夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 午前9時。

 これから大学へ出発する。教科書類が入った大きなバッグと、黒崎のスーツが入ったクリーニングバックを持った。普段はクリーニングは家へ引き取りに来てもらっているが、急いで出したいから持っていく。昨日の飲み会で、スーツにお酒がかかってしまった。

 門を出る前に黒崎にラインを送った。これから大学へ行くことを。すると、佳代子さんが向かいからやって来た。リクの散歩へ行くのだろう。

「おはようございます」
「おはよう。今から大学?」
「はい。クリーニングも出します」
「昨日の飲み会のやつね。主人が帰りに一緒になったって聞いたわ。色の付いたものじゃなかったのよね?」
「はい。それだけは良かったです。これから散歩ですか?」
「ええ。明日は動物病院へ予防接種に連れて行くの」
「アンも行かないとなあ。黒崎さんが甘やかすから……」
「何もせずに連れて帰ったことがあったわねえ」
「そうなんです。アンが嫌がったからって……」

 黒崎はアンが嫌がる素振りを見せると、すぐに連れて帰ってしまう。そうか嫌なのか、そうか怖いのかと。何度も病院に入ろうとしては顔を背けるから、無理強いはさせたくないのだそうだ。

 ここで佳代子さんたちと別れる。反対方向にドッグランがあり、今日はそこで走らせるそうだ。すると、遠くの方でゴロゴロと音がした。駅の方向に黒い雲がかかっている。

「雨が降りそうね。散歩をやめておくわ。夏樹君、傘を持って行かないと」
「そうですね。取ってきます」
「雷だわ。苦手でしょう。急いで駅へ行った方がいいわよ」
「はい……。うっうっ」

 急いで傘を取りに戻った。だんだん近づいてくるから空を見るのが怖い。駅まで雨に降られなくて済みそうだ。

「走りたいなあ。ちょっとぐらいなら?やめとこう……」

 ここで転んで怪我をするわけにはいかない。誕生日祝いに、1泊2日でテーマパークへ遊びに行くからだ。夜はホテルのラウンジで過ごすという、念願の大人っぽいデートをする。

 黒崎からは甘やかされている。以前にも増してだ。予約待ちのマカロンや限定スイーツを週二回のペースで買ってきて、通販番組の調理グッズも注文している。なるべく家にいてくれと、そういうメッセージが込められている。しかし、他にも理由がありそうだ。怪しさ満載なわけだ。ここで手綱を引かないと、結婚したことまで後悔しそうだ。

「どういう手で来るかな?計画的なようで単純だからなあ。……噂をすれば影だ」

 黒崎から電話がかかってきた。後で折り返しの電話をかける。ポツポツと雨が降ってきて傘を使おうとすると、強い雨粒が降ってきた。

「濡れるー、そこへ行こうっと……」

 シャッターが閉まっている店を見つけた。屋根が広いから良かった。急いで歩いて行った。まだ店が開いていない。雨足が弱まらないから外で待ち、濡れるのを覚悟で出るしかないだろう。

「どしゃ降りだなあ。止みそうもないな。うーん。間に合わなくなる……」

 雨足が大きくて、屋根や地面に叩きつけるように降っている。だんだんと足元にも広がり、ズボンの裾が濡れてきた。上着を持ってきていないのが失敗だ。冷え性なのに。

「寒いなあ。え、雷?近づいてる!うわ、怖いよ~~っ」

 ピカピカ光り始めて、遠かった雷鳴が近づいて来ている。地鳴りがしているから、けっこう大きそうだ。

 ドーーン!

 強く光ったと思えば、わずかに遅れて雷鳴と地鳴りが響いてきた。泣きそうになったところで状況は変わらない。それでも怖いものは怖い。

「うわあーー、ぎゃう、アンーー、黒崎さんっ。うっうっ」

 バッグの中から着信音が鳴っている。目を閉じたままでバッグの中に手を入れた。すぐに取れて画面をタップした後、気を付けて耳に当てた。しかし、その直後に強く空が光って驚き、スマホを地面に落としてしまった。しかも、雨に打たれる場所まで落ちてしまった。慌てて拾い上げようとすると、またピカッと空が光って、身をすくませた。

「わああ……。取れた……」

 なんとかスマホを取れて後ずさりをした。パーカーに擦り付けて水滴を拭き取り、慌てて電話に出た。しかし、すでに切れていた。そして、またすぐに掛かってきた。

「ああ、よかった。かかってきた。もしもし?」
「……どこにいる?」
「駅のそばのテラコッタカフェ。屋根の下で……ああー、いててっ」
「……夏樹?」
「ごめん。あとでかけ直す」
「……切るな」

 通話を切らずに地面に置いて、座り直した。地面のグレーチングの上で滑ってしまった。尻もちをついたから腰が痛い。
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