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正声
十七拍・鳳勢(肆)
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白河の関を越えて進軍していた武蔵守時有は、大盗賊団・大乘党に苦戦していた。それというのも、弟の信時の軍を途中から離脱させたことに原因がある。
はじめ、老将の俊幸に留守居を命じて、兄弟揃って出陣したのだ。
途中、法化党の寂意入道の支配地のすぐ近くを通らなければならず、神経を使ったが、寂意入道は攻撃してくることもなく、沈黙を続けていた。
やがて白河の関を越えて、大乘党との決戦に挑んだ。だが、なお背後の寂意入道の動きが気になっていた。それでも寂意入道は沈黙を守っていたが。
大乘党との決戦は、こちらが優勢だった。兄弟力を合わせて、さて、今度こそ勝利を──その矢先だった。
寂意入道ではない。
法化党本隊が動いたのだ。関東水軍・長行との連合軍は、下総桜町館に迫った。
で、信時が急遽下総に向かわなければならなくなったのだ。
信時が南下したため、時有は大乘党と五分。
「おのれ!経実!」
時有と信時、それぞれ別の場所でそう罵っていた。
どうして、信時がそう叫んだかと言うと。
下総に向かう途中、それまで沈黙を続けていた寂意入道が、俄かに出てきて、行く手を阻んだからである。
しかも、いつの間にか軍を分散させていた法化党が、寂意入道に加勢していたのだ。
すなわち。
法化党は、軍を三手に分けていた。
長行らに桜町館を攻めさせ、法化党の一部は寂意入道のもとへ援軍として向かい。経実──希姫君率いる本隊は、手薄の牧邸を目指す。
下野の軍は皆、時有に従って、大乘党との戦に挑み、下野は空白状態。経実を阻む者はない。
経実は上野まで一気に駆け抜ける。
本拠の危機だった。
留守居の俊幸が、各地の軍を纏めて応戦。武蔵や上野の豪族も続々馳せ参じて、どうにか法化党から本拠を守れた。
一方、早く桜町館に行かなくてはならない信時だったが、なかなか行くことができない。
仕方なく、時有は大乘党と引き分けて、直ぐに引き上げた。もしかしたら大乘党には勝てたかもしれない戦だが、今はそうも言っていられない。
時有が信時に加勢すると、寂意入道は退却を始めた。
おそらく、兄弟揃って入道を追えば、いくら法化党の援軍を持つ入道とはいえ、敵わなかったであろう。入道は領地を失ったかもしれない。
だが、時有も信時も、そんなものより桜町館が大事だった。
法化党の本隊は俊幸らの攻撃に、頃合いを見計らって退却している。これが桜町館に到着し、長行の水軍と合流すれば、桜町館は法化党に奪還される可能性がある。
時有も信時も、法化党の本隊が桜町館に到達する前に、そこへ行かなければならなかった。
寂意入道なぞ放っておいて、一気に桜町館を目指す。
だが、兄弟がそこに着いた時、法化党は既にそこにはなく、退却した後だった。
代わりに、そこには俊幸らがいた。
俊幸らは、上野から退却する法化党の経実を追い続けた。
経実は桜町館に到着し、長行と合流すると、桜町館を奪還しようと攻撃をしかけた。だが、時有らがこちらへ急行しているとの報告が入ると、あっさり投げ出して、船に乗って帰ってしまったのだという。
俊幸らが到着した時には、法化党は退却をほぼ完了させた後だった。
「逃げ足の速い……」
俊幸はそう苦々しげに言ったが、時有は震えが止まらない。
「何ということか。奪われなかったとは言え、我等の喉元にまで侵攻してくるなぞ。なんと恐ろしい奴」
「されど。牧邸を攻めたとて、成功せぬことは初めからわかっておりましょう。法化党はこの戦で何も得てはおりませぬぞ。何の目的でこのような。まこと、経実は気が狂ったようで」
俊幸は嘲笑った。
「いや」
信時が眉根を寄せる。
「兄上。もしや、大乘党と法化党は密かに手を組んだのではございますまいか?」
「なにっ!?」
時有ばかりでない。皆一斉に信時を見た。
「或いは、経実の酔狂。大乘党を助けてやるために、我等の領地を引っ掻き回した。目的は我等を混乱させ、大乘党への攻撃をやめさせること」
「何故そう思う?」
時有は目を丸くする。
