上弦の月の天使~結ばれた約束の夜

夏目奈緖

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8-5(黒崎視点)

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 16時。

 20階のオフィスを出て、開発部のフロアへ上がった。騒がしい営業企画部とは対照的な空間だ。活気はあるのは同じだが、外回りの社員や来訪者がない分だけ静かだ。

 ふと、夏樹のことが頭によぎった。ここへ来る前に電話をかけたが、どうも様子が気になる。何か嫌なことがあったのかと思ったが、すんなり話すわけがない。帰宅後に間をおかずに聞く。

 透明な壁の向こうには、白衣姿の社員達が見える。ここの部署が担当するのは、商品の開発や、品質向上などの技術開発だけではない。栄養成分などの研究成果の発表や、論文の提出も行われている。夏樹が大学で学んでいることが生かされる。すると、ガラス壁の向こうで人影が動き、須賀部長が部屋から出てきた。

「常務、お疲れさま。ここへ来るのは珍しいな」
「須賀さん。お邪魔しています。社長室へ出向く途中で寄りました。……先日は見かけなかった機械ですね」
「アイスクリームの試作をやっている。あとは……、チョコレート成分の分析。新商品の分だ。……この部署は夏樹君に合うだろう。ああ、チョコレートは苦手だそうだな?ははは」

 須賀部長には、だいたいのことを話してある。信頼できる人物であり、夏樹からすれば、俺にとっての、深川さんのような存在になるはずだ。いずれは黒崎製菓の役員として迎えられ、長くグループ内に留まる人だ。

 黒崎家の息子を任されるのは、決していい立場ではない。煩わしいはずが、なんとか引き受けてもらえた。

 父が頼み込んだ結果だ。実の両親と同年代だという理由を持ち出した時には、呆れかえった。お坊ちゃまの就職じゃないかと。父にとっての拠り所だから、その頼み方になったことは分かっている。須賀部長もだ。

「社員たちは受け入れるでしょうか?非常勤の在宅勤務にさせましたが」
「まずはその方法がいい。海水に淡水魚がいきなり入り込むと、お互いに戸惑う。可愛がられている息子だと、公言してあるのが良かった。社内では浸透している」
「余計な足の引っ張り合いがなくて済みます。競争相手だと見られない」

 当初からのプランだ。競争から外してあれば危険がない。穏やかな社員として過ごせる。しかし、夏樹はその用意した綺麗な川を拒み、流れの早い、濁流もある場所へ行こうとしている。

 家族を守るのなら、対外的なものなら俺だけの力で可能だ。止められると抗って進もうとする性格を、上手くコントロールしたい。

 歌手であることが良かった。一点に集中しようとする本人の意識を、二つに分散させることができる。あの子のイメージは、弓を引き、的へ矢を射ようとする姿だ。それを命中させた後、新しい的が目の前に現れる。歩く道が多い分だけ、現れる的の数も増える。

 それを俺は減らしてやりたい。広い的を用意し、中心から少しばかり外れようが、気にならないものを用意する。夏樹が背を向けるなら、強引に体を向けてやる。それが逆効果になるなら、興味を惹くものを的のそばへ置き、体の方向を変えさせる。

 この開発部での仕事が、それに当るはずだ。地位を得ようとするなら、この場所から出て行くことになる。心地よさと、やりがいのある居場所をだ。歌手の仕事をやる時間も無くなる。本人はそれを理解している。

「……開発部でよかった。秘書室へ引っ張られるかと思っていたぞ。……そろそろ行くよ。もらった九条ネギが、美味かったと伝えてくれ」
「ありがとうございます。本人からも連絡させます」

 会話を終えて、28階の社長室へ向かった。

(二葉のことを公表するべきか?このままでは混乱するだけだ……)

 二葉のことでは、予想したよりも、悪い方向へ進もうとしている。”黒崎社長の元妻が、再婚相手との娘を利用している”と、あちらこちらで吹聴されている。愛人にさせる気だという噂には、頭痛がした。

 どう扱っていいものか。そう戸惑っている社員や役職者が多く、いい流れではない。二葉本人は公表を拒んでいる。

(さあ、明日のことだ。今日のことを口実に使うか?)

 夏樹には、明日の法事を欠席させる。争いごとが大きくなりそうだからだ。それに、大学で何かが起きたのには違いない。早瀬に頼んで連れ出してもらうか?それとも久弥さんにするか。音楽の仕事の関係でだ。

(いや、迷惑をかける。体調が悪いだろうと寝かせておく……)

 この件は父は了承済みだ。欠席させる口実を考えながら、エレベーターに乗り込んだ。
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