聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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3-2(早瀬視点)

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 午前8時。
 
 黒崎製菓、本社ビル前でタクシーを降りた。エントランスからロビーに入ると、閑散としていた。この時間に出社する社員は部長連中か、出張に出る者ぐらいだ。静かなオフィスでは、メールチェックや書類を読む時間に充てている。すると、向こうから元気な挨拶が聞こえてきた。営業企画部の平田だ。

「早瀬代理、おはようございます!」
「平田、おはよう。出張だったな。莉奈には話してあるか?」
「はい!もちろんです。お土産のリクエストも聞きました。電話もかけますので」
「すまない。相手をしてやってくれ。気をつけて」
「はい!行ってきます!」

 さっと足早にエントランスを出て行った。順調に莉奈との交際が進んでいるようだ。その莉奈の体調は回復しつつある。勤務先は病気休職中だ。医者の意見を聞きつつ、ゆっくりさせている。

(あくまでも流れていないのか。しつこい叔父だ……)

 莉奈には縁談があった。それをまとめようとしたのは、母だけではなかった。祖父と叔父の両方が関わっている。だからしつこい。まだ諦めていない様子だ。早瀬家の長所でもあり、大きな短所でもある。自分自身にも受け継がれている。

 エレベーターの前に立ったところで着信が鳴った。祖父からの電話だ。話の内容は予想済みだ。莉奈の縁談に協力しろ。俺にも縁談があるという話だろう。

「……おはようございます」
「……おはよう。仕事中にすまない。君の縁談のことだ」
「……お断りします。すでに結婚しています」
「……形式的なものだ。先方にはまだ話していない」

 めずらしいことだ。今までは整えてから話があった。俺に先に伝えるならば、今回は深い理由がありそうだ。決していいものではない。

「……興味がありません」
「……聞いてもらう。黒崎家には娘がいる。知っているだろう?圭一氏の妹だ」
「……存じております。それで?」
「……彼女との縁談を申し込みたい。わたしたちは望んでいる。以上だ」
「……僕に話しても仕方のないことです。何も出来ません」
「……仲介者をあたっている。協力するように」
「……出来ません。お父さんにも出来ません」

 しつこい性格だ。まわり道はないが、YESというまで繰り返される。

「……孝則君には話が通らない。縁談をまとめさえすれば、黒崎製菓の社長の椅子が用意されるはずだ。圭一氏は49歳で引退するそうだな?」
「……そうさせません。以上です。業務があるので」

 さっさと通話を終えた。掛けてくるな。そう告げたところで、聞くような祖父ではない。母と同じ性質をしている。祖母もそうだったのか?ろくに話していないから、分からないことが多い。

 実母にも縁談があったはずだ。だから家を出たのか?友人の話では、早瀬家を嫌ってのことだと聞いた。そのあたりの事情を、今日、父から聞くことができる。

(……圭一さんの反応はどうだろう?)

 20階でエレベーターを降り、営業企画部のオフィスへと入った。出入り口付近にはカフェスペースがあり、社員たちが過ごしていた。そのうちの一人が部屋から出てきた。入社3年目の南波なんばだ。

「おはようございます。常務がお探しでした」
「どんな様子だった?」
「暇そうでした」
「はははは。ありがとう。30分後に君に声をかける」

 手を振って奥のフロアへ向かった。南波は本気で口にしていた。あの黒崎に対して遠慮がない。彼自身は慕っており、アイデアを持ち込んでは添削を受けての、繰り返しをしている。その結果、採用されたことがあった。同期や先輩社員からは、妬みを受けている。家に帰れば、泣いているのかもしれない。

(平田と枝川がいるから心強い……)

 南波と平田とは同期入社だ。良いも悪いもクリーンヒットのコンビだ。お守りをしている枝川とは、名物になっている。数年後には大きくなっているだろう。

(呼び捨てに出来ないかも知れないな……)

 今は上司として威張っているが、いつ立場が逆転するやら。これが近年の黒崎製菓の傾向だ。業績のためだが、その分、軋轢も生んでいる。年の順の方が当たり障りがない。それでも若手を役職者に据えることを決行した。
 
 役員デスクが見えてきた。黒崎の姿がなかった。向こうから声を掛けてくるはずだ。探すことはしない。甘やかすと調子に乗る。

 ロッカーにコートを掛けた後、壁にある全身鏡でチェックをした。営業企画部の社員には、一日2回、鏡の前に立つことを命じている。

 鏡の中の自分は何も変わらない。両目が淡い緑色になっただけだ。社内では珍しくない。親譲りの金髪と茶髪が並んでいる。瞳の色も様々だ。何をこだわっていたのと恥ずかしくなった。
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