89 / 180
乱声
一拍・幽人敏平(捌)
しおりを挟む
敏平はその後も尼のもとに通い続けた。
俗人の男が尼と密通していることへの罪悪感は、何故か全くなかった。
尼の父なる人・覚如(かくにょ)という僧は、なお修行から戻らぬらしい。
「このまま、おもとを連れ去ってしまおうか」
「私を攫うのですか?」
「還俗させたい」
敏平は本気で、そんな痴夢を見るようになっていた。
そうやって、一ヶ月は過ごしたか。
竜巻の発生からも一ヶ月。仙洞御所の後始末も一段落したが、非常な破壊力を持った竜巻だった故に、街中はまだ野分に遭った翌朝のような家ばかりだった。もとの姿に復興するまでには、あと何年も必要だろう。ただ、発生直後の混乱状態からは回復していた。
一ヶ月も経てば、少しは気も和らぐもので、敏平も院の御前での失敗を、昨日に感じる辛さからは解放されていた。けっこう昔のことに感じられる。きっと、竜巻や尼のことなど、劇的なことが続け様に起こったからだろう。
なお嵯峨へは帰っていなかった。
そして、今夜も尼のもとへ忍んで行こうと考えていた時、中宮亮がつつと近寄ってきた。
「ちょっと耳を貸せ」
「はい?」
中宮亮、傍らまで来る。肌がぴかぴかで艶に美しい。自然にしていても勝手に流し目になるのは、好色者の倣いか。口元を扇で麗しく隠して、そのまま敏平の耳に囁いた。敏平の耳や首筋にかかる息がとろけるように甘やかで、つい尼を思い出す。
「嵯峨の山荘の裏山に、黄棘(こうきょく)の生える幽谷があるという話を聞いたが、本当か?」
「えっ!?」
敏平、思わず仰け反った。
「んなな、何を……」
「そんなに驚かんでもよかろ?仙洞に置き忘れた文王を、持ち帰ってやったではないか。教えて給れ」
中宮亮、そう言ってふふっと笑う。ちょっと困ったような表情も紛れているのは、やはりまずい状況にあるからなのだろう。
「聞けば、黄棘と申すは、孕んだ女がこれを食すと堕胎するという。何も聞かずに、黄棘の生える谷まで案内してくれ」
好色な中宮亮のこと、その美貌と甘い囁きで、恐ろしい相手と密通し、挙げ句に身ごもらせてしまったらしい。
「幽蘭の谷のことを仰せでしょうか?」
「ほう。幽蘭というのか?」
「……亡き姫君はその谷をお気に召していたようですが」
「妹君なる人が。なるほど。で、黄棘は生えているのか?」
「黄棘は仙界に生えるものなのであって、人界(にんがい)のものではないと思いますが……その谷には蘭に似た、いえ、私の目には蘭に見えるのですが、そういう植物は生えております。姫君の祖父君(洞院中納言殿)が、これを黄棘と呼んでおわしましたそうです。姫君はただ単に蘭と仰せでしたが」
「とにかく、私をそこへ連れて行ってくれ」
媚びるような笑顔で言うが、瞳の奥が真剣だった。中宮亮には珍しいことである。
「余程凄い御方がお相手のようですね」
「何も聞くな。身の破滅だ。私一人が死罪になるくらい構わぬが、父上に迷惑がかかる」
そういう相手ならば、皇室に縁ある人であろう。帝の妃とか。どこまで好色なのだ、この人は。
尼を相手に恋する敏平以上に、中宮亮は危険な恋をしているらしい。
「そういえば、近頃、主上の妹宮(懿子内親王)がご懐妊遊ばしましたね」
ふと、敏平が思い出したように言うと、中宮亮はぎょっとする。が、次の瞬間には、もう敏平を睨めつけていた。
「文王は呉楚派の宝物。帝より下賜されたる名器。それを置き忘れるなど、琴士の風上にも置けぬ奴。他人に知られたら、琴士として不名誉極まりないことよな。まして、灌頂者の失態。末代まで悪し様に語られようぞ。いやいや、露見すれば、罪にも問われる。み国宝を消失させるところだったのだからな」
「わかりました」
敏平は中宮亮の脅迫に屈した。
「幽蘭の谷にお連れしましょう。何も詮索しませんし、決して他言は致しません。ですが、生えている植物がまこと黄棘かどうか、保証はしませんよ」
やはり、中宮亮が孕ませた相手というのは、帝の妹宮なのだろう。東宮の女御なる人。好色なのにも程がある。
その頃、嵯峨の山荘には、六条左大臣殿の子息の一人・権少将師道朝臣(ごんのしょうしょうもろみちあそん)が来ていた。
師道朝臣は音仏の琵琶の弟子。楽才に恵まれていた。先月の院七十賀では、舞人として舞台に立ち、『青海波』を舞ってもいる。
今日は嵯峨へ、稽古に訪れているのである。
「人垣に立つ琵琶の奏者はまこと不思議だった。琵琶を立って弾くのには、何か秘密の方法があるのだろう。その法は秘伝か。いったいどうやって持っているのかと、舞いながら気になっていた」
「私は昔、楽所召人でしたが、その頃は一度も『青海波』の人垣に琵琶が立ったことはございませんでした。白河の我が師は、かつて人垣に立ちましたそうな。師の弟子だった公達が今回立たれましたでしょう?師よりその法を伝授されたとか」
「いつかは私も人垣に立ってみたいもの」
「そうですね」
「気になるのはそればかりではない。近頃の我が悩み、聞いて下され」
師道朝臣は袖を払った。
「狩衣の括に撥が引っかかる。袖は捲って弾く方がよいと言う者も多いが、貴殿は見苦しいとて袖の中に琵琶を入れて弾いておらるるが……私は不器用で、袖を捲らないとよく弾けぬ」
師道朝臣はそう言って困り果てている。
師の役を仰せつかっている音仏は、
「僧の私が袖を捲って腕を露わにするのも見苦しかろうと思い。まして、盲人故、己がいかなる姿で弾いているのか、確認できませぬ。弾く姿も大事です。楽の善し悪しに直接関係するわけではありませんが、見た目が悪いと興も醒めます。袖の中に琵琶を差し入れて弾けば、間違いなかろうと、そうしておりますが、楽人だった昔は、私も袖を捲って弾いておりました。お若い公達が狩衣の袖を捲っていても、そう見苦しいことはないでしょう。後ろから見た時の姿にさえ気をつければ、構わないと思います」
と言って、にっこり笑った。
「白河の琵琶聖は何と仰せなので?」
なお師道朝臣は問うた。
「ただ演奏だけを極上のものにしたければ、袖は捲って、煩わしさを感じないで弾く方がよいと仰せです。いちいち括を気にしていては、気が散ってよい演奏にならないでしょう。ですが、貴人の御前に参って、多勢の中で弾かなければならない時は、弾く姿が美しい方がよいに決まっております。面の優れた清らなる人が、構え方も麗しくあれば、紡ぎ出される音も麗しう感じるものです。姿醜くき人が袖を捲りて肘を見せつつ、頭を縦に振り振り奏でれば、どんなに美しい音色でも、興ざめに感じるものでしょう。見た目も名手の条件。我が師もそのように考えておらるるようです」
音仏は主筋の弟子にそう説明した。
師道朝臣は右大将殿の異母弟だ。同腹(はらから)でない兄弟は、余り親しくはないもの。
師道も母の家で育ったから、兄なる右大将殿とは、叙爵するまでは余り顔を合わせていなかった。清花の姫君とは、一度も会ったことがない。
継母の二位殿とは、仲が良いとは言えない。
右大将殿が兵衛や若君を住まわせて、好きに使っているこの山荘も、もとはその母君たる二位殿のものだ。その継母の持ち物であるこの山荘へ、師道が出入りすることになろうとは。
師道はとにかく楽好きであった。そこはとても清花の姫君に似ている。
師道、
