隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「シビラ・フォン・ノイシュタイン公爵令嬢! 君との婚約を破棄させてもらう!」


王立アカデミーの卒業パーティー会場。その中心で、第一王子アルフォンスの声が朗々と響き渡った。


きらびやかなシャンデリアの下、着飾った貴族たちが一斉に息を呑む。楽団の演奏は止まり、静寂が会場を支配した。


(……きた、きたきたきたあああああ!!)


シビラは扇で口元を隠し、伏せ気味にした瞳の奥で歓喜の叫びを上げていた。


この瞬間のために、彼女はどれほどの心血を注いできたことか。


「殿下……。それは、どういう意味でございましょうか?」


震える声を演じながら、シビラは心の中でガッツポーズを決める。完璧だ。今のはどこからどう見ても、不当な宣告に絶望する悲劇の令嬢そのものだったはずだ。


アルフォンスの隣には、小柄で愛らしい男爵令嬢リュミエールが寄り添っている。


「とぼけるな! 君がリュミエール嬢に対して行ってきた数々の嫌がらせ。僕の耳にはすべて入っている。彼女の教科書を破り、私物のペンを隠し、さらには夜な夜な彼女を呼び出しては執務室に監禁したそうではないか!」


会場がざわめきに包まれる。非難の視線がシビラに突き刺さった。


(いいわ、いいわよアルフォンス殿下! もっと言って! 冤罪の塗り込みが甘いわよ! 監禁だなんて、言い方が悪いですわ。あれは英才教育という名の特別講義ですもの!)


シビラは、公爵令嬢として完璧に育てられた「鉄の女」である。


幼い頃から王妃になるべく教育され、十代にして王国の内政の半分を裏で回すほどの有能さを発揮していた。しかし、その実態は、朝から晩まで書類の山に埋もれ、過労死寸前の生活を送る超絶ブラック労働者だったのだ。


「……おっしゃる通りでございます。私はリュミエール様に、多くの……ええ、それはもう多くの時間を割かせていただきましたわ」


シビラは悲しげに目を伏せた。


実際、リュミエールの教科書を破ったのは、その内容が古すぎて使い物にならなかったからだ。代わりにシビラが自作した最新の経済学テキストを渡しておいた。


ペンを隠したのは、彼女が安物の羽ペンで指を痛めていたから。最高級の魔力ペンを彼女の机に忍ばせておいたはずだ。


そして監禁。それは、この有能すぎる後釜候補に「王妃の実務」を叩き込むための合宿に他ならない。


「認めるのだな? 君のような冷酷な女は、王妃の座にふさわしくない。この国を愛し、民の心に寄り添えるリュミエールこそが、僕の隣に立つべき女性だ!」


アルフォンスが力強く宣言する。


(そう! その通りですわ殿下! あなたも有能、彼女も天才。二人が揃えば、もう私がいなくてもこの国は安泰ですもの。さあ、早く! 早く私に自由という名の『国外追放』か『隠居生活』をくださいまし!)


シビラは公爵家の跡取りでもない。婚約が破棄されれば、家を出る名目が立つ。


すでに隣国に、偽名で購入した広大な別荘と、一生遊んで暮らせるだけの隠し財産は準備済みだ。


そこには、朝寝坊しても誰にも怒られない楽園が待っている。


「殿下……。そこまでおっしゃるのなら、私は身を引くしかございませんのね」


シビラは、わざとらしく絞り出すような声で言った。


「しかし、リュミエール様。あなたに、この国の未来を背負う覚悟がおありですか?」


シビラの鋭い視線がリュミエールに向く。これは単なる確認だ。リュミエールなら「はい」と答えるはずだ。彼女はこの数ヶ月で、シビラが教えた高度な内政術をすべて吸収してみせたのだから。


ところが、リュミエールは震える足で一歩前に出ると、あろうことかシビラの前に跪いた。


「……シビラ様! 申し訳ございません!」


「えっ」


思わず素の声が出そうになるシビラ。


リュミエールは涙を浮かべ、シビラのドレスの裾を掴んだ。


「私……私にはまだ、シビラ様から教わった『徴税システムの最適化』や『物流網の再構築案』を一人で完遂する自信がございません! 殿下、婚約破棄なんておっしゃらないでください! シビラ様がいなくなったら、この国は一週間でパンクします!」


会場が、妙な空気になった。


「な、何を言っているんだリュミエール? 君は彼女にいじめられていたんだろう?」


アルフォンスが困惑した表情でリュミエールの肩を抱こうとする。


「いじめ!? とんでもありません! あの執務室での三日三晩にわたるマンツーマン指導……あれこそが、私にとっての救いでした! シビラ様の鮮やかな事務処理、冷徹なまでの判断力……私は、シビラ様に一生ついていきたいと思っているのです!」


(ちょ、ちょっと待ちなさいよリュミエール! 空気を読みなさい!)


シビラは内心で絶叫した。


この日のために、わざと嫌われるような言い方で指導し、わざと過酷な課題を与えてきたのだ。


普通なら「あんな女、二度と顔も見たくない!」と泣き叫ぶはずではないか。


「リュミエール……。君、目が充血しているぞ? やはり彼女に何か毒でも盛られて……」


「これは、昨夜シビラ様と一緒に修正予算案を書き上げた時にできた名誉あるクマですわ!」


「……修正予算案?」


アルフォンスが首を傾げる。


シビラは冷や汗を流しながら、必死で表情を繕った。


「殿下……。リュミエール様は少々混乱されているようですわ。私は、彼女を……そう、精神的に追い詰めてしまいましたの。ですから、彼女はストックホルム症候群のような状態に……」


「いいえ、私は正気です! 殿下、シビラ様を追放するなら、私も一緒に行きます! シビラ様のいない王宮で書類仕事なんて、ただの地獄です!」


リュミエールの叫びに、会場の貴族たちがざわつきを増す。


(やめて。お願いだから私の自由を邪魔しないで。天才すぎて怖いわよ、この子!)


シビラは、自分の計画に大きな亀裂が入ったことを悟った。


アルフォンス王子は、リュミエールの必死な形相を見て、何かを考え込むように顎に手を当てた。


「……そうか。リュミエールがそこまで言うのなら、シビラ。君の教育は、僕が思っていたよりも……その、情熱的だったということか?」


「情熱的、というか、壊滅的と言いますか……。とにかく、私は悪役なのですわよ!?」


「シビラ様! あんなに優しくペン先の手入れを教えてくださったではありませんか!」


「それは仕事道具を大事にしないと効率が落ちるからであって……っ!」


「シビラ。少し、場所を変えて話そうか」


アルフォンスの瞳が、なぜか怪しく光った。


それは、獲物を見つけた猛獣のような、あるいは有能な部下を絶対逃がさないと決めたブラック企業の経営者のような輝きだった。


(嫌な予感がする。私の隠居生活が、地平線の彼方へ消えていく音が聞こえるわ……!)


シビラの完璧な断罪劇は、開幕早々、予想だにしない方向へと転がり始めた。
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