬姫を連れて向かった先は、土御門。文禄元年から土御門に移転した百萬遍知恩寺であった。
 その中の塔頭。冬姫の弟で、秀吉の養子となった於次秀勝の菩提寺の瑞林院は、先年冬姫が創建したもの。おそらく三蔵は、冬姫が伏見城から出たいと願ったならば、瑞林院に住まわせるようにとの、秀吉の内意を受けているに違いない。
 輿から出た冬姫は、そこで得度した。それを見守った三蔵は溜め息をついた。
「これでもう殿下のお怒りは鎮まらなくなったでしょう。蒲生家の未来はどうなることか」
 尼になってしまうなぞ、結局、冬姫も嫁ぎ先を潰すことになるのか。
 昔、忠三郎の祖父・快幹軒定秀が、冬姫に警戒したものだ。忠三郎が冬姫の美貌に溺れ、蒲生家を傾けるのではないかと。だが、まさか冬姫が忠三郎の愛に溺れて、蒲生家を危うくしようとは、祖父も思いもしなかったに違いない。

 冬姫が出て行ったと知っても、秀吉は寂しく微笑んだだけだった。だが、三成を呼ぶと、うって変わって恐ろしいことを命じた。
「蒲生の小童を殺せ!イエズス会に必ずキリシタンになると約束したそうじゃ!父親が父親なら、子も子、あれは悪鬼だ。糞と反吐でできた不浄の悪の権化だ!あの汚い奴が、わしの天女を犯し続けて孕ませた餓鬼。わしが、指一本触れられなかったのに、彼奴は毎夜……奴の胤だと考えるとぞっとする。あの小童は存在してはならぬのだっ!」
 三成はその意を受け、また隼人を呼んだ。
 一方、蒲生家では、冬姫が秀吉を拒絶したことを知って、家臣達は激怒したり落胆したりした。一部の者はあっぱれだと冬姫を讃え、また、そこまで忠三郎を慕う彼女を健気と感じたが──。





****************************
 秀吉でも、鶴千代を急にどうこうすることはできない。手を出せずにいる間に鶴千代は元服して、名を藤三郎秀隆と改めた。
 そして、ついに会津に国入りした。
 鶴千代改め藤三郎秀隆は家康の娘・振姫と婚約した。だが、まだ輿入れには至っていない。人質として上方に置いておく妻がないので、秀吉は冬姫を在京させた。
 冬姫は瑞林院に留め置かれ続けていた。彼女は遠き会津に赴く我が子にも会えぬままだったのである。
 冬姫には辛いこと。だが、生前の忠三郎が、神より与えられた命を、勝手に終わらせてはいけない、自害してはいけないと言っていたことを思い出す。
 忠三郎への貞操を守るためであれ、死んではならなかったのだ。死のうと思って秀吉のもとへ赴いたのは、誤りであった。
 こうして生きたことによって、より辛い未来が待っていようとも、それにも堪え、受け入れなければならない。
 冬姫は会えぬ我が子との別れを、ひたすら堪えた。遥か遠い会津に思い馳せ。
「旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群……鶴千代君……」
 我が子を案じ、天空彼方の忠三郎を思った。
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時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

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