死んだ俺は、神に頼まれて世界を救うことになった

藤井 サトル

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気づいたときには死んでいた

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 目を開けた……その刹那。
 視界に飛び込んできたのは、色という概念を削ぎ落としたかのような、どこまでも無機質で均一な白だった――天井も、壁も、床も判別がつかず、奥行きさえ曖昧で、まるで世界そのものが一枚の白紙へと塗り潰されてしまったかのように、彼の視界はただ白一色に支配されていた。

「……え?」

 思わず喉から零れ落ちた声は白い空間に触れた途端、吸い込まれるように霧散していった。
 壁にぶつかる気配も、跳ね返ってくる反響もない。空気が震えた感触すら残らず、その音は最初からこの世界に存在していなかったかのように跡形もなく消え去ってしまう。

 沈黙だけが、重く、冷たく、周囲に横たわっていた。
 その異様さに気づいた瞬間、胸の奥の深いところがじわりと締めつけられる。理由のわからない不安が粘つく液体のように静かに広がり、逃げ場のない嫌な予感となって心臓の裏側に貼りついた。

「落ち着け、少年」

 背後から不意に空気を震わせるような低く、そして腹の底にまで沈み込んでくる重みのある声が響いた。耳に届いたその声はただ音として聞こえたというよりも、白い空間そのものが語りかけてきたかのようで、空の背筋をぞくりと撫で上げる。

 思わず肩が跳ね、反射的に振り向いた……その瞬間――。
 言葉を失い、無意識のうちに息を呑んでいた。

 視界に映った存在は、常識や現実という枠組みからはみ出しており、ただそこに『在る』という事実だけで、圧倒的な存在感を放っていたからだ。心臓が強く脈打ち、喉の奥がひくりと鳴る。恐怖なのか、畏怖なのか、それとも理解の及ばない何かに対する本能的な反応なのか――空自身にも判別はつかず、ただ身体だけが正直にその異質さを受け止めていた。

 そこに立っていたのは、一人の老人だった。
 年齢を測ることすら無意味に思えるほど長い時を生きてきたのだろう。腰のあたりまで流れる白髭は手入れが行き届いており、一本一本が静かな重みを湛えている。顔には幾重にも皺が刻まれていたが、それは老いによる衰えではなく、数え切れないほどの選択と責任を背負ってきた証のように見えた。

 背丈は決して高くない。それでも、その場に立っているだけで周囲の空間そのものが彼を中心に形を変え、思わず頭を垂れたくなるような圧を放っている。視線を向けただけで言葉も動作も許可を得なければならない――そんな錯覚すら覚えるほどだった。

 身に纏っているのは飾り気のない質素な衣だ。宝石も装飾も見当たらない。それにもかかわらず、その老人には『威厳』という言葉がこれ以上ないほど似合っていた。力を誇示せず、声を荒げることもなく、ただそこに存在しているという事実だけで絶対的な立場を理解させてくる――そんな存在だった。

「……えっと……お爺さん、誰ですか?」

「ほう。ずいぶん率直だな」

 老人は喉の奥で、ほんのかすかな笑い声を転がすように小さく笑った。

「わしは神だ。この世界、いや――世界そのものを統べる者、と言えば分かりやすいか」

「……神様?」

「高峰 空。残念だが、お主はすでに死んでおる」

「……は?」

 その一言が耳に届いた瞬間、思考はぷつりと途切れ、まるで頭の中身を誰かにひっくり返されたかのように、意識の奥まで余すところなく白に塗り潰された。理解しようとする前に感情が追い越し、驚きも恐怖も混ざり合ったまま、彼はただ言葉を失うしかなかった。

 ――それは、いつもと何ひとつ変わらないはずの、登校途中の朝だった。

 俺の名前は「高峰 空(たかみね そら)」十八歳……記憶は大丈夫そうだ。

 あの日は少し早足で家を出て、通い慣れた通学路を歩きながら、今日の小テストのことや、提出期限が近い課題のことを、ぼんやりと頭の片隅で考えていた。空気は少し冷たく、朝の街には通勤や通学に向かう人々の足音と自動車のエンジン音が混じり合って、いつも通りの時間が流れていた。

 やがて辿り着いた横断歩道。立ち止まり、何の疑いもなく信号を見る。確かに青だった。歩行者用の小さな人型のランプが進めと告げるように静かに光っている。スマホを見ていたわけでもない。イヤホンもつけていない。周囲の音も、景色も、きちんと意識していたはずだった。

 一歩、踏み出した瞬間。

 鼓膜を叩き潰すような耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。反射的に顔を上げた視界いっぱいにあり得ないほど巨大な影が迫ってくる。逃げ場を塞ぐように広がるその影は朝の光を遮り、世界の色を一気に塗り潰していく。