「はい。法化党の目的は我等を壊滅させることでしょう。我等が滅ぶなら、いかなる手も使う。人質をとられているのに、躊躇が見受けられない。人質が殺されるなら、それはそれで仕方ないと思っているような……我等を滅ぼす為なら、手段は選ばないのでしょう。大乘党が利用できるなら、利用しようというのかもしれませぬ。大乘党が成長すれば、大乘党も我等の脅威となる。大乘党を大きくし、大乘党に我等を攻めさせようというのですよ、きっと。おおじ」
と、そこで俊幸に話し掛けた。
「法化党のこの度の目的は、我等の領地を奪うことではない。攻撃をしかけても、反撃に遭うと、あっさり放り出さなかったか?」
「はあ、そういえばそうでしたな。固執する様子はなく、大将格の首級を目的としている様子もありませなんだ。だから、何しに来たのかと訝しく思ったものです」
「やはり。我等を攪乱するのが目的だったのか。法化党の死亡者、負傷者の数は?」
「殆ど出ておりませぬ」
「なるほど」
苦虫を噛み潰したように時有が言った。
つまり経実は攻撃する場所、頃合い、全て計算していたということか。そして全て計算通りに事が運んだということだ。時有は経実の掌の上で巧く転がされてしまったのだ。
「いいいっ!悔しい!」
俊幸が足を踏み鳴らした。拳を作った右手を上下に振りながら。
「殿!このまま済ませるわけには参りませぬ!このまま寂意入道を攻め、奴の所領を奪い返してやりましょうぞ!」
この兵数なら、寂意入道に勝てる筈だ。確か法化党の援軍もいたが、それでもこちらが優勢だろう。
「行くか」
馬鹿にされたままなのは腹が立つ。時有も攻撃に賛同した。
ところが、進軍を始めて暫くすると、驚くべき報告が入った。
完全に常陸にまで退却した法化党。今度は常陸の中を駆け抜け、もう寂意入道のすぐ後ろにまで到っているというのである。利根川より内海に出、別の水路から香取海に至り、さらに衣川を遡上して上陸。あとは陸路を駆け抜けたらしい。
「なんという疾風の如き速さ!」
時有はまた肝を冷やした。
「まさか。我等の心理、行動を見越していたのでは……怒った我等が攻め込むのを読んで、はじめから……これも経実の計算通りなのか……」
恐ろしくなった時有は上野に退却することにした。
経実──希姫君は、
「腰抜けどもめ!」
あはははと、さも愉快そうに笑い、そして、病床の兄を喜ばせた。
法化党に邪魔されたが故に大乘党と引き分けた時有は、今後の対策を真剣に考えなくてはならなくなり。
大乘党は益々勢力を拡大して行く。
「法化党の経実か。是非一度その顔拝みたいものよ」
大乘党の首領・小太郎教理(のりまさ)は、法化党へ強い興味を持った。
経実は教理からの書簡を無視していたが、更なる勢力拡大を目指し、西に目を向け始めている。
「烏丸左大臣の死去なぞ関係ない。都へ。都を目指すのだ。我等は都を支配し、帝を支配するのだ」
そのために、大乘党は使える。奴らに時有を攻めさせ、法化党は西へ向かう。
だから、今、大乘党を滅ぼさせるわけにはいかなかった。将来のために、今は守り、太らせておかねばならぬ。
清花の姫君の健康は、再び思わしくないものになってきていた。どこがどう悪いというのではないが、全体的に弱くなっている。
それでも、父君の内大臣殿はなお入内への執着を捨ててはいなかった。
「主上が、入内したら、鳳勢を下さるそうだぞ。鳳勢ばかりか他の琴や譜も。呉楚派伝来品は皆、姫君に下さるそうだ」
祝着だと言って、父君は喜んでいた。
何をどうやって、そんな約束を取り付けてきたのかは知らないが、父君の喜ぶ顔を見て、つい姫君は顔曇らせる。
脇で聞いていた宰相中将殿も、入内しなくては鳳勢を下さらぬのかと、妹君の秘めた恋を知っている故につらい。
けれど、内大臣殿には預かり知らぬ事である。
「よかったのう。これで姫君も、晴れて呉楚派の当主よ。入内も成り、呉楚派の当主ともなる。それ故、早う元気にならねばの。健やかな体を取り戻し、入内しようの。のう、待ち遠しかろ。今から入内の日が。待ち遠しかろ、のう?」
「しかし」
と、ここで中将殿が口を出す。
「入内するまでは、なお何も下さらぬのでしょうか、主上は?」
「ううむ、そうだなあ」
と内大臣殿は嬉し気に、
「主上が姫君の入内を望んでおわしたのは、ずっと前からのこと。身もじらしてしまったからのう。主上も、何としても入内させむと思し召して、入内したら下さろうが、それまでは一つもやらぬと仰せなのであろ」
と言って、何がおかしいのかくすくす笑った。
「何という……」
