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(あれが最後だった……)
さらに思い出したことがある。両親が喧嘩をしていた次の日の夜のことだ。 飼い犬のアヤノと遊んでいたときのことだ。 母から声を掛けられた。優しい顔をしていた。笑顔もあった。滅多に見たことがないものだったから驚いた。俺を産むのを迷っていたと知った後で腹が立っていたが、優しく名前を呼ばれたことが嬉しかった。
「ママ、どうしたの?」
「お出かけしない?」
「もう夜だよ?」
「そうね……。それに、発作が起きるといけないものね」
俺は当時まだ喘息があり、出かけることが少なかった。母が泣き始めたから、涙を拭いてあげたかった。しかし、自分の指先が動かなかくて、拭いてあげられなかった。見えない壁が存在しているようだったからだ。お互いに近づきたくても、そう出来ないでいた。母を守ることが出来ない。これ以上、重荷になりたくなかった。
「寝るよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
それが最後だった。母が出て行った後、たくさん泣いた。父から可愛がられていた俺は、黒崎家の親族からも可愛がられていた。しかし、堪えられないことが起きた。親戚の集まりの日に、母のことを悪く言う者がいたからだ。
その場で、その親戚達にクッションを投げつけた。いい子でいるのを止めた瞬間だった。羽交い絞めにされたが、それを振り切って、相手の胸倉を掴んだ。
「圭一!やめなさい」
「うるさい!その口を閉じろ!何が分かるんだよ!ママは……っ」
「そのママは、運転手の倉口と出て行ったんだぞ」
「え……」
倉口は父と母と俺の送迎を担当している人だ。信頼していた人に裏切られたことを知った。全ては父が原因だと思っていたが、父を憎むことが出来なかった。拓海兄さんから聞かされた話があるからだ。
「お父さんは不器用なんだよ。好きとか、可愛いとか。よく頑張ったなとか。ストレートに言えばいいのに出来ない人だ」
「すごく嫌な言い方をするし、強引だよ。どうしてお父さんのことが、みんな好きなんだよ?」
「圭一だって、好きだろう?」
「お父さんだから……」
以前、倉口にそのことを話すと笑ってくれていた。僕も旦那様のことが好きですよと言っていた。ああして笑いながら、俺たちを裏切っていた。最悪な人たと知った。母のこともだ。
今なら多少は理解が出来る。母は黒崎家の中で、心から頼れる者がいなかったのかも知れないということを。全ては受け入れられないが、俺自身が成長したのだろうか。
さらに思い出したことがある。それは高校3年生になったばかりの、4月20日のことだった。父から俺が住んでいる祖父の家に電話がかかって来た。拓海兄さんが車の玉突き事故の犠牲になり、即死だと聞かされた。最後に会話したのは、昨夜の電話だった。オペラ座の怪人の舞台を観に行く約束をしていた。
翌日、拓海兄さんの遺体に対面した。せめて最後は安らかな顔であればいい。安らか、悲しい、苦しい。何も表情が無かった。抱きしめることさえも出来なかった。
4月25日。拓海兄さんの葬儀の後、火葬場から出て来た。父が位牌を持ち、俺は拓海兄さんの遺骨を抱いて歩いた。その時。母の顔が思い浮かんだ。恨んでいるのに、会いたくなった。 いくら泣いても、拓海兄さんは帰ってこない。ママは生きているから会える。そう思っていた。
(兄さん。今もそばにいてくれるだろうか……)
あれから何年経っただろうか。夏樹と再会し、母と再会する勇気をもらえた。そして、黒崎家に戻る決断もできた。さっき会った母は、記憶の中の母とは正反対の雰囲気をしていた。優しそうな顔をしていた。あの当時は手を差し伸べることが出来なかったが、今日は戸惑いながらも出来た。今なら守れる自信がある。それに、夏樹から優しさを教えてもらい、今は幸せだ。それなのに、なぜ涙が流れるのだろう。
「夏樹……?」
夏樹が戻って来ていない。広く見回しても、姿がないことに気がついた。一人で店に行かせた後、長く時間が経っているはずだ。急に不安に襲われた、その時だった。
「黒崎さーーん……」
「夏樹?」
真後ろから声がしたから振り返ると、大きなクマの顔が至近距離にあった。それはヌイグルミだった。夏樹の仕業だ。まるでクマから話しかけられたように感じて笑い声が出た。
