七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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正声

四拍・かの君の御名こそ(下)

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「して、如何なる用向きで?改まって、内密の大事とは」

 讃岐の言葉に、

「それよ」

と、時憲は笑いをおさめて、

「先の十六夜の晩のことだが……」

と、少々口ごもった。

「十六夜が何としたか」

「御許、どちらにいたか」

「どちらとは。決まっている。姫君の御前(おまえ)に……」

「その姫君だが。御許の姫君は嵯峨におわさなんだか」

「いかにも。閏九月から嵯峨に渡らせられ、琴三昧の日々をお過ごしであったが」

「まあ、そうだろうな」

「何か。何故、嵯峨と?」

 時憲は前もって運ばれてきていた白湯を一口啜る。塩漬けの桜が入っていて、春恋しき冬の宵に、心すずろく味がした。

「十月十六日の晩は、如何過ごされしぞ?」

 器を下に置くと、時憲はそう言った。

「何故、かようなことを?」

「御許、しかと姫君の御前に侍(はべ)っておったのか?」

 急に語気を荒げた。

 讃岐はたじろぐ。

「な、何か、急に……」

「片時も離れずに侍(かしず)いていたのか?」

「……」

 一体、何事だろう。

 だが、問わるるままに考えてみると、あの晩は……。

 姫君の傍らにはいなかった。

「御許、何しておった?」

「……ずっと月見堂におった……」

 酒を呷っていた。姫君は青要殿にいたのに。

「姫君を放り出して、御許はずっと月見酒か?」

「……いかにも……」

 女房どもは誰一人、姫君に付き従っていなかった。

「他の人は?」

「……」

「姫君はお一人でお過ごしだったのだな。何という愚かな女房どもだ!」

 とは言いつつも、時憲の口調は責めている感じではない。

「嵯峨の山奥だからって、油断したら駄目だろう?全く人気がないというわけでもない。もし、姫君を盗まんとする不埒な輩が潜んでおったら、どうするのだ。后がねなのだろう?絶世と冠される美人とか。思いを寄せる人は、枚挙にいとまなく、中には恋死にした人もあったとか聞いた。何かあったらどうする」

 だか、時憲は顔の皮膚に、にた、と薄ら笑いを浮かべている。

「何じゃ?いやらしい面だの」

 思わず讃岐は眉と頬、口をねじ曲げる。

 くっくっくっと時憲は笑った。

「御許、本当に何も知らぬのだなあ。困ったものよ」

 馬鹿にされて、讃岐は思わずむっとする。実は彼女の方が、二歳年長である。

「どういうことなのか、御身のように天才ではない故、さっぱりわからぬわ。いったい、何が言いたい?」

 つんけんと言った。

 だが、時憲は全く気にかけていない様子。

「姫君は何も仰せにならなんだのだろうな。慎ましき御方ゆえ」

「は?」

「我が主が案じておわしたぞ。あんな美人を真夜中に一人にしておくなんてと。不用心な」

「っ!?」

 思わず讃岐、手にしていた白湯の器を取り落としそうになる。慌てて。

「ななななな、な、んということぞ!?」

 体中、冷や汗が湧く。

「大丈夫か。心の臓を口から吐き出すんじゃないぞ」

「時憲判官っ!」

「だから、十六夜の晩は、我が主は嵯峨の時雨に袂を濡らしたやと思して、嵯峨に赴かれたのだわさ。琵琶を背負いて、枯れ刈萱の野辺より月を仰ぎ見て。ふと、琴の音をお聞ききになった。ひどく艶めいて。主も漫ろに引き寄せられて、つい琵琶など奏でられたというのだ。すると、洛神を凌ぐ美しき女神が舞い降りて、主の琵琶を聴いていたと。主、神に聴かせ奉るならば少しも惜しまじと、『楊真操』の秘曲を納め奉られたというのよ」

「ま、待て待て。すると何か……」

 讃岐は本当に心臓を吐き出しそうだった。昼に食ったものと一緒に。

「あの晩、御隣の庵にも月を眺める人がおわして、琵琶を奏でられたと……?」

「そこへ神女、天降った。その神の美しさといったら、言葉では言い表せぬとの仰せごとであったわい」

「つ、つまりは、その神の御姿をしかとご覧召されたと?」

「ところが、あらぬ方から人声がした。『姫君っ!』──神女、びっくりし給いて、御隣の邸内に飛び去ったということよ」

「んなっ……」

「わっ、讃岐っ!!」

 柄にもなく、貧血でふらつくのを、慌てて時憲が抱きかかえる。

 よろよろと讃岐は、辛くも気は絶たずに保てたものの、意思の宿らぬ面のまま、円座(わろうざ)に坐り直した。だが、考えようとする意志薄弱なのであった。

「讃岐の君。我が殿はあのような御方とて、かえって案じていらしたよ。『あのような美しい方は見たことがない。生身の人とは思えない。故に心配だ。いくら山中とはいえ、油断して、誰もつき従っていないのは』と、心底案じておわしたぞ。こちらが気の毒に思える程に。だから、身共はこうして御許に忠告しに推参したわけです」