「聞くところによると、徐氏の輪説(りんぜつ)というのがあって、師の御坊はそれを聴いたことがおありとか?」
と問う。
徐氏とは、徐季龍という唐人のことである。字(あざな)を季龍というらしいが、彼は南唐琴門の何参の供人として渡来したのであった。琵琶の名手で、実に美しい『緑腰』を弾く人だった。音仏幼き日の憧れ。
その徐季龍が『楊真操』を弾く時、輪説のような手を弾いたことがあった。
「譜にはないものです。徐老師の新しい手でしょう。徐老師独自のものと思いますが、実に巧みで美しく、素晴らしかったですよ」
音仏のその言葉に、関心を示す師道。やはり似ている。
「御腹違いとはいえ、やはり亡き姫君の御小兄人(しょうと)であらせられます。楽の才溢れらるるは御血筋でございましょうね」
やがて稽古も終了し、師道は車宿に行こうと廊を歩いていた。音仏はそれを送りについてきている。
師道は改めて言った。
「お会いしたことはとうとうなかったが、我が姉君なる人の偉大さ、心根、楽への思いなどが、ここに来ると伝わってくるように思えて。何だか懐かしいような気持ちになる。姫君の魂がその木にも、あの花にも、今吹き抜けて行ったそよ風にも宿っているようだ。姫君は今でもここに住んでおわすのだろう。嫡母(てきぼ)の家ながら、ここに来ると、ここの空気が私の心にぴったりと添うて、浄化してくれる。楽の道を導いてくれる。そんなふうに感じられる。私なんぞが来たら、嫡母や兵衛の君には御目障りだろうけど……」
「なんの。少将の殿(師道)が琵琶を学びたいと望まれた折、私を師にと定められたは大北ノ方(二位殿)その人です。大北ノ方は御身の御事をお認めでいらっしゃいますよ。そうお気兼ねなさいますな」
音仏はそう言った。それから、やや考えて、そして再び口を開く。
「……ただ、私は盲いております故、譜をもってお教えすることが叶いませぬ。譜は大切です。譜によらず、口伝のみでは誤りも多く伝わりましょう。御身には、そろそろ別の方に師事するべき時かもしれませぬ。どなたがよいか考えておきましょう。とりあえずは、またいらして下さい。七日後に。姫君の御魂宿るこの地で、またご一緒に稽古致しましょう」
「忝ない。おお」
と、師道は西の方を見やって、
「木の間を吹く微風の、何とやさし気なこと。青要殿(西の対)辺りを輝かせる光の、何と美しいこと。姫君の微笑みだろうか」
と言った。
そして、音仏の手を引いて、西の中門を出て行く。が、車宿の側まで来た時、
「のう、師の御坊。あちらはいつ見ても、ひどい有り様だなあ。ひどく風化して、ここの幽居の麗しさを著しく損じている。あれがなければ、ここの邸の姿は完璧だと思うのだが。何故、取り壊しもせず、あのまま放っておくのであろう。あれは誰の持ち物か?」
と西隣を向いて言った。
身を澄ますようにして、
「お隣の、庵のことでございましょうや?」
と、音仏は尋ねた。
「そう。それ。誰のもの?」
音仏は一瞬、顔を強張らせた。が、すぐにさり気なく、
「今は狐狸の住処にて。人の主はおりませぬ」
と答えた。
「そうか」
「主なき故に、他人が勝手に取り壊すわけにもゆきませず、そのままにしてあります。私には見えませぬが、それほどひどい荒れ様ですか?」
「もはや物の形を留めていない」
「それほどまでに……風化してしまいましたか」
「風に吹かれて塵と化す日も遠くはあるまじ。だが、早くそうなってくれた方がよいようにも感じるな。荒れていることよりも、そこの気の流れがあやしく、恐ろしい。塵となって跡形なくなれば、風通しもよくなって、妖気も吹き飛ぼう」
「気、ですか?」
「盲いていても、感じないか?」
「怨念ですか……」
