上弦の月の天使~結ばれた約束の夜

夏目奈緖

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 後部座席に座り、車内の揺れを感じながら外を眺めた。黒崎がするという話にドキドキしながらも、不安は起きていない。それが嫌なことなら、誕生日にセッティングするわけがないからだ。

 窓からの景色が見慣れた商店街に変わり、御園クリニックの近くにある調剤薬局の前を通り過ぎていった。そして、会場の湾沿いへ車線変更された後、黒崎の方から手を握られた。なだめるように優しく。

「はい。心の準備が整ったよ。久弥のことを教えてよ」
「お前が高校3年生の、七夕当日の出来事だ。覚えているか?大学生に車に連れ込まれそうになった時だ……。しっかりしたじゃないか。悪い話じゃないと飲み込んである」
「それはそうだよ。半分ぐらいは、ビクッとしたよ……」

 達也のことだろう。忘れるわけがない。黒崎との初めての朝を迎えた後、達也に会いに行った。執拗にラインや電話をして来るから、はっきりと断る為に。そして、車に押し込まれそうになり、なかなか逃げ出せなかった。

 必死で抑えていた暴力の衝動が限界に達しかけた時、離れた場所を歩いていた男性達が助けに来てくれた。あれがなかったら、どうなっていたのか分からない。

 当時は心の許容範囲を越して、体調を崩す結果を迎えた。もちろん黒崎から大事に介抱された。黒崎のマンションに引っ越した最初の頃は覚えていない。

「もしかして、あの時に助けに来てくれた人かな?」
「その通りだ」
「そうだったんだ……。どうりで覚えていないはずだよ。それどころじゃなかったし。ライブで来ていたのかな?」
「そうだ。準備の合間に散歩をしていた。付き添っていたスタッフが代わりに行く前に、体が動いたそうだ」
「……あの時、暴力の衝動を抑えられて感謝したんだ。誰かを助けるためじゃなくて、心の底から殴り合いをしたくなったんだ。あれからは、そういう事がないよ……」
「……この話が、久弥さんからの贈り物の一つだ。これから長くやっていけば、お前の過去の話を掘り出す人間が現れる。あの頃の記憶に縛られたくない。そうさせたくない。せっかく自由になったからだ。……あの後から、衝動すら起こしていない。俺の事を守るための分は別だぞ。晴海兄さんとの……」
「あれはお兄ちゃんが悪いからさ。唇を引っ張ってもいいよ?……っ。あのさ……っ」
「今のうちに泣いておけ」

 黒崎の指先が触れたのは、俺の目元だ。22歳の誕生日に、初泣きをしてしまった。これはうれし泣きだから、カウントしなくてもいいはずだ。

 ちらっと黒崎の方を見ると、数えておくと言い返された。こういうことは読み取るなと、耳たぶを引っ張ってやった。ここがタクシーの中で良かった。大泣きするのは、久弥の前がいい。黒崎からの思いやりということだ。

「礼を伝えろ。約4年越しだ」
「あのさ……。男の人から”これで自由になったぞ”って言われたんだ。久弥だよね?」
「ゆっくり思い出せ。一度にやろうとするな。……お前の事が心配で、久弥さんを疑ったことがある。蔵之介さんへ、人となりを聞いたことがあった。信用しているが、安心したい為にだった」
「それまで仕事で会っただけだろ。……そうだね。コンサート前に怪我をするかもしれないのに、助けに来てくれたんだもんね」

 コンサート前に限ったとではない。久弥と悠人の普段の振る舞いをしていると、腕から指先までを大事にしているのが分かる。本番前になると、ギターを弾かなくなる。ステージで力を出すためにだ。それだけ負担がかかる。それを押してでも助けに来てくれたということだ。

 一緒に居たスタッフ達の気持ちを考えると、胸が痛むどころか、背中に汗が流れた。公演がキャンセルになる可能性があるし、自分達の責任も問われるに決まっている。何の為に同行したのか?と。

 あの広場を歩けば、会場周辺に集まっているファンが見つけたかも知れない。それでも外に出たかったのは、心が切羽詰まった状況だからだろう。メンバー同士の争いがあり、精神的に疲弊していた頃だ。

「メンバーが一回目に捕まった後だもんね。もう一回頑張ろうって。なおさら、怪我をするわけにはいかないよ。黒崎さん……、ちゃんと謝ろうよ。蔵之介さんは久弥に話していないと思うけど。俺も謝るからさ。お礼と一緒に……」
「ずいぶん前に謝って許してもらえた。ああ、涙を拭いておけ」

 今日会った後、謝っておこう。悠人とセットになって、イジって来るに決まっている。それが、かえって良かったと思う。普段通りに振る舞えば、ほんの少しだけでも気持ちが楽になるだろうから。
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