中将殿は思わず口にしかけたが、続きは心の中だけで──本来姫君が受け継ぐ筈の呉楚派の伝来品を取り上げて、それを取り返したければ、入内せよと仰しゃる。入内せねば返してやらぬとは。琴を餌に姫君を釣り上げようとは──そう言った。
「そこまでしてでも、姫君を入内させたいと思し召して。何とも勿体なき、有り難き思し召しよ」
内大臣殿の明るく澄んだ声。それが朗々と響けば響くほど、姫君の心は暗澹となった。
「……もし、私が女の身でなかったならば……男であったならば、主上はいかが遊ばしたでしょう。琴をご下賜になったでしょうか……」
病床からのか細い声に、内大臣殿は何かはっとさせられたらしい。何を感じたのか、急に笑みを覆って、不安げに病床を覗き込んだ。
「……姫君……」
「……」
「……また後で来るとしよう。少し休みなさい。さ、頼周」
と、内大臣殿は中将殿を促すと、そそくさと出て行った。
渡殿の辺りで内大臣殿は中将殿に問う。
「おことは何ぞ知っておるのか?」
中将殿は父君の瞳をじっと見て、けれど、何も答えなかった。
父君と兄君が出て行くと、姫君は病床に横になった。
余り大勢いると、体にもよくないからというので、女房どもは下がらせている。枕辺には乳母(めのと)の才外記(ざえげき)だけが侍っていた。
「あら、いやだ。お熱ですわ」
何気なく姫君の額に手をやった才外記が、驚きの声をあげた。
「まあ、まあ、大変。また医師を呼びにやらなくては」
「乳母(まま)。医師は呼ばなくても宜しいです。夕刻は体温は上がるものだわ。微熱のある者には、仕方のないことです」
「でも……冷やさないと。水を持って参ります。しばらくお待ちを」
才外記はすぐに水を汲みに出て行った。
一人病床に残されて、天井をぼんやり眺めていると、先程自分で言ったことが思い出される。
──もし、この身が女でなかったならば、帝はすんなりと呉楚派の品を下さっただろうか──
男であれば、入内云々という話は出てくるわけもなく。
呉楚派の品に関係なく。男であったなら、入内など、決してない。女故に入内の話が出るのだ。
どうして男に生まれなかったものか。女などに生まれたばかりに厄介なことだ。
入内ばかりでない。このやり場のない思い。
男に生まれたかったと姫君は思った。
男に生まれていれば、男に恋をしなくてすむ。
韶徳三位殿を。
こんなに悲しい恋をしなくてすんだのに。
そして、この感情のまま、入内をすることもなく、幸せでいられた筈なのに。
実におかしな感情だ。恋というものは──。
正義までをも不当な悪に感じさせる。尊いものをも卑しく感じさせる。
入内は父君の長年の夢だったではないか。そして、そのための教育を幼い時から受けてきたこの身ではないか。女の最高の幸福だと信じ、入内するつもりで生きてきた自分ではなかったか。
入内は自分自身の夢でもあった筈だ。
それが、女に生まれて恋を知って、全てが価値のない、むしろ遠ざけたいものになってしまうとは。
女に生まれたからこそ成し遂げられる、帝の后宮という地位だが、女に生まれたからこそ韶徳三位殿に恋をし、苦行を身に受けることとなってしまったのだ。
どうしても入内しなければならないのか。
三位殿以外の人のものにならなければならないのか。
三位殿亡き今は、もう誰のものにもなりたくない。
「私は決して、誰のものにもなりません!」
思わず声にしていると、衣擦れの音が近づいてきて、すぐに才外記が姿を見せたので、はっと口を噤んだ。
だが、
「まあ、おん涙などがおん眦から。どうなさったのです。お苦しいのですか」
と、才外記は目敏く見つけて、自らの手で姫君の目元を拭った。
「……何でもありません。熱のせいでしょう。熱が出ると、目は潤むものです」
姫君はそう答えて、弱々しく微笑んだ。
はじめ、老将の俊幸に留守居を命じて、兄弟揃って出陣したのだ。
途中、法化党の寂意入道の支配地のすぐ近くを通らなければならず、神経を使ったが、寂意入道は攻撃してくることもなく、沈黙を続けていた。
やがて白河の関を越えて、大乘党との決戦に挑んだ。だが、なお背後の寂意入道の動きが気になっていた。それでも寂意入道は沈黙を守っていたが。
大乘党との決戦は、こちらが優勢だった。兄弟力を合わせて、さて、今度こそ勝利を──その矢先だった。
寂意入道ではない。
法化党本隊が動いたのだ。関東水軍・長行との連合軍は、下総桜町館に迫った。
