【完結】29歳で「売れ残り」とお見合い勧告されましたが、裏では最強のアルファ部長が「運命だ」と逃がしてくれません

Marine

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鍵のないキーケース①

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「なんか場違いじゃないですか、俺……」
 そう言いつつ連れてこられたのは、看板も出ていない隠れ家のような料亭だった。
 確かに、今日の昼に会社のカフェで牛丼を食べながら「たまにはちょっといい肉を食べたいな~」なんて言った。
 言ったが、その場に桐生部長はいなかったはずだ。
 
 どこから情報が洩れているのか、偶然なのか。
 しかしその結果が「A5ランク特選黒毛和牛・隠れ房懐石」とは……。
 「少量ずつ、色々な部位を、最高の調理法でお出しします」と仲居さんが言っていた。
 これって牛丼の何倍の値段なんだろう。

「サーロインのしゃぶしゃぶ椀でございます」

 白木のテーブルの上に、黒い漆塗りの椀が置かれた。
 その中にはいかにもおいしそうな薄切りの牛肉が入っている。
 
「では、お出汁をお入れしますね」

 品のいい着物姿の女性が、土瓶から黄金色の出汁を注いだ。
 ふうわりとカツオのいい香りがひろがった。
 大きな霜降り肉があっという間に薄桃色に変わっていく。

「わあ……」

 思わず声が漏れてしまった。

「慌てるなよ、熱いぞ」

 桐生部長の声は、会社にいる時と驚くほどトーンが違った。
 ロッカールームでの、切羽詰まったような声とも違う。
 この椀のようにじんわりと優しくて、温かいものが染み出してくるような声だ。
 彼のまなざしに射抜かれながら、俺は舌の上でとろける肉を頬張った。

「……うまい。とろける……」
「気に入ったか。俺のも食べるか?」

 彼が自分の椀から俺の椀に大きな肉を入れてきた。
 向かいではなく、テーブルの角を挟んで隣に座っているから、何かと世話を焼かれてしまう。
 先付けの雲丹(ウニ)の和牛巻きは、あーんされそうになって慌てて断った。

 ここは個室とはいえ、いつ仲居さんが入ってくるか分からない。
 いつまでもホテル気分でいられると、困ってしまう。

 彼は猪口を傾けながら、俺が椀の牛肉を食べる姿を見ていた。
 まるで、俺の姿を肴に酒を飲んでいるようだった。

「うまいか?」
「うまいです……」

 味を何度も聞いてきて、美味しいと答えるたびに、満足そうに頷く彼。
 そのダークブラウンの瞳は、幸せそうに細められていた。

 それからも、シャトーブリアンの炭火焼きやら、和牛と松茸の土鍋ご飯やら、頬が落ちそうなものばかり出てきた。
 あまりにも豪華な料理に、今週の金曜日にお見合いに行かなければいけないことなど、吹き飛んでしまっていた。

 そしていよいよデザートが運ばれてきた。柚子のシャーベットだ。
 熱いお茶と新しいおしぼりも渡されて、さっぱりしたところで「ごゆっくり」と襖を締められた。

「この後は俺が呼ぶまで、仲居は来ない」

 桐生部長は男らしい口元を緩めた。

「……腰はもう、大丈夫か?」
「なんとか」
「少しやりすぎたかもしれない……悪かったな」

 あれって少しやりすぎたという程度なんだろうか。
 しかし、彼からホテルのことに触れてくれるなんてちょうどいい。

「なんで、あんな高い部屋に泊まったんですか?」
 
 思い切って聞いてみると、部長は俺を見つめた。 

「……それは……」

 彼が言い淀むなんて、初めてのことだ。 ポケットに手を入れて、何かを握っている。

「初夜のやりなおしと言っただろう」

 でも、それがプロポーズスイートなんて呼ばれる部屋なんて……ただ高いだけじゃない。
 特別な感情があるんじゃないかって思って……どきどきしてしまう。
 もし、彼が正気でこれをしてくれているとしたら……。
 そう思うと、心臓が壊れそうになる。
 
 だけど、休憩時間にネットで調べたら、発情暴走にあてられたアルファは、少し混乱が残ることがあるらしい。
 その場合は24時間、完全に接触を断てば元通りになるということだった。
 簡単そうに思えるのに、少しの隙にキスしようとして来たりして、全く達成できない。
 でも、ネットには、混乱させた相手に執着を見せることがあると書いてあったし、そのせいなんだろう。


「お前は、あの部屋で過ごしてどうだった?」
「えっ?」
「俺は……楽しかった。またお前とああやって過ごしたい」

 白木のテーブルの上で、彼の手が俺の手を包み込むように重なった。
 彼の体温にすぐに順応しそうになる自分が怖い。

「ま、またって……あ、あんなに高い部屋は……もう」

 心臓が耳元で鳴っているかのようにうるさい。こめかみまで連動して脈動している。

「部屋の値段が気になるなら、俺の家に来るか?」

 彼のポケットの中で、チャリッと金属音が響いた。鍵のような軽い音だ。

「部長の家をホテル代わりに……?」
「お前がいいなら、ずっといてもいいぞ」
「……え」

 どういう意味だろう。雰囲気と酒の香りで酔ってしまって、よく考えられない。

「す、住むってことですか?」

 心臓がおかしくなりそうだ。

「そうだ」

 即答されて、それでも耳を疑ってしまった。
――同棲!? 
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