「それは、まことのことなのであろうか?まこと、姫君の御姿を見られてしまったのか……」

「姫君の方も、我が殿をご覧になった筈。姫君にお確かめ召されよ」

「そんな……まさか……」

 寝耳に水の話に、讃岐の思考は混乱する。


 時憲が帰ると、すぐに讃岐は家を飛び出した。向かうは六条西洞院の棟成卿家。

 六条西洞院第では、里下がりの最中である筈の讃岐が二日も早く戻ってきたので、皆仰天し、

「すわ、何事」

と顔見合わせた。

 讃岐は一刻も早く姫君に会いたいと思ったが、姫君は重い物忌であるという。

 廂には女房達が居並んでいた。それ以上近づいてはならないというので、そこに控えているのだ。池の氷に住む月が冴え輝く晩を、皆所在なげに。

 姫君は塗籠の中にいるという。その扉の前には一人、女房の兵衛(ひょうえ)が控えていた。

「讃岐の君!?」

「兵衛の君、お疲れでしょう。私が代わりまする故、お休みなされ」

「何と、今は実家では?」

「日を見ると、今日戻った方がよいようなのです。明後日は急に日が悪くなって。北へ方違えてからでのうては、戻ることが叶わなくなった故。今日戻ってきてしまいました」

と適当なことを言って、代わってもらった。

 兵衛が退出すると、上局には讃岐以外誰もいなくなる。

 讃岐は塗籠の中へ声をかけた。

「姫君、讃岐にございます」

「……」

 中からは、かすかに筝の琴の音が聞えてくる。

 姫君は手慰みに、和琴やら筝やらを弾いていたのだ。筝は秘調の「千金調」。琴の琴の「千金調」と比べて遊ぶ。普段、女房達の前では弾けないものを、物忌をよいことに弾いて遊んでいたのだ。

 音はなお鳴っているようだ。

 讃岐は再度、

「姫君」

と声をかけた。

 ようやく筝の音はやんだ。

「姫君、お話がございます。どうしても、お聞き下さいませ」

 物忌中の人に平気で声をかける。いかにも讃岐である。

「十六夜の月に喜び、楊太真が舞い遊んだことについてでございます」

 姫君は察したと見え、

「そっと、中へ」

と、微かに言った。

 それではと、讃岐は他人に気づかれぬよう、そっと内へ入ってみたが、ぎくっとした。姫君を見て。

 何とやつれたのだろう。いや、やつれたというよりは。

 以前の讃岐であったなら、姫君は病だと思い込んだに違いない。だが、時憲の話を聞いた今では。

 いや、病といえば、確かに病かもしれない。

 ややこしい、厄介なことになるかもしれない。考えたくはないが、現実を見据えなければ。

「讃岐。何故それを知っているのです?」

 意外にも、姫君の声は静かである。

「はい……」

「かの君を知っているのですね?」

 姫君の眼は真剣だ。けれど、恥じらいも垣間見える。

 讃岐はその瞳の色を見て思い知る。自分の直感はあたってしまったと。

 そして、時憲の言ったことは事実だった。

 顔を染めながらも、姫君はしっかりとした口調で訊く。目の下の窪みがなまめいている。

「何方なのですか?」

「姫君は何方だとお思いです?」

「嵯峨の山荘の御隣でした。庵。あれの持ち主は……」

「我が宿の隣人がお仕えする家の方」

「ああ、では。やはり……」

「姫君と御志を同じう遊ばす御方」

「一度もお目に掛かったことはありませんが、私が最もご尊敬申し上げる御方。あの方がそうだったのですね」

 羞恥の中にも鮮やかな表情。

 讃岐は頷いた。

「実は、時憲判官が訪ねてきたのです。それで、あの夜のことを知りました」

「思えば、あれほどの琵琶を奏でる人が、他にあろう筈もない。琴の神に魅入られたる三位殿なればこそ」

 姫君は改めて、あの晩の公達とその琵琶の音とを思い浮かべた。

 顔だけが熱いと知る。

「けれど、あの方にも私のことがわかってしまいましたね。恥ずかしいこと。門の中に入れば、すぐに棟成の娘だとわかってしまうものを。山に逃げればよかったわ。端たないと思われたことでしょう」

 紅梅のような羞恥。

 讃岐は姫君が心配になった。

 姫君はもともと韶徳三位殿を尊敬していた。会ったことはない。だが、散位政任のところで同門だったわけだし、色々話は聞いている。

 又、母君は親戚で、御簾越しに何度も対面しているし、兄君は友人だ。

 姫君はそれで、幼い頃から尊敬していたわけだ。

 その音に恋して、その姿に惹かれた相手が、その韶徳三位殿であったことが判明したのだから、姫君の思いはどうなってしまうのだろう。

「このような浅ましい姿を晒して恥ずかしい」

 ぽつりと姫君は呟いた。

「愛想が尽きるでしょう?」

「何を仰せられますか」

 讃岐は強く言ったが、姫君は己を嘲笑うのである。

「いいえ。少なくとも将曹安友は、このような情けなきこの身に呆れ、出て行ってしまったのよ」

「へ?」

「どこにもいない。どこかへ行ってしまったの。いなくなってしまったのよ、安友が」

「緑腰博士がっ?!」

 すでに時節は十一月の中の頃。日に日に寒さも増している。しかし、待てど暮らせど、安友の消息は聞えてこない。

 そうしているうちに、年は明けてしまうのだ。
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