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サーーーー。
発着のアナウンスが流れた。シートベルトから自由になるまでの時間まで、窓越しからの眺めを楽しんだ。これぐらいは構わないだろう?そう心の中で話しかけた相手は、あの地上に立っている。
ドイツ到着後に連絡を入れる。日本は翌日の真夜中になっているが、夏樹は待ち続けている。早くベッドで休ませたい。
あの子のことだ。寝ていたと言い張るだろう。眠そうな声を出すだろう。偽っていることに気づかれたことも理解している。これは自分達の恒例行事だ。優しい嘘を重ねては笑っている。
これから数時間後に会う人物も、優しい嘘を重ねた。早瀬から預かってきた楽譜のことを思い起こした。自分と別れようとする菜々子さんの気を引こうと、彼女が好きなミュージシャンの楽譜への直筆サインをフェリックス氏が取り寄せて、渡したということだった。
フェリックス氏に楽譜を返してくれ。これが早瀬からの依頼の一つだ。今だに心の中に母が住んでいるのなら、本人にかわって迷惑だと伝えること。今の自分は幸せにしていることも。
(だから裕理は優しい。全てを突き放さない。ほんの小さな隙間を埋められる。絵を描くか……)
夏樹に話した通りだ。寝るか絵を描くことしかやりたくない。ここでは、沢山の楽曲が楽しめるように用意されている。オペラなどの観劇物、現地の景色の映像、映画も豊富だ。
(イタリアオペラか。私のお父さん。しばらく弾いてやっていない……)
夏樹に初めて演奏を聴かせた時の楽曲だ。恋人との仲を認めてほしいと、父親に頼んでいる娘の話だ。橋の上から身投げをすると言って脅している光景を、コミカルに表現しているとされている。
(アナウンスか……)
アナウンスが流れた。待ちかねた自由な時間が訪れた。今の気分を早々に切り替えておく。夏樹のこと以外では、何事にも動じないと評判が立っているようだが、実は違う。わざわざ口にすることでもない。
広げたスケッチブックは、3年前から使っているものの一つだ。絵本の挿絵用、レストランの内装、料理、庭のナツツバキの絵。それぞれ分けてある。これはナツツバキの分だ。わずかなタッチの乱れは、その時の心の状態を表している。
ふと、窓越しの視界の中に、細長い雲を見つけた。
(あれは飛行機雲なのか?……違うのか。そうなのか。どちらでもいい。これも描いておこう。消えないでくれよ……)
白いキャンバスに鉛筆で線を走らせた。いくつか描いた後、これ以上の白黒の無味乾燥な表現をしたくないと思った。しかし、この線は消さない。やり直さない。これは迷いとして残しておく。
今度は色鉛筆を手に取った。白っぽい空が広がっている。青くも見える。数時間後の色味は、どうだろうか?その時に想いを馳せることなく、今の自分がいる時間を表現しよう。
(少々のデッサンの崩れは構わない。最初から彩る方を優先させる。……あれは何だ?)
