夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 パタン。

 家の中に入り、さっそくキッチンに立った。ミニトマトを洗って半分に切って、サラダに添えた。お手伝いをする黒崎へ声をかけよう。サラダも作れるようになりそうだ。

「黒崎さーん。あとで珈琲を注いでね」
「ああ。アン、膝から降りてくれ」
「黒崎さーん。食パンも焼けたよ」
「バターはどこだ?」
「いちばん下だよ。容器を変えたんだ。白いやつ」
「……これか?」
「それは透明だよ~。お漬物だからグリーンだし」
「……これだな」

 黒崎が四角い容器を取り出して、バターナイフを差し込んだ。そして、ゴボッと大量にバターを取った結果、バランスを崩して床に落っこちた。大したことはない。頑張ったことを褒めよう。褒めて伸びるタイプだ。

「勿体ないけど仕方ないよ~。拭けばいいからね。再チャレンジをお願いします」
「……ああ。塗ったぞ」
「おおー、ちゃんと出来たじゃん。運んでね~」

 機嫌を良くしたのだろう、さらにサラダも運んでいる。もちろん珈琲も注いでいる。心の中でガッツポーズをしつつ、俺もダイニングへ行った。

 テーブルの上から美味しいそうな匂いが広がった。トースト、ハムエッグ、具沢山の野菜スープ、鶏むね肉のグリル、サラダが並んでいる。

「大学は3時限目で終わりだよ。ボーカルレッスンは休み。来週に振り替えだよ」
「そうか。ママのマンションへ様子を見に行こうと思う。明日はどうだ?」
「OKだよ。佳代子さんから貰ったやつ、おすそ分けしようよ。ママが好きだし」
「朝陽が大学寮に入った。寂しくなっただろう」
「そうだね。ずっと一緒に暮らしていたもんね」

 朝陽が大学に合格して学生寮に入った。ママと二葉は新居のマンションで暮らしている。ママはモデルスクールのオープンに向けて忙しくしている。二葉は地元の大学を中退し、黒崎の母校であるO大を目指して受験勉強中だ。

(俺も環境が変わったな。メンバーに選ばれるといいな……)

 バレンタインイベントの翌日、IKUの本社へ出向いた。佐久弥がスタジオで待っていて、即席バンドを組んだ。そして、高宮さん達の前で演奏を披露し、それがオーディションの代わりになった。ボーカルとして決まるかどうかは選考中だ。ディアドロップの解散の件で慌ただしくなり、新しいバンドの準備が進んでいないと聞いた。

 そして、他の仕事が一件決まった。ベテルギウスの楽曲カバーアルバムへボーカルとして参加する。悠人はギタリストとしての参加だ。さらに新しい仕事が入った。来月から黒崎製菓でメニュー開発に参加する。大学の方は2年生に上がり、どの学部へ進むのかを、夏までに決める必要がある。

 黒崎の方には変化がなく、早瀬さんとのコンビで仲良くやっている。お義父さんも元気だ。もうすぐで俺は20歳の誕生日を迎える。黒崎と出会った時は、18歳だったのに。

「二葉ちゃん、O大を受験するんだよね?如月も藤沢もいるから良かった。友達になったし」
「合格圏内に届きそうだ。今からやれば間に合うだろう。ケツを叩いてやる」
「それは痴漢だよ。二葉ちゃんにはO大がいいの?」
「……黒崎製菓グループの社員の出身大学で多いからだ。繋がりがあったほうがいい。いまだに、女だからと下に見る相手いる。ある程度は周りを固めた方が安全だ。会食の相手に連れ込まれそうになることもあるぞ」
「え、マジで?なんで?」
「……色んな奴がいる」
「そっか。女性は力が弱いし……」
「男も同じだ。あまり表に出ていないだけだ。相手は男女関係ない」

 それは理解できる。高校時代のことを思い出すと背中に汗が流れる。相手は30代ぐらいの男ばかりで、自分よりも力が強くて大変だった。もちろん蹴り飛ばして逃げてきた。

「そういう目に遭ったことはある?秘書時代にも会食に同行したよね?」
「そういう目に遭った。連れ込まれはしないが、誘われたことなら何度もある」
「わああ……」
「男には興味ないと言って、うまくかわしてきた」
「俺には興味があっただろー?」

 何気なく口にしたことなのに、きまり悪そうに目を逸らされた。こんな反応になるとは思っておらず、こっちまで照れくさくなった。

「何か言えよっ。照れくさいだろー?」
「……何のことだ?俺の昔話か?」
「その……、俺に……」
「気の迷いだ」
「はあああ?」
「……うるさい」

 眉間に皺まで寄せられた。いいムードが台無しだ。もっと言い方があるだろう?こっちこそ負けてやらない。

「連れ込もうとするのは男女関係ないってやつだけどさ……。俺にも経験があるよ」
「覚えている。何人もいた」
「あんたが蹴散らしてくれたもんね。ただねえ、あんたも同じなんだよ~」
「俺は好きだと言った。大事にしていた」
「ふふん。その言葉が引き出したかったんだよ~」
「おい……」
「うひゃひゃひゃ~。やばいっ」

 テーブルの下で足を蹴られそうになったから引っ込めた。さらに下唇を引っ張られそうになったから、後ずさりをした。そろそろやめないと食べる時間がなくなる。ぴたっとやめて食べ始めた。
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