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隠し味は雨の味

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「さては、お腹がすいてますね」

 鈴を揺らしたような声は、誰だったのだろう。
 雨音に打ち消されかけたそれは、はっきりと私のところまで聞こえていた。ゆっくりと顔を上げると、エプロンを巻いた青年が傘を私に差し出しながら笑っている。
「雨に濡れて寒いと、暖かいものが恋しいですよね」
 知っている、そんな事わかっている。
 けどそれよりも、なんでこの人は私に、傘なんて。
「なんで、そんな」
「お店の前でなにかが倒れる音がして、それで心配になって外へ出たらあなたが……」
「おみせ、あっ!」
 我に返り目を動かすと、目の前には明かりがともった定食屋さん。私もしかして、この人のお店の前で転んだ?
「すみません、店の前で」
「大丈夫です、お客さんもいないので」
 あっけらかんと笑いながら話す彼は、本当に気にしていないのか傘を持っていない方の手を私に差し出してきた。
「残っていたお味噌汁なら、お出しできます」
 その言葉は、私への慈悲だったのか哀れみだったのか。
 そんな答えがわからない中でも、しっかりと伸ばされた手を握った私がいるのはずいぶんと図々しい話だと後々思えてしまう。さほど力は加えずに立ち上がらせてもらうと、そのまま店の中へと招き入れられる。がらんとした店内は優しい出汁の香りが漂っていて、ついこわばっていた身体から力が抜けていく。
「タオルはこれ、後は飲み物ですね」
「そんな、お構いなく」
「僕が、なにもしないのは嫌なんです。ゆっくりしてください」
 そんな事を言われると、なかなか無碍にする事はできない。
 小さく頷いて近くにあった椅子へ腰をおろす。
 淡い色合いで統一された店内は彼の趣味なのか、居心地はとても良い方だ。遠くから聞こえる音は、厨房で鍋を火にかけているのだろうと思った。私から見て背中を向けている彼を眺めていると、甘い味噌の香りも漂う。
「お待たせしました……ニンニクと生姜、どっちにします? 僕は元気になるニンニクがオススメです」
「お味噌汁に、ニンニク?」
「はい」
 想像した事もなかった組み合わせに、つい首をかしげた。生姜は聞くが、ニンニクはあまり聞かない。あいにくデートする相手もいないなんてどうでもいい事を考えながら、小さく頷く。
「じゃあ、ニンニクで」
「わかりました」
 あらかじめ用意してあったらしく、器に盛られたニンニクがお味噌汁に沈んでいく。ゆらゆら揺れて、溶けて消えていってしまう。その様子を見ていたところに強めの刺激的な香りが私の鼻腔をくすぐって、それだけで人間の食欲を突くにはじゅうぶんすぎた。
 クウと、腹の虫が暴れたのはほとんど同時の話。
「……あ、えっとこれは」
「ふふ、ずいぶん可愛かったですね」
「笑わないでください!」
 恥ずかしい穴があったら入りたい!
 耳まで熱くなっているのを必死に隠しながら、私は置かれていたお味噌汁に手を伸ばす。
 ぐっと、熱いのも忘れて喉に流し込んだ。甘い白味噌仕立てに浮いたお麩やわかめ、下の方には玉ねぎも沈んでいる。早い話が、家庭的。そしてそこに入れられたニンニクが唯一無二の味を生み出していた。
 美味しいと言えばもちろんで、ニンニクは味噌の邪魔をしているわけじゃない。緩やかに、私の中に溶け込むように全部まとめて落ちていく。ゆっくりと、心まで溶かしていくような感覚だった。
「……あたた、かい」
「ちゃんと暖め直したので」
「そうじゃな、違う、んん、違くはないけど」
 もう、感情はぐちゃぐちゃだった。
 仕事でミスをしてしまったのも、友人と仲違いした事も。疲れると大好きなものは見えなくなって、どんどん雪だるまのように丸くなり沈んだ感情は質量を増していく。おぼつかない足取りでしかなかったそれは気づけば知らない小路に私を運んでいて、ぽうと灯った店のあかりにつられた虫のようだ。
 そのはずなのにこの人は、私に優しくする。
 こんな虫のように誘われた私にも、傘をさしてくれた。
 ほろりと、ポロリと一雫。
 落ちてしまえば呆気なくて、それは止まる事を知らない。彼もそれに気づいたのか、あの、と優しく私の背中に手を回してくれる。撫でるような触り方は暖かくて、それすらも涙の理由になってしまいそうだった。
「すみません、なんか涙が」
「……泣くのって、生きてる証なんですよ」
 じっと、彼の瞳と視線がぶつかる。
「泣くのもお味噌汁が美味しいって思えるのも、生きている証です……」
 疲れたなんて、可愛い言葉ではない。
 けれどもしんどいなんて、生きるのもいっぱいかと聞かれるとそこまでではない。言葉にするのは難しい、綱渡りのような精神のライン。
 例えば、少し前に彼氏と別れた事。
 例えば、仕事であるマーケティングで顧客の気持ちが汲み取れなかった事。
 例えば、好きだったはずのご飯の味が思い出せないくらい疲れているのだと自覚した事。
 なにもかもが固まっていたはずの感情は、彼の声で揺らされて溶けていく。
「だからもっと、たくさん泣いてください」
 何年ぶりかの涙は、青年――かっこうくんの前で情けなく流した初めての涙は、今までのどんな涙よりも大粒で暖かいものだった。
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