七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

文字の大きさ
12 / 180
正声

三拍・恋ひ死なむ(上)

しおりを挟む
 安友が思考をぐちゃぐちゃにしていた頃、姫君は、有明の月光届かぬ邸の奥深くで、寝苦しさに身悶えしていた。

 几帳を隔てた向こう側の上局には、女房達が群れて寝入っている。誰も姫君が起きていることに気づいていないようだ。

 熱が出ているらしい。顔を中心に、体じゅうが火照っている。耳が熱すぎて、とても苦しい。

 昼間からずっとそうだったが、横になって衾を被いていると、余計にひどくなる。汗でもかけば、体温も下がって少しは楽になるだろうが、不思議なことに汗は全く出ない。

 普段から、几帳の物陰に隠れているので、上局の女房達にさえあまり顔を見られることのない姫君。今日もほとんど見られていなかった。

 心配させまいと、熱があるようだとも言わなかったので、誰も姫君の苦患を知らなかった。

 一睡もできぬままに夜が明けた。

 朝の食(け)はほとんど口にしないで、下げさせてしまった。そこでようやく、

「姫君は昨日もろくにきこし召さず、どこかお体がすぐれないのではございませぬか?」

と、乳母の才外記が気づいた。

 その頃、やっと安友が帰ってきた。

「医師を呼びに、安友を遣りましょう」

と才外記は言った。

 安友は母の才外記の言う通りにした。そして、午後、医師を連れて来た。

 診察した医師は、特に異常はないと言う。

「お風邪でしょうな。冷えた所為でしょう。今年の夏はひどく暑かったですし、長かった。夏の疲れが未だに残っているのでしょう。あまり根詰めるのは宜しくありません。気鬱なさらず、楽しいことをなさってお過ごし下さい」

 診察を終えた医師を車宿まで送った安友は、

「へっぽこ奴が」

と、心の中で毒づいていた。

 事実、安友の方が名医であったのだ。

 姫君は確かに恋をしていたのだ、結論から述べてしまえば。だが、未経験のことである為、如何に聡き姫君とはいえ、己の身に起きているこの異常が、恋であるとはまだ悟れずにいるのである。

 安友もそれと教えてやるつもりもなかった。

 だから、姫君は誰にも相談できずに身悶えているしかない。

 医師の言葉を信じて、やれ絵合だ歌合だと、わいわいがやがや騒いでいる女房達に引っ張り出され、笑みを繕っている。そうしているうちに、それが負担になり、ますます食欲が減退してくる。

 姫君は一人になりたかった。

「琴を弾きたいのですが……」

 ようやく一人にしてもらえたものの、琴に向かってもやる気が出ない。

 余計にあの夜のことが思い出される。

 あの琵琶の音が頭に鳴り響いて、あの公達の面影が浮かんで。顔が火のようで、苦しくなる。

「おかしくなってしまった。いったいどうなってしまったの?」

 心が悲鳴をあげる。

 あの名手のことばかり考えている己が訝しい。

 だが、それでも知りたい。かの人が何者であるのか。

 その欲求が抑えられずに、姫君はとうとう安友を召し、人払いした。

「こなたはあの晩、あの御方を見ましたね。あれはどなたか知りませんか?」

 安友は楽所召人、そして、琵琶の道を歩む者。もしかしたら、かの君を見知っているかもしれない。

 だが、安友は姫君の端たない問いに、愕然とした後、つれない返事しかできなかった。

 安友には堪えられなかった。

「どうして。どうして、こんなことをお尋ねになるのです」

 乳母子として忠誠を誓い、崇拝し続けてきた姫君の、かように恋悩む艶めかしい姿は見たくない。

「ああ、どうしてこの両の眼は、こんなにもはっきりと、恋やつれた姫君を映すのだろう。どうして、この眼はこんなによく見えるのだろう」

 こんな眼は見えなくなってしまえと思った。

「かような姫君は、二度と見たくありません。失礼致します」

 頭を下げると、俯いたまま出て行った。

「待って。どうして?行かないで」

 姫君の呼び止めるのも聞かず、安友は去った。

 その夜、母の才外記に宛てた一通の文を残し、将曹安友はこの邸を出て行ってしまった。いつになっても戻ることはなかった。




**************************
 野垂れ死ぬのかもしれない。

 そろそろ限界を感じたのは、都を出てから何日目だろう。

 あてもなく、安友は飲まず食わずで山中をさまよっていた。

 もうすでに近江に入っている。

「だめだ。いよいよ目の前が真っ暗になった……」

 傍らの木にふらふらと寄りかかる。そのまま大地に伏した。

 遠退く意識の中で、沢山の人馬の音を聞いた。

 沢山の馬の蹄。おびただしい数の足音。金属の擦れ合うようなあの音は鎧か。

 それ等がざっざっと近づいてくる。次第に大きくなり、大波のように押し寄せてきて……安友はそれに呑み込まれてしまった。

 なんなのだろう。

 薄れゆく意識の中でそう思った時、ふいにゆさゆさと体を振られた。

「おい!おい、いかがした!」

 気持ちが悪い。吐きそうではないか、やめてくれと思うと同時に目が覚めた。

「おい、大丈夫か。病か?」

 そう言って覗き込む、二つの顔。

 鎧武者が二人、安友を囲むようにして座り込んでいた。

 二人は兄弟なのだろうか、面差しが似ている。口の小さな冠者が弟であろう。どちらも甲冑姿だが、品位ある顔立ちだった。

 兄と思しき方が、もう一度口を開いた。

「貴殿、卑しからざる風情があり、ご身分ある人とお見受け致すが、かような場所に供も連れずお一人で、如何なされたか」

「……」

 答えようとしたが、ただふがふがと口が動いたのみで、安友は声を出せない。いや、口を開けるのさえ億劫だ。

 すると弟の方が、つと立ち上がってどこかへ行き、すぐに戻ってきた。木の椀を持っている。

「水です。今、葛湯を持って来させましょう。先ずは水を」

 椀を差し出した。

 安友はゆらゆらと頭を下げ、椀を受けると、ゆっくり飲み始めた。

 しみる。

 たかが水一杯で、こんなにも変わるものだろうか。訝しいばかりだが、急に生気が蘇った気がした。水は、本当に大事なものなのだ。

「ありがとうございます」

 安友は椀を返す。

 それを脇目に見ていた兄が言った。

「我等は侍従少納言の子にて、身共は右馬助時有(うまのすけときあり)と申す者。こちらは舎弟の信時(のぶとき)です」

「皇太后宮大進信時です」

 弟がそう言って頭を下げた。

 皇太后宮職(こうたいごうぐうしき)ということは、烏丸左大臣の息のかかった者であろうか。だが、どんな者であれ、水をもらったのに、名乗らないわけにもいかない。

 安友は弱々しい声を出した。

「前近衛将曹安友と申します」

「将曹と言いますと、楽人で?」

 弟の信時が尋ねた。

「ええ、まあ。非重代ですが」

 安友が答えた時、郎党が椀を捧げ持ってやってきた。

「ありがとう」

 信時が、水の入っていた椀と交換する。郎党から受け取った椀からは、湯気が出ていた。

 信時はそれを安友に差し出す。安友は受け取りつつ、先程からの疑問を口にした。

「お二人はもしや、北陸へ向かわれるのでは?」

「そうですが」

 信時が答えた。

「やはり。北陸では盗賊が悪行の限りを尽くしているとか。お二人は、烏丸の大臣(おとど)のご一門で?」

「そうです。盗賊どもは大臣の荘園までをも踏み荒らし──。それで、盗賊どもを討つよう、大臣に命じられまして。これより北陸の盗賊を一掃しに下向するのです」

 安友は葛湯を飲みながら、話に聞き入っている。

 今度は時有が言う。

「我等は大臣の遠縁で、母は家女房。父も家司。ですが、父は別の女君との間にも子があって、その女人が四辻の大臣の縁者なので。父は一応、烏丸の大臣の家司ですが、四辻派とも縁切れてはいず。烏丸の大臣は父を信用なさっていません。実際、子の我等から見ても、父はどっちつかず。その父のせいで、我等までもが烏丸の大臣に信用されていません。同族なのに。この度の北陸鎮圧は、我等が買って出たのです。大臣の信用を得るために」

 時有は溜め息をついた。

 本当はこの兄弟は貴族だ。弓矢など扱いもわからないだろうに。

「大変ですね」

 葛湯を飲み干し、安友は自分の行き先をようやく見つけた気がした。

「私もお力になりたい。私も盗賊狩の人数に入れて下さい。私をどうか共に連れて行って下さい」

 楽所召人が近衛府の将曹の職を捨てて、このような所にいるのだ。何か深い理由があるのだろう。兄弟はそう思ったが、理由は聞かずに安友の同行を許した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

夜に咲く花

増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。 幕末を駆け抜けた新撰組。 その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。 よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【完結】幼馴染に裏切られたので協力者を得て復讐(イチャイチャ)しています。

猫都299
青春
坂上明には小学校から高校二年になった現在まで密かに片想いしていた人がいる。幼馴染の岸谷聡だ。親友の内巻晴菜とはそんな事も話せるくらい仲がよかった。そう思っていた。 ある日知った聡と晴菜の関係。 これは明が過去に募らせてしまった愚かなる純愛へ一矢報いる為、協力者と裏切り返す復讐(イチャイチャ)の物語である。 ※2024年8月10日に完結しました! 応援ありがとうございました!(2024.8.10追記) ※小説家になろう、カクヨム、Nolaノベルにも投稿しています。 ※主人公は常識的によくない事をしようとしていますので気になる方は読まずにブラウザバックをお願い致します。 ※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。関連した人物も、たまに登場します。(2024.12.2追記) ※番外編追加中・更新は不定期です。(2025.1.30追記)←番外編も完結しました!(2025.9.11追記) ※【修正版】をベリーズカフェに投稿しています。Nolaノベルでは全話限定公開・修正中です。(2025.10.29追記)

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

処理中です...