1 / 2
甦る記憶
しおりを挟む聖堂は死の匂いで満ちていた。
いや、正確には、死の予兆、と言うべきか。
千年の時を経た石壁が纏う湿った冷気。祭壇に並ぶ蝋燭が、ぽたりと蝋を垂らしながら放つ煙。そして、鉄の手枷に繋がれた女が振りまく焦げた髪の匂い。それらが層を成して空気に溶け込み、聖堂そのものが終わりを待つ者たちの吐息で満たされているかのようだった。
高窓から差し込む午後の光は鈍く、この異様な雰囲気を助長している。
薄暗い聖堂内でステンドグラスが作り出す様々な色彩が床に落ち、まるで異界への入り口のように揺らめいている。雷神リュゼルを描いた巨大な壁画が祭壇の背後で僕たちを見下ろしていた。
僕は祭壇の下に立ち、目の前に跪く女を見遣る。
異端者。マリア・フェリクス。
かつては伯爵家の令嬢だったという。社交界で名を馳せ、煌びやかなドレスを身に纏い、多くの求婚者に囲まれていたと聞く。
だが、今や、その面影はなく、町娘でも着ないような草臥れたワンピースを着せられ、神殿騎士を前に項垂れている。やつれた頬。震える唇。長い栗色の髪から覗く暗褐色の瞳の中には怯えと狂気が混ざり合い、その境界はもはや曖昧となっている。
しかし、その精神が破綻寸前なれど、瞳は強い意志を持ち、僕を捉えて離さなかった。
まるで、僕の中の何かを見透かしているかのように。
「アッシュ」
背後から神殿騎士団長アルトゥス・ディヴィナの穏やかで慈愛に満ちた声が僕を包む。
だが僕は知っている。その声の奥に潜む、冷徹な計算を。この男にとって、信仰とは秩序の道具であり、慈悲とは統治の手段に過ぎない。
「この者の罪状を検めなさい」
「はい、団長」
僕は軽く頭を下げ、手に持った書状に視線を落とした。
紙に浮かぶインクは匂いがまだ新しく、彼女の罪を示す文字が整然と並んでいる。放火未遂三件。炎への異常な執着。錯乱。以上に対する治療行為の拒絶。
放火だけならまだしも、残りの項目は全て異端者として嫌疑を掛けられるには十分すぎるものだ。ありふれた罪の羅列は僕の目を素通りしていく。
耳に入る音だって同じだ。女の荒い呼吸。喉の奥から絞り出されるような、苦しげな呻き声。そして、手枷が擦れる無機質な響き。
「マリア・フェリクス」
僕は、いつものように罪人の名を呼んだ。軽やかに、何も知らないふりをして。
「貴女は炎に魅入られたと聞いています。夜ごと悪夢を見て、目覚めると――」
「ねえ」
マリアが僕の言葉を遮った。
その声は低く、震えている。
はっとして顔を上げると、マリアの瞳は僕を映していた。その瞳の奥に、何かが蠢いている。炎のような――いや、炎そのものが。
「あなた……見えるのね」
マリアは唇の端を吊り上げ、ほくそ笑む。
「夢の中の炎を」
その言葉が、胸の奥を叩いた。
ざわり、と。記憶の海の底で何かが動く。長い年月をかけて沈殿した泥が巻き上げられ、忘れていたはずのものが浮かび上がってくる。
「……何を言っているんですか?」
僕は微笑を保ったまま首を傾げる。
ぎこちない笑みを隠すため口元を覆おうとするも、思わず手に力が入り、書状はぐしゃりと音を立て皺を作った。
「団長、彼女は少し――」
「見てきたんでしょう」
再びマリアが言葉を遮り、断言する。
その瞳が映すのは、もはや狂気だけではなくなっていた。目を細め、同じ業を背負う者に向ける慈悲の笑みが諦念と共に浮かび上がる。
「あなたは、見ている。私と同じように。夜ごと、夢で。黒い炎が燃え盛る夢を。石の床に、血が流れる夢を。そして――」
頬を紅潮させ、手枷が激しく音を立て床を打ち付けた。
彼女は僕を、いや、僕のもっと奥深くを覗き込んで、口にする。
その瞬間、どこかで空気が張りつめた気がした。
「雷を呼んだ夜の、記憶を」
刹那、外で雷鳴が轟いた。
空気が震え、聖堂の石壁は低い唸り声をあげる。ステンドグラスはガタガタと音を立て、色彩が床の上で歪ませた。蝋燭の炎が一斉に揺らめき、長い影が壁を這い、まるで生き物のように蠢く。
僕の胸の奥で閉ざされていた古い扉が軋み、錆びた蝶番が悲鳴を上げ、ゆっくりと開かれた。
黒い炎。
焦げた匂い。
夜の神殿。崩れ落ちる柱。
名前も知らぬ沢山の悲鳴たち。
口から滴る生暖かい真っ赤な血。
何度も夢で見てきた光景が、もはや夢ではないものとして、鮮明に甦る。
これは記憶だ。遠い、遠い記憶。何百年――いや、もっと長い時間をかけて、繰り返されてきた記憶。
終わることが出来ない、輪廻の記憶。
「貴方様が……」
まるで水の中から聞こえてくるように、女の声に靄がかかる。女は手を縛められたまま、四つ這いで僕の足に擦り寄り、恍惚とした表情で早口に捲したてる。
「あの夜、雷を呼び、舞い踊られた! 美しき炎の中で!」
視界が、揺らぐ。
聖堂の天井が遠ざかり、石造りの床が傾いていく。
違う。傾いているのは、僕の方だ。
膝の力が抜けていく。指先が冷たい。汗が背中を伝う。
呼吸が、浅い。心臓が、早鐘を打つ。
――ああ、そうだ。
僕は、思い出してしまった。
いや、ずっと知っていた。
ただ、認めたくなかっただけだ。
私は、炎神ヴァルナ。
地に堕ち、幾度も死に、生まれ、そして――迅雷に穿たれてきた存在。
「アッシュ!」
団長が【僕】の名を叫ぶ声が聞こえたが、僕は炎の記憶に呑まれながら、静かに、冷たい床に倒れ込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
病み墜ちした騎士を救う方法
無月陸兎
BL
目が覚めたら、友人が作ったゲームの“ハズレ神子”になっていた。
死亡フラグを回避しようと動くも、思うようにいかず、最終的には原作ルートから離脱。
死んだことにして田舎でのんびりスローライフを送っていた俺のもとに、ある噂が届く。
どうやら、かつてのバディだった騎士の様子が、どうもおかしいとか……?
※欠損表現有。本編が始まるのは実質中盤頃です
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
囚われた元王は逃げ出せない
スノウ
BL
異世界からひょっこり召喚されてまさか国王!?でも人柄が良く周りに助けられながら10年もの間、国王に準じていた
そうあの日までは
忠誠を誓ったはずの仲間に王位を剥奪され次々と手篭めに
なんで俺にこんな事を
「国王でないならもう俺のものだ」
「僕をあなたの側にずっといさせて」
「君のいない人生は生きられない」
「私の国の王妃にならないか」
いやいや、みんな何いってんの?
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる