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鍵のないキーケース①
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「なんか場違いじゃないですか、俺……」
そう言いつつ連れてこられたのは、看板も出ていない隠れ家のような料亭だった。
確かに、今日の昼に会社のカフェで牛丼を食べながら「たまにはちょっといい肉を食べたいな~」なんて言った。
言ったが、その場に桐生部長はいなかったはずだ。
どこから情報が洩れているのか、偶然なのか。
しかしその結果が「A5ランク特選黒毛和牛・隠れ房懐石」とは……。
「少量ずつ、色々な部位を、最高の調理法でお出しします」と仲居さんが言っていた。
これって牛丼の何倍の値段なんだろう。
「サーロインのしゃぶしゃぶ椀でございます」
白木のテーブルの上に、黒い漆塗りの椀が置かれた。
その中にはいかにもおいしそうな薄切りの牛肉が入っている。
「では、お出汁をお入れしますね」
品のいい着物姿の女性が、土瓶から黄金色の出汁を注いだ。
ふうわりとカツオのいい香りがひろがった。
大きな霜降り肉があっという間に薄桃色に変わっていく。
「わあ……」
思わず声が漏れてしまった。
「慌てるなよ、熱いぞ」
桐生部長の声は、会社にいる時と驚くほどトーンが違った。
ロッカールームでの、切羽詰まったような声とも違う。
この椀のようにじんわりと優しくて、温かいものが染み出してくるような声だ。
彼のまなざしに射抜かれながら、俺は舌の上でとろける肉を頬張った。
「……うまい。とろける……」
「気に入ったか。俺のも食べるか?」
彼が自分の椀から俺の椀に大きな肉を入れてきた。
向かいではなく、テーブルの角を挟んで隣に座っているから、何かと世話を焼かれてしまう。
先付けの雲丹(ウニ)の和牛巻きは、あーんされそうになって慌てて断った。
ここは個室とはいえ、いつ仲居さんが入ってくるか分からない。
いつまでもホテル気分でいられると、困ってしまう。
彼は猪口を傾けながら、俺が椀の牛肉を食べる姿を見ていた。
まるで、俺の姿を肴に酒を飲んでいるようだった。
「うまいか?」
「うまいです……」
味を何度も聞いてきて、美味しいと答えるたびに、満足そうに頷く彼。
そのダークブラウンの瞳は、幸せそうに細められていた。
それからも、シャトーブリアンの炭火焼きやら、和牛と松茸の土鍋ご飯やら、頬が落ちそうなものばかり出てきた。
あまりにも豪華な料理に、今週の金曜日にお見合いに行かなければいけないことなど、吹き飛んでしまっていた。
そしていよいよデザートが運ばれてきた。柚子のシャーベットだ。
熱いお茶と新しいおしぼりも渡されて、さっぱりしたところで「ごゆっくり」と襖を締められた。
「この後は俺が呼ぶまで、仲居は来ない」
桐生部長は男らしい口元を緩めた。
「……腰はもう、大丈夫か?」
「なんとか」
「少しやりすぎたかもしれない……悪かったな」
あれって少しやりすぎたという程度なんだろうか。
しかし、彼からホテルのことに触れてくれるなんてちょうどいい。
「なんで、あんな高い部屋に泊まったんですか?」
思い切って聞いてみると、部長は俺を見つめた。
「……それは……」
彼が言い淀むなんて、初めてのことだ。 ポケットに手を入れて、何かを握っている。
「初夜のやりなおしと言っただろう」
でも、それがプロポーズスイートなんて呼ばれる部屋なんて……ただ高いだけじゃない。
特別な感情があるんじゃないかって思って……どきどきしてしまう。
もし、彼が正気でこれをしてくれているとしたら……。
そう思うと、心臓が壊れそうになる。
だけど、休憩時間にネットで調べたら、発情暴走にあてられたアルファは、少し混乱が残ることがあるらしい。
その場合は24時間、完全に接触を断てば元通りになるということだった。
簡単そうに思えるのに、少しの隙にキスしようとして来たりして、全く達成できない。
でも、ネットには、混乱させた相手に執着を見せることがあると書いてあったし、そのせいなんだろう。
「お前は、あの部屋で過ごしてどうだった?」
「えっ?」
「俺は……楽しかった。またお前とああやって過ごしたい」
白木のテーブルの上で、彼の手が俺の手を包み込むように重なった。
彼の体温にすぐに順応しそうになる自分が怖い。
「ま、またって……あ、あんなに高い部屋は……もう」
心臓が耳元で鳴っているかのようにうるさい。こめかみまで連動して脈動している。
「部屋の値段が気になるなら、俺の家に来るか?」
彼のポケットの中で、チャリッと金属音が響いた。鍵のような軽い音だ。
「部長の家をホテル代わりに……?」
「お前がいいなら、ずっといてもいいぞ」
「……え」
どういう意味だろう。雰囲気と酒の香りで酔ってしまって、よく考えられない。
「す、住むってことですか?」
心臓がおかしくなりそうだ。
「そうだ」
即答されて、それでも耳を疑ってしまった。
――同棲!?
そう言いつつ連れてこられたのは、看板も出ていない隠れ家のような料亭だった。
確かに、今日の昼に会社のカフェで牛丼を食べながら「たまにはちょっといい肉を食べたいな~」なんて言った。
言ったが、その場に桐生部長はいなかったはずだ。
どこから情報が洩れているのか、偶然なのか。
しかしその結果が「A5ランク特選黒毛和牛・隠れ房懐石」とは……。
「少量ずつ、色々な部位を、最高の調理法でお出しします」と仲居さんが言っていた。
これって牛丼の何倍の値段なんだろう。
「サーロインのしゃぶしゃぶ椀でございます」
白木のテーブルの上に、黒い漆塗りの椀が置かれた。
その中にはいかにもおいしそうな薄切りの牛肉が入っている。
「では、お出汁をお入れしますね」
品のいい着物姿の女性が、土瓶から黄金色の出汁を注いだ。
ふうわりとカツオのいい香りがひろがった。
大きな霜降り肉があっという間に薄桃色に変わっていく。
「わあ……」
思わず声が漏れてしまった。
「慌てるなよ、熱いぞ」
桐生部長の声は、会社にいる時と驚くほどトーンが違った。
ロッカールームでの、切羽詰まったような声とも違う。
この椀のようにじんわりと優しくて、温かいものが染み出してくるような声だ。
彼のまなざしに射抜かれながら、俺は舌の上でとろける肉を頬張った。
「……うまい。とろける……」
「気に入ったか。俺のも食べるか?」
彼が自分の椀から俺の椀に大きな肉を入れてきた。
向かいではなく、テーブルの角を挟んで隣に座っているから、何かと世話を焼かれてしまう。
先付けの雲丹(ウニ)の和牛巻きは、あーんされそうになって慌てて断った。
ここは個室とはいえ、いつ仲居さんが入ってくるか分からない。
いつまでもホテル気分でいられると、困ってしまう。
彼は猪口を傾けながら、俺が椀の牛肉を食べる姿を見ていた。
まるで、俺の姿を肴に酒を飲んでいるようだった。
「うまいか?」
「うまいです……」
味を何度も聞いてきて、美味しいと答えるたびに、満足そうに頷く彼。
そのダークブラウンの瞳は、幸せそうに細められていた。
それからも、シャトーブリアンの炭火焼きやら、和牛と松茸の土鍋ご飯やら、頬が落ちそうなものばかり出てきた。
あまりにも豪華な料理に、今週の金曜日にお見合いに行かなければいけないことなど、吹き飛んでしまっていた。
そしていよいよデザートが運ばれてきた。柚子のシャーベットだ。
熱いお茶と新しいおしぼりも渡されて、さっぱりしたところで「ごゆっくり」と襖を締められた。
「この後は俺が呼ぶまで、仲居は来ない」
桐生部長は男らしい口元を緩めた。
「……腰はもう、大丈夫か?」
「なんとか」
「少しやりすぎたかもしれない……悪かったな」
あれって少しやりすぎたという程度なんだろうか。
しかし、彼からホテルのことに触れてくれるなんてちょうどいい。
「なんで、あんな高い部屋に泊まったんですか?」
思い切って聞いてみると、部長は俺を見つめた。
「……それは……」
彼が言い淀むなんて、初めてのことだ。 ポケットに手を入れて、何かを握っている。
「初夜のやりなおしと言っただろう」
でも、それがプロポーズスイートなんて呼ばれる部屋なんて……ただ高いだけじゃない。
特別な感情があるんじゃないかって思って……どきどきしてしまう。
もし、彼が正気でこれをしてくれているとしたら……。
そう思うと、心臓が壊れそうになる。
だけど、休憩時間にネットで調べたら、発情暴走にあてられたアルファは、少し混乱が残ることがあるらしい。
その場合は24時間、完全に接触を断てば元通りになるということだった。
簡単そうに思えるのに、少しの隙にキスしようとして来たりして、全く達成できない。
でも、ネットには、混乱させた相手に執着を見せることがあると書いてあったし、そのせいなんだろう。
「お前は、あの部屋で過ごしてどうだった?」
「えっ?」
「俺は……楽しかった。またお前とああやって過ごしたい」
白木のテーブルの上で、彼の手が俺の手を包み込むように重なった。
彼の体温にすぐに順応しそうになる自分が怖い。
「ま、またって……あ、あんなに高い部屋は……もう」
心臓が耳元で鳴っているかのようにうるさい。こめかみまで連動して脈動している。
「部屋の値段が気になるなら、俺の家に来るか?」
彼のポケットの中で、チャリッと金属音が響いた。鍵のような軽い音だ。
「部長の家をホテル代わりに……?」
「お前がいいなら、ずっといてもいいぞ」
「……え」
どういう意味だろう。雰囲気と酒の香りで酔ってしまって、よく考えられない。
「す、住むってことですか?」
心臓がおかしくなりそうだ。
「そうだ」
即答されて、それでも耳を疑ってしまった。
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