「いったい、以前の主はどんな非業の人だったのだろう?師の御坊、一度、大元帥明王秘法でも行い、その庵を浄化した方がよい。怨霊の気がこちらにまで流れてきて、当家に災い及ぼすやもしれぬ」
師道が肌で感じたことを述べると、音仏は何故か物も言えず、硬直してしまった。
どうしたのだろうと思っているところへ、中宮亮と敏平が騎馬でやって来るのが見えた。
「や?敏平と、兄か?」
その言葉に、音仏も我に返る。
「やあ、珍しい。中宮亮殿がかかる所へ敏平とご一緒にまかられるとは。何事でしょう」
やがてこちらに到着した中宮亮は、
「これは少将にて候うや」
と、ちょっとまずそうな顔をした。
この人は清花の姫君とは同年の兄妹。母は姫君とも師道とも違う。
師道との仲は悪くはないが、よくもなく、右大将殿との仲も似たようなものであった。けれど、二位殿とは中宮亮の方がうまくいっていた。
手綱を従者の手に委ねながら、中宮亮は、
「いや、なに。辻風の後始末をしているうちに、敏平とは急に親しうなって。敏平の日々の住まいを見てみたいものだと思い、連れてきてもらったのだよ。遊びに来ただけだ」
と、笑顔を作った。
実に艶なる笑み。好色者の必需品だ。異母弟の清らなる姿とは別の麗しさのある公達である。
敏平は兄弟を交互に見て、どちらも僅かに右大将殿の面影はあるようだと思った。右大将殿は二人の艶、清らともまた異なる雰囲気を持っている。
三者三様だが、やはり兄弟なのだ。面差しはどこか似ていると思っていると、音仏が探すような顔をして、
「敏平、ようやく帰って来たのだね?」
と語りかけた。
敏平、すぐに音仏の前まで進んできて、その手に触れる。
「長らく留守にして、申し訳ありませんでした。ようやく片付いたので戻ってきました。留守中、何か変わったことは?」
「何も。辻風は大変だったろう。ご苦労でした。院の七十御賀で琴を弾くという大役も務めて、さぞ疲れたでしょう」
音仏は労い、敏平がやっと帰ってきてくれたので、心底ほっとした。今、この山荘で一番頼りになるのは敏平なのだ。
主君二人は、敏平の院中での散々な様子は聞き知っているから、音仏の言葉に、ちょっと居心地悪そうにした。
「では、私はこれで失礼する。師の御坊、また今度」
と、弟君はそそくさと網代車に入って、出立してしまった。
兄君の方も、
「敏平、さっそく裏山へ案内してくれよ」
と誘い、連れ立って北の幽谷へ出掛けた。
ぽつねんと一人残された音仏は、敏平が失敗したのだと察した。
「姫君。敏平は御身の精神を受け継ぐ者ですが、六位も賜りましたなれど、世に出るのはまだ早いようです」
微風の中に語りかけた。
門外へ出て、西隣の庵まで探り歩く。
見えないけれど、やさしい日の光がそこに降り注いでいるのがわかる。
怨念かと思った。
かつて。姫君が琵琶の『楊真操』曲の撥音に誘われて、ここまで来てしまった時のことを思い出す。
「三位殿」
その折の、目の覚めるような美しき公達の姿は。そして、その最期の燃えるような姿は。今でも音仏の脳裏に焼き付いている。
姫君が恋した韶徳三位殿。
優しくもの静かで、上品な美しい人。
あの人が、なお怨んで閻浮を漂い、念を放ち、世を呪っているとは思えない。
「あちらではまだ姫君と逢われていないのですか?」
胸が痛い。
その後、師のもとに再び通い、音仏も今では『楊真操』を伝授されている。これを弾く度、姫君の恋心を思い、胸が痛んだ。
音仏の秘密は音仏の中だけにある。その罪は消えぬ。三位殿がもし呪っているならば、それは音仏に対する恨みに違いない。
「早く姫君と巡り合われませ」
