七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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後序

四拍・不幸は幸(上)

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 敏平朝臣が夕星に教授することは勿論、左右の手法・指法、読譜などであるが、演奏と直接的には関係ないことも、琴においては学ぶべきことがある。敏平はまず、琴の歴史から教えていたのだが、その教科書として、昔彼自身が伊豆で執筆した逸音譜集の第一巻を用いていた。

「南唐派の消逸した名琴に、南風というものがある。また、それと対をなすものとして、舜琴という名器もある。南風、舜琴ともに琴の起源伝説に因むものだ。琴の起源は太古の昔、伏羲とも神農とも言われている。また、帝堯とも。しかし、それら諸説ある中で、帝舜が五絃琴を作って南風の詩を歌ったという話がある。神農が琴を作り、帝舜が南風を歌ったというのもあるが。これが、南風、舜琴二張の琴の名の由来だ」

「では、琴はもともとは五絃だったのでございますね。でも、本当の起源はいつになるのでしょう?」

 夕星は勉強熱心ではあった。凡才だが。研究者としては優れた人物となろう。

「殷周革命の頃までには、確実に演奏されていたであろうな。だが、その頃は五絃だったのだ。間もなく七絃になったのだろうが。周の文王、武王が一絃ずつ加えて七絃にしたのだとか、文王が二絃加えて七絃にしたのだとか言われている」

 敏平はそう言うと、文机の下に何冊か今日の講義のために用意しておいた書籍の中から、一冊取り出した。それは『詩経』であった。

 正小雅・鹿鳴之什「鹿鳴」の中の一節を広げて指す。

 呦呦鹿鳴
 我有嘉賓
 鼓瑟鼓琴
 鼓瑟鼓琴
 和楽且甚
 我有旨酒
 以燕楽嘉賓之心

「この『鹿鳴』は周の成王の時までには作られて、宮中で奏でられていたものだ。この詩文の中に『鼓瑟鼓琴』とあるから、この周の頃には普通に琴が演奏されていたということになる。それよりももっと前に、琴という楽器が作られ、奏でられていなければならぬ。やはり、殷の時代には既に琴はあったのではなかろうか」

「それ程、気の遠くなるほど昔からある楽器なのですね、琴は。この歴史と伝統を重んじ、大切に守ってゆかねばならないこと、よくわかりました」

 そう、琴はもっと多くの人達に大事にされ、その技を守り伝えられなければならない楽器なのだ。今こそ本朝は、危機を察して国をあげてこれを保護しなければならない。このままでは琴は滅びる。存亡の危機に気づかぬふりのこの国の愚かさよ。

「その後の時代には、伯牙のような才人も出た。『高山流水』や『水仙操』は相当古い。孔子はこの楽器を愛し、『倚蘭操』を作った。孔子の琴式は仲尼式と称し、近頃最も多い形状だ。孔子は七絃琴を精神を培うために重要なものであるとして、重んじた。君子には欠かせぬ楽器となり、儒家にとっては楽器というより精神修養の一手段と見なされるようになった。士大夫たるものの教養となり、漢代には、貴人は必ず学ばなければならなかったのだ。そして、『広陵止息(広陵散)』が整えられ、嵆中散によって大事に秘されていた。やがて、六朝期にはさらに充実したものとなり、隋朝の頃より、譜の繁雑さを改善せんとの試みがなされるようになった」

 話が譜のことに及んだので、敏平は色々な譜を出して見せた。

「僧の中には梵字風の印を音符にあてる者もいた。真名の部首のみを記す減字法も様々試された。それまでの文章による譜よりはすっきりしたが、なお煩雑であり、そうした段階のものが我が国に渡ってきたのだ。……楽器の話をしよう。唐土には優れた琴の作者があり、雷氏一族は代々名器を産んできたが、それらの雷琴も、譜とともに我が国に何張か伝わってきている。呉楚派にも、開元年間に作られた雷琴が伝わっている。おもとの目の前の琴こそその雷琴なれ」

 敏平、今度は夕星の前に置いた琴を指して言った。夕星の稽古用に使っている琴である。

「裏返してみなさい」

 敏平はそう言った。夕星は言われた通り、琴をひっくり返した。

 敏平は話を続ける。

「見なさい。これは雷琴式だ。私の使っている秋声は仲尼式。雷琴式には軫池と一対の雁足しかないが、仲尼式にはそれに加えて龍池と鳳沼がある。そして、その雷琴には、開元十一年の刻字があるだろう?それは雷氏の手による唐琴であるに間違いない。我が秋声は漢琴だ。私はこの秋声で灌頂を受けた。師の姫君がこれを使われ、鳳勢に拝礼し、私は文王の琴を使って秘曲伝業の儀は行われたのだ。今その鳳勢は手元になく、洛神図とてないが、心に楽の神々、賀茂大明神を思い描くことはできよう。いつかおもとにも灌頂を授けてやれる日がくるだろう。楽しみなことだ」

「しっかり精進致します。時に、灌頂とは、何をもって灌頂と申すのでございましょうや」

「灌頂こそは伝法、以心灌頂のことなれ。これ、『大楽論』に連なる。すなわち昔、奈良の重代の楽家に広仲という人が生まれた。生来美麗、身のこなしは優雅典雅にして、貴(あて)やか。高音天下に比類なき美声にて、謡物、彼に敵う者はなし。また、舞姿殊に美しく、楽才まさに天才と申すべき程の者なれば、母儀の縁であろう、都の楽家に養われて子となる。さらに、幼くより好学にして、和漢の才あり。楽家の者にも似ず、学識豊かなれば、楽所に召し出され、将監となった。また、伶人なれども琴好みて、政任の弟子となる。広仲、師・政任の説とて『大楽論』なるものを書き、途中で卒した。故に未完だが、これを読むに、大楽とは解脱の楽という。大日如来と一つになる。宇宙と楽とが一つになる。これを大楽の楽という。密教にては、大日如来と一つになるを大楽と称し、これをもって伝法灌頂となる。琴に於いても、大楽を得ん者をもって初めて『広陵散』を伝えんと思う。『広陵散』伝業の儀を灌頂という。血脉にも加えられる」

 ここまで話して敏平は、灌頂についての話のついでに、曲の位についても話すことにした。

「時に、灌頂と申して、琴に於いては秘曲『広陵散』伝業を言うが、曲というものには位がある」

「最も位の高い曲は、琵琶は『啄木』、笛は『師子』、箏は『由加見調子』とか『千金調子』とか聞きますが、琴は『広陵散』でございますね」

「琵琶の灌頂というものはなかなか厄介だ。滅多に灌頂は行われない。それこそ琴の灌頂におさおさ劣らぬ厄介さだ」

「ということは、琴の灌頂も大変厄介だということでございますね」

「そうだ。そもそも琴曲は強ち秘すものではない。秘曲『広陵散』は最も重いが、これは秘されている。普通許されない。許された人は我が国にては、過去に十七人のみ。その『広陵散』に准じて重いのは『胡笳調』、『胡笳十八拍』、『胡笳明君五弄』、『胡笳明君別四弄』という胡笳の曲。それと『高山』『流水』。殊に『流水』の秘技は難解であり、最も技巧的だ。また、碣石調『幽蘭』は秘曲にはあらねど、終わりの辺りに秘手があり、これも重要だ。その秘手と同様に、『千金調』と『石上流泉』を呉楚派では重く扱っているが、南唐派ではさほどにもあらず」