で、信時が急遽下総に向かわなければならなくなったのだ。
信時が南下したため、時有は大乘党と五分。
「おのれ!経実!」
時有と信時、それぞれ別の場所でそう罵っていた。
どうして、信時がそう叫んだかと言うと。
下総に向かう途中、それまで沈黙を続けていた寂意入道が、俄かに出てきて、行く手を阻んだからである。
しかも、いつの間にか軍を分散させていた法化党が、寂意入道に加勢していたのだ。
すなわち。
法化党は、軍を三手に分けていた。
長行らに桜町館を攻めさせ、法化党の一部は寂意入道のもとへ援軍として向かい。経実──希姫君率いる本隊は、手薄の牧邸を目指す。
下野の軍は皆、時有に従って、大乘党との戦に挑み、下野は空白状態。経実を阻む者はない。
経実は上野まで一気に駆け抜ける。
本拠の危機だった。
留守居の俊幸が、各地の軍を纏めて応戦。武蔵や上野の豪族も続々馳せ参じて、どうにか法化党から本拠を守れた。
一方、早く桜町館に行かなくてはならない信時だったが、なかなか行くことができない。
仕方なく、時有は大乘党と引き分けて、直ぐに引き上げた。もしかしたら大乘党には勝てたかもしれない戦だが、今はそうも言っていられない。
時有が信時に加勢すると、寂意入道は退却を始めた。
おそらく、兄弟揃って入道を追えば、いくら法化党の援軍を持つ入道とはいえ、敵わなかったであろう。入道は領地を失ったかもしれない。
だが、時有も信時も、そんなものより桜町館が大事だった。
法化党の本隊は俊幸らの攻撃に、頃合いを見計らって退却している。これが桜町館に到着し、長行の水軍と合流すれば、桜町館は法化党に奪還される可能性がある。
時有も信時も、法化党の本隊が桜町館に到達する前に、そこへ行かなければならなかった。
寂意入道なぞ放っておいて、一気に桜町館を目指す。
だが、兄弟がそこに着いた時、法化党は既にそこにはなく、退却した後だった。
代わりに、そこには俊幸らがいた。
俊幸らは、上野から退却する法化党の経実を追い続けた。
経実は桜町館に到着し、長行と合流すると、桜町館を奪還しようと攻撃をしかけた。だが、時有らがこちらへ急行しているとの報告が入ると、あっさり投げ出して、船に乗って帰ってしまったのだという。
俊幸らが到着した時には、法化党は退却をほぼ完了させた後だった。
「逃げ足の速い……」
俊幸はそう苦々しげに言ったが、時有は震えが止まらない。
「何ということか。奪われなかったとは言え、我等の喉元にまで侵攻してくるなぞ。なんと恐ろしい奴」
「されど。牧邸を攻めたとて、成功せぬことは初めからわかっておりましょう。法化党はこの戦で何も得てはおりませぬぞ。何の目的でこのような。まこと、経実は気が狂ったようで」
俊幸は嘲笑った。
「いや」
信時が眉根を寄せる。
「兄上。もしや、大乘党と法化党は密かに手を組んだのではございますまいか?」
「なにっ!?」
時有ばかりでない。皆一斉に信時を見た。
「或いは、経実の酔狂。大乘党を助けてやるために、我等の領地を引っ掻き回した。目的は我等を混乱させ、大乘党への攻撃をやめさせること」
「何故そう思う?」
時有は目を丸くする。
「はい。法化党の目的は我等を壊滅させることでしょう。我等が滅ぶなら、いかなる手も使う。人質をとられているのに、躊躇が見受けられない。人質が殺されるなら、それはそれで仕方ないと思っているような……我等を滅ぼす為なら、手段は選ばないのでしょう。大乘党が利用できるなら、利用しようというのかもしれませぬ。大乘党が成長すれば、大乘党も我等の脅威となる。大乘党を大きくし、大乘党に我等を攻めさせようというのですよ、きっと。おおじ」
と、そこで俊幸に話し掛けた。
「法化党のこの度の目的は、我等の領地を奪うことではない。攻撃をしかけても、反撃に遭うと、あっさり放り出さなかったか?」
「はあ、そういえばそうでしたな。固執する様子はなく、大将格の首級を目的としている様子もありませなんだ。だから、何しに来たのかと訝しく思ったものです」
「やはり。我等を攪乱するのが目的だったのか。法化党の死亡者、負傷者の数は?」
「殆ど出ておりませぬ」
「なるほど」
苦虫を噛み潰したように時有が言った。
つまり経実は攻撃する場所、頃合い、全て計算していたということか。そして全て計算通りに事が運んだということだ。時有は経実の掌の上で巧く転がされてしまったのだ。