俗人の男が尼と密通していることへの罪悪感は、何故か全くなかった。
尼の父なる人・覚如(かくにょ)という僧は、なお修行から戻らぬらしい。
「このまま、おもとを連れ去ってしまおうか」
「私を攫うのですか?」
「還俗させたい」
敏平は本気で、そんな痴夢を見るようになっていた。
そうやって、一ヶ月は過ごしたか。
竜巻の発生からも一ヶ月。仙洞御所の後始末も一段落したが、非常な破壊力を持った竜巻だった故に、街中はまだ野分に遭った翌朝のような家ばかりだった。もとの姿に復興するまでには、あと何年も必要だろう。ただ、発生直後の混乱状態からは回復していた。
一ヶ月も経てば、少しは気も和らぐもので、敏平も院の御前での失敗を、昨日に感じる辛さからは解放されていた。けっこう昔のことに感じられる。きっと、竜巻や尼のことなど、劇的なことが続け様に起こったからだろう。
なお嵯峨へは帰っていなかった。
そして、今夜も尼のもとへ忍んで行こうと考えていた時、中宮亮がつつと近寄ってきた。
「ちょっと耳を貸せ」
「はい?」
中宮亮、傍らまで来る。肌がぴかぴかで艶に美しい。自然にしていても勝手に流し目になるのは、好色者の倣いか。口元を扇で麗しく隠して、そのまま敏平の耳に囁いた。敏平の耳や首筋にかかる息がとろけるように甘やかで、つい尼を思い出す。
「嵯峨の山荘の裏山に、黄棘(こうきょく)の生える幽谷があるという話を聞いたが、本当か?」
「えっ!?」
敏平、思わず仰け反った。
「んなな、何を……」
「そんなに驚かんでもよかろ?仙洞に置き忘れた文王を、持ち帰ってやったではないか。教えて給れ」
中宮亮、そう言ってふふっと笑う。ちょっと困ったような表情も紛れているのは、やはりまずい状況にあるからなのだろう。
「聞けば、黄棘と申すは、孕んだ女がこれを食すと堕胎するという。何も聞かずに、黄棘の生える谷まで案内してくれ」
好色な中宮亮のこと、その美貌と甘い囁きで、恐ろしい相手と密通し、挙げ句に身ごもらせてしまったらしい。
「幽蘭の谷のことを仰せでしょうか?」
「ほう。幽蘭というのか?」
「……亡き姫君はその谷をお気に召していたようですが」
「妹君なる人が。なるほど。で、黄棘は生えているのか?」
「黄棘は仙界に生えるものなのであって、人界(にんがい)のものではないと思いますが……その谷には蘭に似た、いえ、私の目には蘭に見えるのですが、そういう植物は生えております。姫君の祖父君(洞院中納言殿)が、これを黄棘と呼んでおわしましたそうです。姫君はただ単に蘭と仰せでしたが」
「とにかく、私をそこへ連れて行ってくれ」
媚びるような笑顔で言うが、瞳の奥が真剣だった。中宮亮には珍しいことである。
「余程凄い御方がお相手のようですね」
「何も聞くな。身の破滅だ。私一人が死罪になるくらい構わぬが、父上に迷惑がかかる」
そういう相手ならば、皇室に縁ある人であろう。帝の妃とか。どこまで好色なのだ、この人は。
尼を相手に恋する敏平以上に、中宮亮は危険な恋をしているらしい。
「そういえば、近頃、主上の妹宮(懿子内親王)がご懐妊遊ばしましたね」
ふと、敏平が思い出したように言うと、中宮亮はぎょっとする。が、次の瞬間には、もう敏平を睨めつけていた。
「文王は呉楚派の宝物。帝より下賜されたる名器。それを置き忘れるなど、琴士の風上にも置けぬ奴。他人に知られたら、琴士として不名誉極まりないことよな。まして、灌頂者の失態。末代まで悪し様に語られようぞ。いやいや、露見すれば、罪にも問われる。み国宝を消失させるところだったのだからな」
「わかりました」
敏平は中宮亮の脅迫に屈した。