さらに思い出したことがある。両親が喧嘩をしていた次の日の夜のことだ。 飼い犬のアヤノと遊んでいたときのことだ。 母から声を掛けられた。優しい顔をしていた。笑顔もあった。滅多に見たことがないものだったから驚いた。俺を産むのを迷っていたと知った後で腹が立っていたが、優しく名前を呼ばれたことが嬉しかった。
「ママ、どうしたの?」
「お出かけしない?」
「もう夜だよ?」
「そうね……。それに、発作が起きるといけないものね」
俺は当時まだ喘息があり、出かけることが少なかった。母が泣き始めたから、涙を拭いてあげたかった。しかし、自分の指先が動かなかくて、拭いてあげられなかった。見えない壁が存在しているようだったからだ。お互いに近づきたくても、そう出来ないでいた。母を守ることが出来ない。これ以上、重荷になりたくなかった。
「寝るよ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
それが最後だった。母が出て行った後、たくさん泣いた。父から可愛がられていた俺は、黒崎家の親族からも可愛がられていた。しかし、堪えられないことが起きた。親戚の集まりの日に、母のことを悪く言う者がいたからだ。
その場で、その親戚達にクッションを投げつけた。いい子でいるのを止めた瞬間だった。羽交い絞めにされたが、それを振り切って、相手の胸倉を掴んだ。
「圭一!やめなさい」
「うるさい!その口を閉じろ!何が分かるんだよ!ママは……っ」
「そのママは、運転手の倉口と出て行ったんだぞ」
「え……」
倉口は父と母と俺の送迎を担当している人だ。信頼していた人に裏切られたことを知った。全ては父が原因だと思っていたが、父を憎むことが出来なかった。拓海兄さんから聞かされた話があるからだ。
「お父さんは不器用なんだよ。好きとか、可愛いとか。よく頑張ったなとか。ストレートに言えばいいのに出来ない人だ」
「すごく嫌な言い方をするし、強引だよ。どうしてお父さんのことが、みんな好きなんだよ?」
「圭一だって、好きだろう?」
「お父さんだから……」
以前、倉口にそのことを話すと笑ってくれていた。僕も旦那様のことが好きですよと言っていた。ああして笑いながら、俺たちを裏切っていた。最悪な人たと知った。母のこともだ。
今なら多少は理解が出来る。母は黒崎家の中で、心から頼れる者がいなかったのかも知れないということを。全ては受け入れられないが、俺自身が成長したのだろうか。
さらに思い出したことがある。それは高校3年生になったばかりの、4月20日のことだった。父から俺が住んでいる祖父の家に電話がかかって来た。拓海兄さんが車の玉突き事故の犠牲になり、即死だと聞かされた。最後に会話したのは、昨夜の電話だった。オペラ座の怪人の舞台を観に行く約束をしていた。
翌日、拓海兄さんの遺体に対面した。せめて最後は安らかな顔であればいい。安らか、悲しい、苦しい。何も表情が無かった。抱きしめることさえも出来なかった。
4月25日。拓海兄さんの葬儀の後、火葬場から出て来た。父が位牌を持ち、俺は拓海兄さんの遺骨を抱いて歩いた。その時。母の顔が思い浮かんだ。恨んでいるのに、会いたくなった。 いくら泣いても、拓海兄さんは帰ってこない。ママは生きているから会える。そう思っていた。
(兄さん。今もそばにいてくれるだろうか……)
あれから何年経っただろうか。夏樹と再会し、母と再会する勇気をもらえた。そして、黒崎家に戻る決断もできた。さっき会った母は、記憶の中の母とは正反対の雰囲気をしていた。優しそうな顔をしていた。あの当時は手を差し伸べることが出来なかったが、今日は戸惑いながらも出来た。今なら守れる自信がある。それに、夏樹から優しさを教えてもらい、今は幸せだ。それなのに、なぜ涙が流れるのだろう。
「夏樹……?」
夏樹が戻って来ていない。広く見回しても、姿がないことに気がついた。一人で店に行かせた後、長く時間が経っているはずだ。急に不安に襲われた、その時だった。
「黒崎さーーん……」
「夏樹?」
真後ろから声がしたから振り返ると、大きなクマの顔が至近距離にあった。それはヌイグルミだった。夏樹の仕業だ。まるでクマから話しかけられたように感じて笑い声が出た。
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