「いいいっ!悔しい!」
俊幸が足を踏み鳴らした。拳を作った右手を上下に振りながら。
「殿!このまま済ませるわけには参りませぬ!このまま寂意入道を攻め、奴の所領を奪い返してやりましょうぞ!」
この兵数なら、寂意入道に勝てる筈だ。確か法化党の援軍もいたが、それでもこちらが優勢だろう。
「行くか」
馬鹿にされたままなのは腹が立つ。時有も攻撃に賛同した。
ところが、進軍を始めて暫くすると、驚くべき報告が入った。
完全に常陸にまで退却した法化党。今度は常陸の中を駆け抜け、もう寂意入道のすぐ後ろにまで到っているというのである。利根川より内海に出、別の水路から香取海に至り、さらに衣川を遡上して上陸。あとは陸路を駆け抜けたらしい。
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時有はまた肝を冷やした。
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恐ろしくなった時有は上野に退却することにした。
経実──希姫君は、
「腰抜けどもめ!」
あはははと、さも愉快そうに笑い、そして、病床の兄を喜ばせた。
法化党に邪魔されたが故に大乘党と引き分けた時有は、今後の対策を真剣に考えなくてはならなくなり。
大乘党は益々勢力を拡大して行く。
「法化党の経実か。是非一度その顔拝みたいものよ」
大乘党の首領・小太郎教理(のりまさ)は、法化党へ強い興味を持った。
経実は教理からの書簡を無視していたが、更なる勢力拡大を目指し、西に目を向け始めている。
「烏丸左大臣の死去なぞ関係ない。都へ。都を目指すのだ。我等は都を支配し、帝を支配するのだ」
そのために、大乘党は使える。奴らに時有を攻めさせ、法化党は西へ向かう。
だから、今、大乘党を滅ぼさせるわけにはいかなかった。将来のために、今は守り、太らせておかねばならぬ。
清花の姫君の健康は、再び思わしくないものになってきていた。どこがどう悪いというのではないが、全体的に弱くなっている。
それでも、父君の内大臣殿はなお入内への執着を捨ててはいなかった。
「主上が、入内したら、鳳勢を下さるそうだぞ。鳳勢ばかりか他の琴や譜も。呉楚派伝来品は皆、姫君に下さるそうだ」
祝着だと言って、父君は喜んでいた。
何をどうやって、そんな約束を取り付けてきたのかは知らないが、父君の喜ぶ顔を見て、つい姫君は顔曇らせる。
脇で聞いていた宰相中将殿も、入内しなくては鳳勢を下さらぬのかと、妹君の秘めた恋を知っている故につらい。
けれど、内大臣殿には預かり知らぬ事である。
「よかったのう。これで姫君も、晴れて呉楚派の当主よ。入内も成り、呉楚派の当主ともなる。それ故、早う元気にならねばの。健やかな体を取り戻し、入内しようの。のう、待ち遠しかろ。今から入内の日が。待ち遠しかろ、のう?」
「しかし」
と、ここで中将殿が口を出す。
「入内するまでは、なお何も下さらぬのでしょうか、主上は?」
「ううむ、そうだなあ」
と内大臣殿は嬉し気に、
「主上が姫君の入内を望んでおわしたのは、ずっと前からのこと。身もじらしてしまったからのう。主上も、何としても入内させむと思し召して、入内したら下さろうが、それまでは一つもやらぬと仰せなのであろ」
と言って、何がおかしいのかくすくす笑った。
「何という……」
中将殿は思わず口にしかけたが、続きは心の中だけで──本来姫君が受け継ぐ筈の呉楚派の伝来品を取り上げて、それを取り返したければ、入内せよと仰しゃる。入内せねば返してやらぬとは。琴を餌に姫君を釣り上げようとは──そう言った。
「そこまでしてでも、姫君を入内させたいと思し召して。何とも勿体なき、有り難き思し召しよ」
内大臣殿の明るく澄んだ声。それが朗々と響けば響くほど、姫君の心は暗澹となった。
「……もし、私が女の身でなかったならば……男であったならば、主上はいかが遊ばしたでしょう。琴をご下賜になったでしょうか……」
病床からのか細い声に、内大臣殿は何かはっとさせられたらしい。何を感じたのか、急に笑みを覆って、不安げに病床を覗き込んだ。
「……姫君……」
「……」
「……また後で来るとしよう。少し休みなさい。さ、頼周」
と、内大臣殿は中将殿を促すと、そそくさと出て行った。
渡殿の辺りで内大臣殿は中将殿に問う。
「おことは何ぞ知っておるのか?」