「幽蘭の谷にお連れしましょう。何も詮索しませんし、決して他言は致しません。ですが、生えている植物がまこと黄棘かどうか、保証はしませんよ」
やはり、中宮亮が孕ませた相手というのは、帝の妹宮なのだろう。東宮の女御なる人。好色なのにも程がある。
その頃、嵯峨の山荘には、六条左大臣殿の子息の一人・権少将師道朝臣(ごんのしょうしょうもろみちあそん)が来ていた。
師道朝臣は音仏の琵琶の弟子。楽才に恵まれていた。先月の院七十賀では、舞人として舞台に立ち、『青海波』を舞ってもいる。
今日は嵯峨へ、稽古に訪れているのである。
「人垣に立つ琵琶の奏者はまこと不思議だった。琵琶を立って弾くのには、何か秘密の方法があるのだろう。その法は秘伝か。いったいどうやって持っているのかと、舞いながら気になっていた」
「私は昔、楽所召人でしたが、その頃は一度も『青海波』の人垣に琵琶が立ったことはございませんでした。白河の我が師は、かつて人垣に立ちましたそうな。師の弟子だった公達が今回立たれましたでしょう?師よりその法を伝授されたとか」
「いつかは私も人垣に立ってみたいもの」
「そうですね」
「気になるのはそればかりではない。近頃の我が悩み、聞いて下され」
師道朝臣は袖を払った。
「狩衣の括に撥が引っかかる。袖は捲って弾く方がよいと言う者も多いが、貴殿は見苦しいとて袖の中に琵琶を入れて弾いておらるるが……私は不器用で、袖を捲らないとよく弾けぬ」
師道朝臣はそう言って困り果てている。
師の役を仰せつかっている音仏は、
「僧の私が袖を捲って腕を露わにするのも見苦しかろうと思い。まして、盲人故、己がいかなる姿で弾いているのか、確認できませぬ。弾く姿も大事です。楽の善し悪しに直接関係するわけではありませんが、見た目が悪いと興も醒めます。袖の中に琵琶を差し入れて弾けば、間違いなかろうと、そうしておりますが、楽人だった昔は、私も袖を捲って弾いておりました。お若い公達が狩衣の袖を捲っていても、そう見苦しいことはないでしょう。後ろから見た時の姿にさえ気をつければ、構わないと思います」
と言って、にっこり笑った。
「白河の琵琶聖は何と仰せなので?」
なお師道朝臣は問うた。
「ただ演奏だけを極上のものにしたければ、袖は捲って、煩わしさを感じないで弾く方がよいと仰せです。いちいち括を気にしていては、気が散ってよい演奏にならないでしょう。ですが、貴人の御前に参って、多勢の中で弾かなければならない時は、弾く姿が美しい方がよいに決まっております。面の優れた清らなる人が、構え方も麗しくあれば、紡ぎ出される音も麗しう感じるものです。姿醜くき人が袖を捲りて肘を見せつつ、頭を縦に振り振り奏でれば、どんなに美しい音色でも、興ざめに感じるものでしょう。見た目も名手の条件。我が師もそのように考えておらるるようです」
音仏は主筋の弟子にそう説明した。
師道朝臣は右大将殿の異母弟だ。同腹(はらから)でない兄弟は、余り親しくはないもの。
師道も母の家で育ったから、兄なる右大将殿とは、叙爵するまでは余り顔を合わせていなかった。清花の姫君とは、一度も会ったことがない。
継母の二位殿とは、仲が良いとは言えない。
右大将殿が兵衛や若君を住まわせて、好きに使っているこの山荘も、もとはその母君たる二位殿のものだ。その継母の持ち物であるこの山荘へ、師道が出入りすることになろうとは。
師道はとにかく楽好きであった。そこはとても清花の姫君に似ている。
師道、
「聞くところによると、徐氏の輪説(りんぜつ)というのがあって、師の御坊はそれを聴いたことがおありとか?」
と問う。
