聖なる雫の音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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16-12(早瀬視点)

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 午前5時。

 キッチンに立っている。たった一人の空間が寂しく感じる。朝食の支度の匂いが漂っているのに。悠人は寝付けなかったようで、やっとさっき眠った。この時間だが、もうすぐ黒崎から電話が入るから都合がいい。あの子には聞かせたくない話題が出そうだ。

 島川の件だと言っていた。あの人は悠人のことを騙した。その後ろめたさを抱えている。島川との友人関係を続けることは本心だ。ただし全てを受け入れていない。悠人にはその点を話していない。あの子の希望を聞きながら、ベストな方法を取った。

(でも、嫌われたくない。俺は手放せない……)

 悠人が手放したものがある。親への恨みと怒り。愛されたいことを満月に預けた。この月は満ちているから、欠けていくうちに消えて行くよと言って、鼻息を荒くしていた。その様子が可愛らしかった。

 すでに何かが消えた気がする。思う存分に怖い人になれとまで言われたからだ。そして、怖い姿も好きになったよと付け足されたから、悪い気がしない。毒牙を抜かれたのだろうか。

 プルルルル……。

 ちょうど朝食が出来上がったところで、黒崎から電話が入った。片づけながら電話に出た。夏樹と島川との3人で、朝まで話し合ったそうだ。一睡もしておらず、さすがに眠いと苦笑していた。この分ならいい方向へ進んだらしい。

「もしもし。おはよう。こっちは円満だよ。悠人とは喧嘩していない」
「よかった。こっちも話が落ち着いた。洗いざらい話させた。お前のお母さんの件も出てきた」

 島川から語られた内容は知っている話の通りだ。偽りがない。黒崎が知らない話を伝えておこう。島川が俺に寄せている想いの種類を。嫉妬と恋愛感情だ。口説かれた内容も。二つの感情が同時に存在するのなら、二つの想いもコレクターしているのか?と質問した。

「そのとおりだ。収集癖は直っていないようだ」
「そうか……」
「それを手放そうとしている。悠人君へは謝罪させる。お前は……、要らないのか。そうだろうな」
「仕事上の距離を保ってくれたらいい。悠人への連絡は止めてもらった。プラセルへの計画は進行のままだろう?島川が引かない限りは」
「そのままだ。本人からは執着が除かれていない。治まるまで待つ。……なんだって?淡いグリーンの瞳が魅力的だ。そう言われたのか?……俺も同じ意見だ。あとはオフィスで。……どうした?」

 ここで自分の意思を伝えることにした。取締役会への打診の返事だ。その地位があれば、接触のされ方に違いがあったはずだ。警戒してのことだ。

 これから先も、同じような人間が現れないとは限らない。だから話を受けることにした。するとその理由ならやめておけと言われた。

 復讐心や盾にするなら、島川と同じことになる。かつて黒崎もそうであったように。何のために務めているのか振り返った日には、漠然とした虚しさに襲われる。そう黒崎が言った。先日の話は発破を掛けられたのか。
 
「お前は優秀な人材をコキ使う術に長けている。特技を生かす目的なら賛成だ」
「出世欲に火がついた。ガス抜きはさせてもらった。深川副社長へ返事をする」
「黒崎製菓としては歓迎する。各所から罠を仕掛けられるだろう。乗り越えろ」
「あとで。オフィスで……」

 通話を終えた後、ふと気づいた。親の期待に応えたくない思いが、出世欲に影響していた。小さい頃から強いられてきた上昇志向を否定した。今回のことで手放せたのではないか?

 悠人のことを守る手立ては何種類あってもいい。それを役立てる意義を持った。少なくとも今の段階では。いつか他にも満月に預けることが出来るのか。するとその時、背後から呼びかけられた。眠たそうな顔をした悠人がいた。

「裕理さん……」
「おはよう。今朝はスクランブルエッグを作る。柔らかい方がいいだろう?」
「優しい裕理さんなの?やだよーー。高圧的にしてよ」
「こっちに来い」
「偉そうだよー」
「どっちだ?早くしないと冷める。顔を洗って来い」
「へへへ……。その意気だよー」

 やっぱりあの子には負ける。悠人のスリッパ音が戻って来るまで、卵を割りほぐすのを待った。フライパンにバターを落として焦がすときは、鼻をぴくぴくさせて匂いを嗅いでいる悠人がいてほしい。今度は一人でキッチンに立っている時間が楽しいものに変わった。
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