聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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1-1 早瀬家の日常

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 11月13日、水曜日。19時。

 カレンダーの72候の欄には、地始凍・ちはじめてこおると書かれている。冬の冷気のなかで、大地が凍り始める頃だという。気温が低くなったから、冷凍庫に入れてあるアイスクリームに手が伸びない。霜がつく前に食べておきたい。
 
 俺の名前は久田悠人。先月末、20歳の誕生日を迎えた。大学生であり、ミュージシャンでもある。ヴィジブルレイという、ロックバンドのギタリストだ。パートナーは早瀬裕理という。31歳だ。

 お互いの薬指には、結婚指輪をしてある。去年の11月30日に交換したため、もうすぐで一周年だ。何かやるとか、行くとかしたいが、恥ずかしいから口にしていない。外食デートぐらいしか思いつかないし、これならごく自然に持ちかけられる。

 愛情表現は苦手な方だと思う。本当はしたいのに、”漢・ユート” としては躊躇している。この反対をいくのが、早瀬だ。包容力に吸い寄せられた結果、捕獲された。愛を囁くことを恥ずかしがらないし、どこでもイチャついてくる。甘くて優しいだけではなく、ドSでもある。

 その早瀬は何をしているかというと、晩ご飯の支度をしている。作っているのはオムレツで、これから焼き上げる。俺はソファーに座っている。さっき、襲われ掛けたからだ。

「ゆうとくーん。おいで」
「やだーー」
「オムレツを焼くんだぞ?」
「知ってる。出来上がったら行くよー」

 これぞ生活の知恵といえよう。アツアツのオムレツを前に、襲っては来ない。ソファーの向こうのキッチンでは、カタカタと音がしている。ボールでタマゴを溶いているはずだ。

 テレビでは歌番組が流れている。ゲストの中には、見慣れた人物がいた。同じバンドのリーダーであり、ギタリストの佐久弥だ。今夜はソロ活動で出ている。

「ふむふむ。ナチュラルだ。ああ、いい匂いだなー」

 背後からは、バターが溶ける匂いがして来た。本当はそばに行って眺めたい。アツアツのフライパンの上で、焦がし溶ける匂いが好きだからだ。しかし、今はやめておこう。

「ゆうとくーん。バターがジュージューだぞ?」
「うん。後で行く」
「これからソースを温めるぞ。デミグラス・キノコだ」
「そうなんだー?ストックは便利だねー」
「キミがお手伝いしてくれたソースだ。美味しくなっているぞ。味見をしてごらん」
「やだよー。うひぇ?あああ……」

 テレビの下の方に、黒い物体が動いて見えた。11月に入り、季節的には出てこないヤツだ。ここは高層階だし、うちは綺麗好きだ。しかしながら、100%あり得ないとはいえない。

 --とうとう出てきたのか?

 それは ”キッチンの黒いヤツ” という。虫全般が大の苦手で、特にコイツが苦手だ。逃げ出したいのに、立ち上ることが出来ない。すぐそばだからだ。

「あああ……」
「悠人君、どうしたんだ?」
「あの……キッチンの……ひいいいっ」
「黒いヤツか?」
「言わないでーーっ」
 
 物音がした気がした。ソファーの背を飛び越してキッチンへ走った。

 背に腹は代えられぬ。笑っている早瀬の体にすがりついた。しかし、すぐに離れされた。だからもう一度すがりつくと、また離されて、同じことの繰り返しだ。

「裕理さん?やめてよ……」
「ソースを温めたいからだ」
「手伝うよ。何をする?ソースを混ぜるよ」
「仕方のない子だな。少し様子をみよう。食べている時に出て来たら嫌だろう?こっちに居よう」
「うん。ここなら大丈夫だね。ふむふむ……」
「はいはい……」

 どうしよう?声が震えてきた。早瀬も同じように声を震わせている。俺とは違う意味だ。
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