隠居したいのでいい加減、婚約破棄してくれませんか?

小梅りこ

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「……さて、シビラ。改めてゆっくり話をしようじゃないか」


パーティー会場の喧騒を離れ、王宮の一室。


豪華なソファに深く腰掛けたアルフォンス殿下は、組んだ足の上に顎を乗せて、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


その前で立たされているのは、私と、なぜか私の背後にぴたりと隠れるように立つリュミエール様。


(おかしいわ。計算と違う。本来なら今頃、私は衛兵に引きずられて馬車に放り込まれ、北の果ての修道院――という名の豪華リゾートへ向かっているはずなのに!)


シビラは扇を握りしめ、必死で「冷徹な公爵令嬢」の仮面を維持する。


「お話などございませんわ、殿下。先ほど大衆の前で宣言された通り、私はリュミエール様を虐げた大悪女。速やかに婚約を破棄し、相応の罰を与えてくださるのが筋というものですわ」


「そうですよ殿下! あんなに大勢の前で言っちゃったんですから、今さら引っ込めるなんて男が廃りますわ!」


背後から、リュミエール様が元気よく追撃してくる。


彼女は私が「婚約破棄されて自由になる計画」を立てていたことを知っている唯一の共犯者(候補)だった。


それなのに、先ほどの裏切りは何事か。


「いいえ、シビラ様! 私はあそこで殿下に『シビラ様がどれほど有能か』を再認識してほしかっただけなのです! 追放なんて絶対にさせません! シビラ様のいない職場で働くなんて、休日出勤を強要されるようなものです!」


「リュミエール様、黙ってらっしゃい! 私は今、人生の重大な分岐点に立っているのですわよ!」


「私もです! シビラ様の指示書なしで予算を組むなんて、羅針盤なしで航海するようなものです!」


二人のやり取りを、アルフォンスは楽しそうに眺めていた。


「ふむ。リュミエール嬢の言い分を聞く限り、シビラ、君は彼女をいじめていたのではなく……過酷なまでの労働に巻き込んでいた、ということで間違いないかな?」


「……人聞きが悪いですわね。それは、次期王妃としての嗜みというもので……」


「だとしても、君がいなくなれば、その仕事がすべて僕のところに戻ってくるということだ。それは困る」


アルフォンスが、書類が山積みになったデスクを指差した。


彼は有能だ。それは間違いない。だが、有能ゆえに「誰が本当に仕事をしているか」を見抜く目も持っていた。


(この王子、自分の仕事を減らすために私を繋ぎ止めようとしているわ……!)


「殿下! 私のような悪徳令嬢を側に置いては、殿下の名声に傷がつきますわ! さあ、早く! 早くおっしゃって! 『お前のような女は二度と顔を見せるな、この国から出て行け』と、高らかに叫んでくださいまし!」


シビラは詰め寄った。


もはや懇願である。早く捨ててほしい。早く隠居させてほしい。


だが、アルフォンスは立ち上がると、ゆらりとシビラの至近距離まで歩み寄った。


「……残念だが、シビラ。あんなに大勢の前で婚約破棄を叫んでしまった手前、僕は君に『特別な罰』を与えなければならなくなった」


「罰! そうですわ、それです! 極刑ですか? それとも国外追放? まさか、鉱山送りとか……!」


シビラの瞳が期待に輝く。


アルフォンスはシビラの耳元に顔を寄せ、甘く、そして逃げ場のない声で囁いた。


「罰として――君には今後、僕の目の届く場所で、一生涯かけてこの国に尽くしてもらう。もちろん、僕の『妻』という役職も兼務でね」


「…………はい?」


シビラは呆然と固まった。


「婚約破棄は取り消しだ。代わりに、結婚式の予定を半年早めることにしたよ。明日から君の執務室を僕の寝室の隣に移そう。これで深夜まで一緒に仕事ができるね」


「は、半年早める……? 深夜まで一緒に……仕事……?」


絶望という名の闇が、シビラの視界を覆い尽くそうとしていた。


隠居生活。朝寝坊。バカンス。


それらのキラキラした単語が、音を立てて崩れ去っていく。


「おめでとうございます、シビラ様! これで私も、公認でシビラ様の下書きを清書できますわ!」


「リュミエール様、あなたは喜びすぎですわよ! 私の自由が! 私の退職金代わりの隠し財産が!」


「ああ、隠し財産ならカイルに見つけさせて、すべて国庫に戻しておいたよ。君が用意した別荘も、今後は王室の保養所として有効活用させてもらう」


アルフォンスが爽やかな笑顔で告げる。


シビラは膝から崩れ落ちそうになった。


(この男……いつの間にそこまで調べていたの!? 有能すぎる王子なんて大嫌いですわ!)


「待ってください、殿下! 私は悪役令嬢なんですわよ!? あなたを愛する可愛いリュミエール様を差し置いて、こんな性格の悪い女を妻にするなんて、正気ではありませんわ!」


「性格が悪い? いいや、僕にとってはこれほど頼りになるパートナーはいない。君の代わりなんて、この世界のどこを探してもいないんだ」


アルフォンスは、シビラの指先を取り、恭しく口づけた。


その瞳には、仕事仲間としての信頼だけでなく、隠しきれない独占欲が渦巻いている。


「シビラ、観念するんだ。君が育てたリュミエール嬢も、そして僕も、君を離すつもりは毛頭ない」


「そんな……そんな殺生な……」


シビラの絞り出すような声が、静かな部屋に虚しく響いた。


有能すぎる王子と、有能すぎるヒロイン。


二人に囲まれたシビラの、隠居への道は、さらに険しく、そして「愛」という名の重労働に塗り替えられようとしていた。


(こうなったら、別の方法で婚約破棄を狙うしかありませんわ……! 見ていらっしゃい、絶対に辞職届(離婚届)を叩きつけてやりますから!)


シビラの心の中で、新たな闘志――という名の、不純な隠居への情熱が再点火された瞬間であった。
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