徐氏とは、徐季龍という唐人のことである。字(あざな)を季龍というらしいが、彼は南唐琴門の何参の供人として渡来したのであった。琵琶の名手で、実に美しい『緑腰』を弾く人だった。音仏幼き日の憧れ。
その徐季龍が『楊真操』を弾く時、輪説のような手を弾いたことがあった。
「譜にはないものです。徐老師の新しい手でしょう。徐老師独自のものと思いますが、実に巧みで美しく、素晴らしかったですよ」
音仏のその言葉に、関心を示す師道。やはり似ている。
「御腹違いとはいえ、やはり亡き姫君の御小兄人(しょうと)であらせられます。楽の才溢れらるるは御血筋でございましょうね」
やがて稽古も終了し、師道は車宿に行こうと廊を歩いていた。音仏はそれを送りについてきている。
師道は改めて言った。
「お会いしたことはとうとうなかったが、我が姉君なる人の偉大さ、心根、楽への思いなどが、ここに来ると伝わってくるように思えて。何だか懐かしいような気持ちになる。姫君の魂がその木にも、あの花にも、今吹き抜けて行ったそよ風にも宿っているようだ。姫君は今でもここに住んでおわすのだろう。嫡母(てきぼ)の家ながら、ここに来ると、ここの空気が私の心にぴったりと添うて、浄化してくれる。楽の道を導いてくれる。そんなふうに感じられる。私なんぞが来たら、嫡母や兵衛の君には御目障りだろうけど……」
「なんの。少将の殿(師道)が琵琶を学びたいと望まれた折、私を師にと定められたは大北ノ方(二位殿)その人です。大北ノ方は御身の御事をお認めでいらっしゃいますよ。そうお気兼ねなさいますな」
音仏はそう言った。それから、やや考えて、そして再び口を開く。
「……ただ、私は盲いております故、譜をもってお教えすることが叶いませぬ。譜は大切です。譜によらず、口伝のみでは誤りも多く伝わりましょう。御身には、そろそろ別の方に師事するべき時かもしれませぬ。どなたがよいか考えておきましょう。とりあえずは、またいらして下さい。七日後に。姫君の御魂宿るこの地で、またご一緒に稽古致しましょう」
「忝ない。おお」
と、師道は西の方を見やって、
「木の間を吹く微風の、何とやさし気なこと。青要殿(西の対)辺りを輝かせる光の、何と美しいこと。姫君の微笑みだろうか」
と言った。
そして、音仏の手を引いて、西の中門を出て行く。が、車宿の側まで来た時、
「のう、師の御坊。あちらはいつ見ても、ひどい有り様だなあ。ひどく風化して、ここの幽居の麗しさを著しく損じている。あれがなければ、ここの邸の姿は完璧だと思うのだが。何故、取り壊しもせず、あのまま放っておくのであろう。あれは誰の持ち物か?」
と西隣を向いて言った。
身を澄ますようにして、
「お隣の、庵のことでございましょうや?」
と、音仏は尋ねた。
「そう。それ。誰のもの?」
音仏は一瞬、顔を強張らせた。が、すぐにさり気なく、
「今は狐狸の住処にて。人の主はおりませぬ」
と答えた。
「そうか」
「主なき故に、他人が勝手に取り壊すわけにもゆきませず、そのままにしてあります。私には見えませぬが、それほどひどい荒れ様ですか?」
「もはや物の形を留めていない」
「それほどまでに……風化してしまいましたか」
「風に吹かれて塵と化す日も遠くはあるまじ。だが、早くそうなってくれた方がよいようにも感じるな。荒れていることよりも、そこの気の流れがあやしく、恐ろしい。塵となって跡形なくなれば、風通しもよくなって、妖気も吹き飛ぼう」
「気、ですか?」
「盲いていても、感じないか?」
「怨念ですか……」
「いったい、以前の主はどんな非業の人だったのだろう?師の御坊、一度、大元帥明王秘法でも行い、その庵を浄化した方がよい。怨霊の気がこちらにまで流れてきて、当家に災い及ぼすやもしれぬ」
