森林の星空少年~あの日のメエメエ

夏目奈緖

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 俺はいったん店を出て、カズさん達のもとに駆け付けた。そして、通路のざわめきが落ち着いた頃、保木さんがそっと頭を下げた。

「……本当に、ありがとうございました」

 さっきまでの営業スマイルではない。ちゃんとしているし、少し震えた声だ。よっぽど困っていたに違いない。訳をきかせてもらいたいと思ったが、守秘義務があるだろうし、今日知り合ったばかりの相手には言えないことがあるだろう。すると、島川社長は一拍置いた後で微笑んだ。

「礼を言われるほどのことではないよ。偶然だ。ちょうどこの店で休んでいたんだ」

 そう言い切った直後である。カズさんの肩の力が抜けるのが分かった。この瞬間を迎えてしまったのか。人格交代である。おっちょこちょいなカズさんが出てくるか、9歳の子供が出てくるのかのどちらかである。ストレスを感じた時や危機を迎えた時に島川社長になるから、今はリラックスした心持ちなのだろう。そうなると、カズさん的にはまずいだろう。いろいろと失言して幻滅されかねない。しかし、もう交代するのなら仕方がない。

「ああーーー。しかし、ああいう人は困るなあ」

 声のトーンが一気に二段階上がった。俺は天を仰いだ。戻った。カズさんである。完全に。保木さんは目をぱちぱちさせている。さっきまでの重厚感はどこへいっただろうかと思っているに違いない。カズさんの表情まで違うからだ。インテリジェンスぶりはどこにもなくて、保木さんのことを見つめている。それは、レジの時のいやらし気なまなざしそのものだった。

「え、あの……?」
「いやー、災難だったね。手首は大丈夫か?赤くなってないか?ほら見せて!」

 そう言って、カズさんが保木さんの手を掴んだ。そして、距離が近い。近すぎると言えよう。保木さんがわたわたと手を引っ込めた。

「大丈夫です。助けてくださってありがとうございました」
「……今日はもう仕事が終わったのか?」
「はい。午前だけでした。午後から休みなんです。それで、僕はこれから家に帰ろうと思っていて、そしたら、あの人が待っていて、ずっと付きまとわれていたんです」
「もう心配ない。僕がいる。良ければ、話を聞かせてくれ。ちょうどここは店の前だ」
「え、でも……」

 保木さんが俺のことを見た。連れがいるだろうという反応である。しかし、カズさんは放っておけないといい、保木さんの手を握った。強引だが、笑顔が無邪気すぎて断りづらい感じである。保木さんは戸惑いながらも、ちらっと水端さんを見た。彼も俺たちのそばに駆け付けている。水端さんは嫉妬オーラを出していたが、それは一瞬だけの話であり、今は消えた。その代わりに、慈愛のまなざしを保木さんに向けている。保木さんが丁寧にお礼を言ったし、本当に困った様子だったからだろう。そして、水端さんが言った。

「無理はしなくていいんですよ。お疲れでしょう?」

 声が甘い。優しい。包み込む系である。俺は心の中でツッコミを入れた。彼もまた保木さんのことが気に入ったという感じを受けた。だが、保木さんが遠慮がちに笑う。

「いえ、ご迷惑でしょうから……」
「僕たち、あなたの力になれると思うんです。さっきの男がまた来るかもしれません。僕は水端企画の副社長をしています。こちらのデパートとは取引がありますから、相談に乗れます。甘いもの、お好きですか?ここの店のモンブランは評判ですよ。季節限定のタルトもあります」
「え、そんな……。本当にお気遣いなく……」

 保木さんが丁寧に断った。しかし、水端さんの瞳がとろけるように優しくなった。

「遠慮なさらずに。あなたのような方に、何かできるなら光栄です」

 そう言って、保木さんの背中を押して、さっと店の中に連れて行ってしまった。店内に入ると、バリスタが保木さんを見て微笑み、手を振ってきた。店員が休憩を取ってはいけなかっただろうか。しかし、今は休みである。いや、気を遣うだろうか。俺がそんなことを考えているうちに水端さんが自分の隣に彼のことを座らせて、ニコニコと微笑んだ。 
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