 理解するよりも早く、体がすくみ、時間が引き延ばされたように感じた。
 ――そして、その影の正体がトラックだと認識した時には、もう、どうすることもできなかった。

「――っ!」

 耳をつんざくような甲高いブレーキ音が、突然、すぐ背後で鳴り響いた。反射的に振り向こうとした、その瞬間――視界が大きく揺れ、次の瞬間には身体が地面から引き剥がされるような感覚に包まれる。

 足裏から伝わっていたはずのアスファルトの硬さが消え失せ、代わりに、空気の中へと放り出されたような浮遊感が全身を支配した。視界の端で黒くざらついた路面が信じられない速さで遠ざかっていく。上下の感覚は曖昧になり、どちらが空でどちらが地面なのかすら、もはや判断できなかった。

 そして――。
 全身を巨大な何かで叩き潰されたかのような、逃げ場のない衝撃が襲いかかる。骨が軋み、内臓が揺さぶられ、痛みが認識へと変わるよりも早く、思考そのものが寸断されていく。世界は一気に色を失い、音も感覚も闇に呑み込まれて、意識は抗う間もなく、深い暗転の底へと落ちていった。

「……あ、」

 思い出した瞬間、理由もなく身体が強張り、意識とは関係なく膝が小さく震えた。力を入れて踏ん張ろうとしても、その震えは簡単には止まらず、まるで恐怖そのものが骨の奥に染みついているかのようだった。胸の奥がひやりと冷え、息が浅くなる。あれは都合よく脳が作り出した夢ではない。目が覚めれば消えてしまうような曖昧な幻でもない。あの瞬間の衝撃も――迫り来る影の圧迫感も――耳に残る音も――すべてが現実として、今も鮮明に身体の内側に刻み込まれている。思い出すたびにこうして膝が震えるという事実そのものが、それを何よりも雄弁に物語っていた。

「トラックに撥ねられて即死じゃ。苦しむ暇もなかったのはせめてもの救いかの」

「……そう、ですか」

「さて、本題だ。お主には二つの選択肢がある。一つ。ここで完全に死を受け入れ輪廻の流れに還ること」

 一つ目の選択肢を口にしたとき、神はわずかに視線を伏せる。その眼差しは冷淡でも突き放すものでもなく、ただ淡々と世界の理として避けられない流れを示すようだった。拒もうが、縋ろうが、いずれ誰もが辿る道――そう語らずとも、その沈黙が雄弁に物語っている。

「二つ目は第二の人生として世界を謳歌出来るようにしよう。その代わり、わしの頼みを聞いてもらう」

 そして二つ目を告げると同時に、神は静かに視線を上げ、まっすぐにこちらを見据えた。その瞳には光が宿っているようにも、底知れぬ闇が揺らいでいるようにも見え、希望と危うさが同時に混じり合った不思議な圧を放っていた。『世界を謳歌できる』という言葉とは裏腹にその裏にある責任と重みを無言のまま突きつけてくる。

「……頼み、ですか?」

「そうだ。お主には世界を救ってほしい」

 『世界を救う』――その言葉はあまりにも抽象的であまりにもスケールが大きすぎた。耳にした瞬間、胸の奥がわずかにざわついたものの、実感と呼べるものはどこにも湧いてこない。ただ音として、概念として頭の中を通り過ぎていっただけだった。

「拒否しても構わん。その場合、お主の人生はここで終わりだ」

 選択を迫られている――そう自覚した瞬間、胸の奥がじわりと重くなった。
 それは誰かに優しく差し出されたものではなく、拒否権の形だけを与えられたあまりにも一方的な選択肢だった。

 理不尽だ。
 あまりにも唐突で心の準備など欠片も出来ていない。ただ目の前に突きつけられた二つの道のどちらかを選べと迫られている。選ばなければならないという事実だけが重圧となって肩にのしかかってくる。

 逃げ場はない。
 目を逸らしても、黙り込んでも、この場から立ち去ろうとしても、何一つ状況は変わらないのだと直感的に理解してしまっている。これは避けられない。選択を先延ばしにすることすら許されない。

 それでも――このまますべてが終わるという結末だけは受け入れたくなかった。

「……その第二の人生って、ちゃんと生きていいんですよね?」

「もちろんだ。悩み、迷い、時には傷つくこともあるじゃろうがそれも人生というものよ」

 神の言葉を聞いて空は小さく息を吐いた。

「……それなら、第二の人生を選びます」

 理由はひどく単純だった。難しい理屈や崇高な使命感があったわけではない。胸を張って語れるような大義名分、世界を変えたいという大それた願い、そんなものは彼の中に存在しなかった。

 ただ――まだ、やりたいことが残っている。それだけだった。

 誰かと向かい合って言葉を交わあってどうでもいい話に笑い合う。特別な出来事でなくていい。何気ない一日で構わない。声を出して、相手の反応を確かめて、そこに自分が『いる』と実感できる時間をもう一度味わいたい。

「ほう……」

 神は満足そうに頷きゆっくりと笑った。

「良い覚悟だ、高峰 空。では――第二の人生を始めよう」
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