夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 午前9時。

 キッチンの片づけをしながら、筑前煮などの作り置きおかずを作った。レシピ本を買ってきて正解だった。辛い物と甘い味のバリエーションもある。小松菜のナムル、鶏ときのこのピリ辛煮、茄子の揚げものが美味しそうだ。

「”3日間が楽になる”。この本の著者は……。女の人かな?エプロンしか出ていないなあ。エプロンは男性っぽいなあ」

 他にも本が出ていたから買いに行きたい。お弁当のおかずシリーズだった。これから忙しくなるから、今のうちに段取り上手になっておきたい。

 高校時代は家族のお弁当を作っていた。母が用意した料理を詰めるだけだった。そこから興味が広がり、伊吹が作っていた洋食系の料理にチャレンジし始めた。それには感謝している。こうして食事の支度をするようになり、役に立っている。

「よし。おっけー。あとは……」

 使い終わった布きんを洗った。黒崎は何をしているかというと、コーヒーメーカーを操作している。珈琲豆を溢すことがなく入れられるようになり、上達した。すると、香ばしい匂いがキッチンに広がり、黒崎がマグカップに珈琲を注ぎ入れる音がした。静かな休日の朝らしい光景だ。

 コポコポ……。

「珈琲ができたぞ」
「ありがとう~。そっちに行くよ」

 小さなマフィンと珈琲をリビングに運んだ。とくに面白いテレビ番組をやっていない。ニュース専門チャンネルに変えても目を引かず、音楽専門チャンネルに変えると、ベテルギウスのライブが流れていた。すると、ラストに差し掛かり、佐久弥のソロ活動分のミュージックビデオが流れ始めた。キャンディーを持った男の子が走っている。佐久弥の思い出だろうか?流れているのはハードなテンポの楽曲だ。

「わあ~、かっこいいね。今日が楽しみだよ」
「前向きじゃないか。昨日までネガティブだっただろう」
「それはそうだよ……」

 プロジェクトの打ち合わせでは、大勢の人とテーブルを囲むことになる。ジタバタしても仕方がないと、やっと気持ちを切り替えることができた。悠人の意気込みにも影響された。

 新作マフィンの包み紙を取ろうとすると、伊吹から電話が入った。励ましてくれるのだろう。その期待をして、電話に出た。 

 ボオオオーー。ザザザーー。

 波の音が聞こえてきた。海に来ているのだろうか?船の汽笛のような音も聞こえている。すると、すぐにクリアな音声に変わった。

「もしもし?海にいるの?」
「……ああ。R&W社の高野君と一緒に釣りに来ている」
「取引先だもんね。無理に接待をさせているんだろ?」
「友人関係だぞ」
「何か釣れたー?」
「……足と手をつった」
「ええ?事件が起きたのかよ?」
「……こむら返りというものだ」
「なんだよーー。驚くじゃん」
「言ってみただけだ。今日は釣れそうもないから、早めに切り上げる。美味しいスルメを売っているぞ。好きだろう?」
「うん。買ってきてくれるの?」
「ああ。今日だったか?打ち合わせは……」
「そうだよ。やっと前向きになれたよ」
「“アイロンエンジェル”のボーカルだろう。熱い愛を押し付ける。頑張れ!」
「バカヤロー。もう切るからね。夜には帰っているよ。はいはい。じゃあね~」

 電話を切った後、呆れと嬉しさが同時に来た。あの暑苦しさに心を温められて、ほっこりした気分でマフィンを頬張った。黒崎も笑っていた。
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