「『千金調』は箏の秘曲に、『石上流泉』は琵琶の秘曲にもございますね。それ故、呉楚派では重んじているのですか?」

 夕星の問いに、思わず敏平は笑顔になる。

「そうだな」

 この娘はまこと、学者としては優れた資質があるようだ。

「話を続ける。『烏夜啼』と『水仙操』は軽く扱ってはならぬ。『蔡氏五弄』、『嵆康四弄』も決して軽い曲にはあらず、大事に扱うべきである。『楚商』はあまり弾くべきではない。秘曲にはあらぬが。他は位の程は同じと見ゆ。難易度に合わせて段階的に学び、これら重い曲に一日でも早く至れるよう、努力せよ」

「かしこまりました」

「私は加えて、遺音曲を復元して、私の著作の譜集に纏め入れた。これらは当然、呉楚派にも南唐派にもない。これらを弾くのは、我が北白川流のみ。これらも秘して大事にしておくが、何れおもとに伝授しよう」

 先秦の太古、春秋、戦国の世に産み出された琴曲は数多あったが、これらはほとんどが消えた。唐土でも既に逸した曲である。唐から宋に至る近年、漢人でさえこれらを弾く者はない。大唐に渡りし行実朝臣もこれを学ぶことはなく、唐人の何参もこれを操ることはなかった。唐の時代にはすでに消失していた曲だ。それを先年、伊豆に流されていた時、敏平は復曲して譜集に入れた。

 それらを伝業曲に入れたので、敏平は呉楚派の後継かもしれないが、特に北白川流と称して、管絃者の家として興たのである。

「ところで、『広陵散』は秘曲なのだが、これが秘曲たる理由を憚るべきことなれども、敢えて言っておく。これは反逆の曲なのだ。聶政が韓王を殺すという曲だ。調絃も、宮絃(第一絃)と商絃(第二絃)を同音にする。唐土では、宮を君、商を臣と考えるから、宮と商を同列には置かぬ。故に、宮絃と商絃が同音だというだけでも、反逆を意味しているのだ。唐土にては、そのことにとても拘る」

「宮と商のあり方にですか?音楽的に、そのように拘ることに効果があるものでしょうか?かえって、あまり音楽的には優れていない駄作を産むことになるのでは?」

「その通りだな。『声無哀楽論』なるものもあるくらいだ。かようなことに拘るのは根拠を欠く愚かなことかもしれぬ。しかし、それでも古来より言われてきたことなのだ。例えば、『安公子(あぐし)』という曲があるが、これは宮音に始まり商音に終わる。隋の帝が行幸しようとしていた頃、この曲が流行った。楽人の王令言という者がこれを聴いて、帝は行幸中、臣下に弑せられるだろうと予言した。果たしてその通りとなった。また、唐にても、西凉州より曲を献じられた時。この曲は宮音弱く、商音暴であったが、間もなく安禄山の大乱が起こったという。壱越調『西凉州』は『功成慶善楽』とも言うが、平調のものもあり、それは『宮商荊仙楽』のことだ。かように、宮が商に同じだったり弱かったり、宮に始まり商で終わる曲などは、儒家が嫌う。故に、唐土では『広陵散』を秘曲にしたのだろう」

 それが本朝にも伝わったのだ。本朝にても、唐土の扱いそのままに、『広陵散』を秘曲にした。

「色々話は尽きないが、いつかおもとに灌頂を授ける日が来るよう、強く願っている。今はまず、目前のことから片付けよう。『酒狂』を弾け」

 このようにして、敏平は手取り足取り夕星を教え、帰京する気配が全く見られない。先日、吉祥玄倫が都より飛んできて、今出川殿が男子を産んだことを伝えたが、めうれん尼の魔力のせいで帰れず、今日に至っている。

 もう都のことなどどうでもよいのか。

 めうれん尼の呪法を聞く度、何だかよくわからない気持ちになってくる。そして、気がつけば、今日までこの場に留まっていた。めうれん尼の所には、盲人を筆頭に、しばしば衆僧が集まっている。『理趣経』や『四智梵語』の声明の天から降ってくる鳥の囀りは、邪悪な呪法ででもあるかのように、聞く度、敏平の身は呪縛されてしまうのだった。
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