思わず笑い声がもれた。ウサギに見える雲があったからだ。まさかの錯覚か?すぐに消えてしまった。そして、あの飛行機雲も視界に存在しない。しかし、自分の記憶に焼き付いている。
(おとぎの国のイメージで描こうか?この時間も楽しいものだな。これは何だ?夏樹のしわざか……)
最終ページにしおりが挟んであった。これに気づかない程に動揺していたのだろか。この悪戯の主の顔を思い浮かべた。夏樹がやっている、すべての小さなことが温かい。
メモ書きには、こう書いてあった。アントン君の絵を描いてほしい。メリーゴーランドに飾りたい物を買ってきてねと。
これは庭の噴水のことだ。ハロウィンイベントの前に、我が家の庭でもささやかな飾りつけをする約束をした。
(こういうものを買ってきてくれじゃないのか。俺の好きな物か。ありがとう……)
今回の旅では、二度と戻れない場所に置かれたものを預かった。それを託してきた人は、穏やかな日常の中で暮らしている。自分もその中の一人として、思い向くままに、彩り豊かな線を描いた。
発着のアナウンスが流れた。シートベルトから自由になるまでの時間まで、窓越しからの眺めを楽しんだ。これぐらいは構わないだろう?そう心の中で話しかけた相手は、あの地上に立っている。
ドイツ到着後に連絡を入れる。日本は翌日の真夜中になっているが、夏樹は待ち続けている。早くベッドで休ませたい。
あの子のことだ。寝ていたと言い張るだろう。眠そうな声を出すだろう。偽っていることに気づかれたことも理解している。これは自分達の恒例行事だ。優しい嘘を重ねては笑っている。
これから数時間後に会う人物も、優しい嘘を重ねた。早瀬から預かってきた楽譜のことを思い起こした。自分と別れようとする菜々子さんの気を引こうと、彼女が好きなミュージシャンの楽譜への直筆サインをフェリックス氏が取り寄せて、渡したということだった。
フェリックス氏に楽譜を返してくれ。これが早瀬からの依頼の一つだ。今だに心の中に母が住んでいるのなら、本人にかわって迷惑だと伝えること。今の自分は幸せにしていることも。
(だから裕理は優しい。全てを突き放さない。ほんの小さな隙間を埋められる。絵を描くか……)
夏樹に話した通りだ。寝るか絵を描くことしかやりたくない。ここでは、沢山の楽曲が楽しめるように用意されている。オペラなどの観劇物、現地の景色の映像、映画も豊富だ。
(イタリアオペラか。私のお父さん。しばらく弾いてやっていない……)
夏樹に初めて演奏を聴かせた時の楽曲だ。恋人との仲を認めてほしいと、父親に頼んでいる娘の話だ。橋の上から身投げをすると言って脅している光景を、コミカルに表現しているとされている。
(アナウンスか……)
アナウンスが流れた。待ちかねた自由な時間が訪れた。今の気分を早々に切り替えておく。夏樹のこと以外では、何事にも動じないと評判が立っているようだが、実は違う。わざわざ口にすることでもない。
広げたスケッチブックは、3年前から使っているものの一つだ。絵本の挿絵用、レストランの内装、料理、庭のナツツバキの絵。それぞれ分けてある。これはナツツバキの分だ。わずかなタッチの乱れは、その時の心の状態を表している。
ふと、窓越しの視界の中に、細長い雲を見つけた。
(あれは飛行機雲なのか?……違うのか。そうなのか。どちらでもいい。これも描いておこう。消えないでくれよ……)
白いキャンバスに鉛筆で線を走らせた。いくつか描いた後、これ以上の白黒の無味乾燥な表現をしたくないと思った。しかし、この線は消さない。やり直さない。これは迷いとして残しておく。
今度は色鉛筆を手に取った。白っぽい空が広がっている。青くも見える。数時間後の色味は、どうだろうか?その時に想いを馳せることなく、今の自分がいる時間を表現しよう。
(少々のデッサンの崩れは構わない。最初から彩る方を優先させる。……あれは何だ?)
思わず笑い声がもれた。ウサギに見える雲があったからだ。まさかの錯覚か?すぐに消えてしまった。そして、あの飛行機雲も視界に存在しない。しかし、自分の記憶に焼き付いている。
(おとぎの国のイメージで描こうか?この時間も楽しいものだな。これは何だ?夏樹のしわざか……)
最終ページにしおりが挟んであった。これに気づかない程に動揺していたのだろか。この悪戯の主の顔を思い浮かべた。夏樹がやっている、すべての小さなことが温かい。
メモ書きには、こう書いてあった。アントン君の絵を描いてほしい。メリーゴーランドに飾りたい物を買ってきてねと。
これは庭の噴水のことだ。ハロウィンイベントの前に、我が家の庭でもささやかな飾りつけをする約束をした。
(こういうものを買ってきてくれじゃないのか。俺の好きな物か。ありがとう……)
今回の旅では、二度と戻れない場所に置かれたものを預かった。それを託してきた人は、穏やかな日常の中で暮らしている。自分もその中の一人として、思い向くままに、彩り豊かな線を描いた。
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