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父君と兄君が出て行くと、姫君は病床に横になった。
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「あら、いやだ。お熱ですわ」
何気なく姫君の額に手をやった才外記が、驚きの声をあげた。
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「乳母(まま)。医師は呼ばなくても宜しいです。夕刻は体温は上がるものだわ。微熱のある者には、仕方のないことです」
「でも……冷やさないと。水を持って参ります。しばらくお待ちを」
才外記はすぐに水を汲みに出て行った。
一人病床に残されて、天井をぼんやり眺めていると、先程自分で言ったことが思い出される。
──もし、この身が女でなかったならば、帝はすんなりと呉楚派の品を下さっただろうか──
男であれば、入内云々という話は出てくるわけもなく。
呉楚派の品に関係なく。男であったなら、入内など、決してない。女故に入内の話が出るのだ。
どうして男に生まれなかったものか。女などに生まれたばかりに厄介なことだ。
入内ばかりでない。このやり場のない思い。
男に生まれたかったと姫君は思った。
男に生まれていれば、男に恋をしなくてすむ。
韶徳三位殿を。
こんなに悲しい恋をしなくてすんだのに。
そして、この感情のまま、入内をすることもなく、幸せでいられた筈なのに。
実におかしな感情だ。恋というものは──。
正義までをも不当な悪に感じさせる。尊いものをも卑しく感じさせる。
入内は父君の長年の夢だったではないか。そして、そのための教育を幼い時から受けてきたこの身ではないか。女の最高の幸福だと信じ、入内するつもりで生きてきた自分ではなかったか。
入内は自分自身の夢でもあった筈だ。
それが、女に生まれて恋を知って、全てが価値のない、むしろ遠ざけたいものになってしまうとは。
女に生まれたからこそ成し遂げられる、帝の后宮という地位だが、女に生まれたからこそ韶徳三位殿に恋をし、苦行を身に受けることとなってしまったのだ。
どうしても入内しなければならないのか。
三位殿以外の人のものにならなければならないのか。
三位殿亡き今は、もう誰のものにもなりたくない。
「私は決して、誰のものにもなりません!」
思わず声にしていると、衣擦れの音が近づいてきて、すぐに才外記が姿を見せたので、はっと口を噤んだ。
だが、
「まあ、おん涙などがおん眦から。どうなさったのです。お苦しいのですか」
と、才外記は目敏く見つけて、自らの手で姫君の目元を拭った。
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【完結】幼馴染に裏切られたので協力者を得て復讐(イチャイチャ)しています。
猫都299
青春
坂上明には小学校から高校二年になった現在まで密かに片想いしていた人がいる。幼馴染の岸谷聡だ。親友の内巻晴菜とはそんな事も話せるくらい仲がよかった。そう思っていた。
ある日知った聡と晴菜の関係。
これは明が過去に募らせてしまった愚かなる純愛へ一矢報いる為、協力者と裏切り返す復讐(イチャイチャ)の物語である。
※2024年8月10日に完結しました! 応援ありがとうございました!(2024.8.10追記)
※小説家になろう、カクヨム、Nolaノベルにも投稿しています。
※主人公は常識的によくない事をしようとしていますので気になる方は読まずにブラウザバックをお願い致します。
※「キスの練習相手は〜」「幼馴染に裏切られたので〜」「ダブルラヴァーズ〜」「やり直しの人生では〜」等は同じ地方都市が舞台です。関連した人物も、たまに登場します。(2024.12.2追記)
※番外編追加中・更新は不定期です。(2025.1.30追記)←番外編も完結しました!(2025.9.11追記)
※【修正版】をベリーズカフェに投稿しています。Nolaノベルでは全話限定公開・修正中です。(2025.10.29追記)
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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