師道が肌で感じたことを述べると、音仏は何故か物も言えず、硬直してしまった。
どうしたのだろうと思っているところへ、中宮亮と敏平が騎馬でやって来るのが見えた。
「や?敏平と、兄か?」
その言葉に、音仏も我に返る。
「やあ、珍しい。中宮亮殿がかかる所へ敏平とご一緒にまかられるとは。何事でしょう」
やがてこちらに到着した中宮亮は、
「これは少将にて候うや」
と、ちょっとまずそうな顔をした。
この人は清花の姫君とは同年の兄妹。母は姫君とも師道とも違う。
師道との仲は悪くはないが、よくもなく、右大将殿との仲も似たようなものであった。けれど、二位殿とは中宮亮の方がうまくいっていた。
手綱を従者の手に委ねながら、中宮亮は、
「いや、なに。辻風の後始末をしているうちに、敏平とは急に親しうなって。敏平の日々の住まいを見てみたいものだと思い、連れてきてもらったのだよ。遊びに来ただけだ」
と、笑顔を作った。
実に艶なる笑み。好色者の必需品だ。異母弟の清らなる姿とは別の麗しさのある公達である。
敏平は兄弟を交互に見て、どちらも僅かに右大将殿の面影はあるようだと思った。右大将殿は二人の艶、清らともまた異なる雰囲気を持っている。
三者三様だが、やはり兄弟なのだ。面差しはどこか似ていると思っていると、音仏が探すような顔をして、
「敏平、ようやく帰って来たのだね?」
と語りかけた。
敏平、すぐに音仏の前まで進んできて、その手に触れる。
「長らく留守にして、申し訳ありませんでした。ようやく片付いたので戻ってきました。留守中、何か変わったことは?」
「何も。辻風は大変だったろう。ご苦労でした。院の七十御賀で琴を弾くという大役も務めて、さぞ疲れたでしょう」
音仏は労い、敏平がやっと帰ってきてくれたので、心底ほっとした。今、この山荘で一番頼りになるのは敏平なのだ。
主君二人は、敏平の院中での散々な様子は聞き知っているから、音仏の言葉に、ちょっと居心地悪そうにした。
「では、私はこれで失礼する。師の御坊、また今度」
と、弟君はそそくさと網代車に入って、出立してしまった。
兄君の方も、
「敏平、さっそく裏山へ案内してくれよ」
と誘い、連れ立って北の幽谷へ出掛けた。
ぽつねんと一人残された音仏は、敏平が失敗したのだと察した。
「姫君。敏平は御身の精神を受け継ぐ者ですが、六位も賜りましたなれど、世に出るのはまだ早いようです」
微風の中に語りかけた。
門外へ出て、西隣の庵まで探り歩く。
見えないけれど、やさしい日の光がそこに降り注いでいるのがわかる。
怨念かと思った。
かつて。姫君が琵琶の『楊真操』曲の撥音に誘われて、ここまで来てしまった時のことを思い出す。
「三位殿」
その折の、目の覚めるような美しき公達の姿は。そして、その最期の燃えるような姿は。今でも音仏の脳裏に焼き付いている。
姫君が恋した韶徳三位殿。
優しくもの静かで、上品な美しい人。
あの人が、なお怨んで閻浮を漂い、念を放ち、世を呪っているとは思えない。
「あちらではまだ姫君と逢われていないのですか?」
胸が痛い。
その後、師のもとに再び通い、音仏も今では『楊真操』を伝授されている。これを弾く度、姫君の恋心を思い、胸が痛んだ。
音仏の秘密は音仏の中だけにある。その罪は消えぬ。三位殿がもし呪っているならば、それは音仏に対する恨みに違いない。
「早く姫君と巡り合われませ」
0
あなたにおすすめの小説
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる