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案内役の天使
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神の言葉を聞き終え、空は無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
足元は相変わらず白一色で立っているという感覚すら曖昧だ。それでも、次の瞬間にはどこか別の世界へ放り出される――そんな予感だけはやけに現実味をもって胸の奥に居座っている。
覚悟を決めるというほど大げさな行為ではなかった。
命を懸けるだとか、取り返しのつかない決断を下すだとか、そういう重たい言葉が似合う場面でもない。ただ、ほんの一瞬、胸の奥に溜まっていたものを整理するためのささやかな区切りに過ぎない。
彼はゆっくりと息を吸い込んだ。白に満ちた空間の中で自分の肺が膨らんでいく感覚だけがやけに生々しく伝わってくる。冷たくも熱くもない空気が喉を通り胸の奥まで満たされていくにつれて、ざわついていた思考が少しずつ静まっていった。
そして、同じだけの時間をかけて息を吐く。肺の中に溜まっていた空気と一緒に余計な力や迷いが外へ流れ出ていくような気がした。何かが劇的に変わったわけではない。それでも、たった一度の呼吸が彼の意識を現実へと引き戻し、次の一歩を踏み出すための最低限の準備を整えてくれた。
「よし!いつでも行けます!」
「その前に、じゃ」
今にも踏み出そうとした、その意気込みを真上から押さえつけるように神の声が被せられた。勢いよく気合を入れていた分だけ、その出鼻をくじかれた感覚は強く、空の肩が思わずぴくりと跳ねる。まるで助走をつけて走り出そうとした瞬間に足元の地面が消えたような気分だった。構えていた心と身体だけが前のめりになり、実際には何も起きていないのに、空は一瞬だけバランスを崩しかける。
「え、今そこで止めるのかよ……」
そんな言葉が喉元までせり上がるのを必死で飲み込みながら、空は肩に入った力を抜こうとした。だが、気合だけが空回りしたその間の抜けた感覚はなかなか消えてくれなかった。
「別の世界に放り出すのに丸腰で放り出すほどわしも薄情ではない」
「……はあ」
どう返答するのが正解なのか判断がつかず思考だけがその場に取り残される。言葉を選ぼうとしたはずの口は結局なにも掴めないまま半開きになり、意味を持たない曖昧な相槌だけが、意図せず喉の奥から零れ落ちた。自分でも驚くほど感情の乗らないその音は、白い空間に吸い込まれるようにして消えていく。
しかし、そんな反応など最初から想定の内だったかのように神は一切気にしていない。空の戸惑いや沈黙を気に留める様子もなく表情一つ変えず、ただ事実を告げるような調子で淡々と言葉を続けていった。
「世界を救うなどという役目を課す以上、それに見合った力が必要じゃろう」
その言葉を耳にした瞬間、空は思わず息を呑んだ。自覚のないまま、喉の奥がひくりと震え、乾いた音が小さく鳴る。飲み込んだ唾がやけに重く感じられた。胸の内では期待と警戒が絡み合い、心拍がわずかに早まっていくのがはっきりと分かる。
――力。
――能力。
その響きが頭の中で反芻される。現実味のない単語のはずなのに不思議と否定する気にはなれなかった。ここが現実でない以上、そんなものが存在してもおかしくないと、どこかで納得してしまっている自分がいる。いわゆる、チート。漫画やラノベで何度も目にしてきた主人公だけに与えられる特別待遇。都合が良すぎるほどの力を手に入れ、理不尽な世界をねじ伏せるための切り札。
「……力、ですか?」
「うむ。お主にはこれを授けよう」
神がそう告げると同時に静かに片手を持ち上げた。その動きに呼応するかのように先ほどまで均一だった白い空間の一角が、わずかに、しかし確かに歪み始める。何もないはずの場所が熱を帯びた空気のように揺らぎ、輪郭の定まらない波紋を描いて広がっていく。白は白のままでありながら、濃淡を持ち、まるで空間そのものが軋む音を立てているかのようだった。
やがて、歪みの中心へと微細な光が引き寄せられ始める。点在していた光の粒は互いを求めるように流れ込み、絡み合い、次第に速度を増していく。それは偶然の集積ではなく明確な方向性を持った動きだった。光は集まり、重なり、押し合いながら収束していった。まるでそこに形を得ようとする意志が存在しているかのように白い空間の中でただ一点へと凝縮されていった。
「『ゼロ・ディバイド』極めれば全てを『断つ』ことが出来る力だ」
「……断つ?」
聞き返すと神は頷いた。
「物の硬さなど関係ない。斬りたいものを斬る力と言ってもいいじゃろう。もちろんおぬしが使いこなせればじゃがな」
――切る力。
その言葉が、頭の奥で静かに反響した。
切る。それは本来、刃を当て力を加え硬さに抗いながら行う行為のはずだ。相手が柔らかければ容易く硬ければ困難になる。剣を振るうとはそういう理屈の上に成り立っている――少なくとも、空が知っている限りでは。
だが、神の口から語られた『ゼロ・ディバイド』はその前提を根こそぎ否定していた。物の硬さは関係ない。斬りたいものを斬る力。それはもはや、剣技や膂力の延長線上にあるものではない。世界の側に引かれている『切れる/切れない』という境界線そのものを意志で引き裂くような――そんな、常識の外側にある力だ。
空は無意識に自分の掌を見つめていた。そこには特別な変化は何もない。血の通った人間の手だ。それでも、この手に何かを握り振るった瞬間、世界の理屈が一つ壊れる――そう言われている気がしてならなかった。
「……分かりました。なんとなくですけど」
神は満足したように一つ頷くと、ふっと視線を横に逸らした。
「さて。能力だけでは足りん」
「……まだ何かあるんですか?」
「世界を渡る以上、案内役が必要じゃ」
その言葉と同時に、神は白い空間の奥へ向かって声を投げた。
「出てくるがよい」
一瞬の静寂。
次の瞬間――空気がやわらかく揺れた。
白の中に淡い光が滲む。
それは次第に輪郭を持ち人の形を成していく。
現れたのは、一人の少女だった。
年の頃は十四、十五……多く見積もっても十六ほどだろうか。
透き通るように白い肌に、淡い金色の髪。腰あたりまで伸びたその髪は光を受けて柔らかく輝き、前髪が目元を優しく縁取っている。澄んだ青の瞳は、空や春先の空気を思わせる透明感を湛えていた。
白を基調とした簡素なワンピース型の装束。
装飾はほとんどなく、それがかえって彼女の神聖さを際立たせている。背中には純白の翼が一対。大きすぎず、小さすぎず、静かに畳まれていた。
その少女は空を見て柔らかく微笑む。
「はじめまして。案内役を務めさせていただきます」
鈴の鳴るような穏やかな声だった。
「私の名前はシエルです」
空はしばらく言葉を失ったまま、彼女を見つめていた。
足元は相変わらず白一色で立っているという感覚すら曖昧だ。それでも、次の瞬間にはどこか別の世界へ放り出される――そんな予感だけはやけに現実味をもって胸の奥に居座っている。
覚悟を決めるというほど大げさな行為ではなかった。
命を懸けるだとか、取り返しのつかない決断を下すだとか、そういう重たい言葉が似合う場面でもない。ただ、ほんの一瞬、胸の奥に溜まっていたものを整理するためのささやかな区切りに過ぎない。
彼はゆっくりと息を吸い込んだ。白に満ちた空間の中で自分の肺が膨らんでいく感覚だけがやけに生々しく伝わってくる。冷たくも熱くもない空気が喉を通り胸の奥まで満たされていくにつれて、ざわついていた思考が少しずつ静まっていった。
そして、同じだけの時間をかけて息を吐く。肺の中に溜まっていた空気と一緒に余計な力や迷いが外へ流れ出ていくような気がした。何かが劇的に変わったわけではない。それでも、たった一度の呼吸が彼の意識を現実へと引き戻し、次の一歩を踏み出すための最低限の準備を整えてくれた。
「よし!いつでも行けます!」
「その前に、じゃ」
今にも踏み出そうとした、その意気込みを真上から押さえつけるように神の声が被せられた。勢いよく気合を入れていた分だけ、その出鼻をくじかれた感覚は強く、空の肩が思わずぴくりと跳ねる。まるで助走をつけて走り出そうとした瞬間に足元の地面が消えたような気分だった。構えていた心と身体だけが前のめりになり、実際には何も起きていないのに、空は一瞬だけバランスを崩しかける。
「え、今そこで止めるのかよ……」
そんな言葉が喉元までせり上がるのを必死で飲み込みながら、空は肩に入った力を抜こうとした。だが、気合だけが空回りしたその間の抜けた感覚はなかなか消えてくれなかった。
「別の世界に放り出すのに丸腰で放り出すほどわしも薄情ではない」
「……はあ」
どう返答するのが正解なのか判断がつかず思考だけがその場に取り残される。言葉を選ぼうとしたはずの口は結局なにも掴めないまま半開きになり、意味を持たない曖昧な相槌だけが、意図せず喉の奥から零れ落ちた。自分でも驚くほど感情の乗らないその音は、白い空間に吸い込まれるようにして消えていく。
しかし、そんな反応など最初から想定の内だったかのように神は一切気にしていない。空の戸惑いや沈黙を気に留める様子もなく表情一つ変えず、ただ事実を告げるような調子で淡々と言葉を続けていった。
「世界を救うなどという役目を課す以上、それに見合った力が必要じゃろう」
その言葉を耳にした瞬間、空は思わず息を呑んだ。自覚のないまま、喉の奥がひくりと震え、乾いた音が小さく鳴る。飲み込んだ唾がやけに重く感じられた。胸の内では期待と警戒が絡み合い、心拍がわずかに早まっていくのがはっきりと分かる。
――力。
――能力。
その響きが頭の中で反芻される。現実味のない単語のはずなのに不思議と否定する気にはなれなかった。ここが現実でない以上、そんなものが存在してもおかしくないと、どこかで納得してしまっている自分がいる。いわゆる、チート。漫画やラノベで何度も目にしてきた主人公だけに与えられる特別待遇。都合が良すぎるほどの力を手に入れ、理不尽な世界をねじ伏せるための切り札。
「……力、ですか?」
「うむ。お主にはこれを授けよう」
神がそう告げると同時に静かに片手を持ち上げた。その動きに呼応するかのように先ほどまで均一だった白い空間の一角が、わずかに、しかし確かに歪み始める。何もないはずの場所が熱を帯びた空気のように揺らぎ、輪郭の定まらない波紋を描いて広がっていく。白は白のままでありながら、濃淡を持ち、まるで空間そのものが軋む音を立てているかのようだった。
やがて、歪みの中心へと微細な光が引き寄せられ始める。点在していた光の粒は互いを求めるように流れ込み、絡み合い、次第に速度を増していく。それは偶然の集積ではなく明確な方向性を持った動きだった。光は集まり、重なり、押し合いながら収束していった。まるでそこに形を得ようとする意志が存在しているかのように白い空間の中でただ一点へと凝縮されていった。
「『ゼロ・ディバイド』極めれば全てを『断つ』ことが出来る力だ」
「……断つ?」
聞き返すと神は頷いた。
「物の硬さなど関係ない。斬りたいものを斬る力と言ってもいいじゃろう。もちろんおぬしが使いこなせればじゃがな」
――切る力。
その言葉が、頭の奥で静かに反響した。
切る。それは本来、刃を当て力を加え硬さに抗いながら行う行為のはずだ。相手が柔らかければ容易く硬ければ困難になる。剣を振るうとはそういう理屈の上に成り立っている――少なくとも、空が知っている限りでは。
だが、神の口から語られた『ゼロ・ディバイド』はその前提を根こそぎ否定していた。物の硬さは関係ない。斬りたいものを斬る力。それはもはや、剣技や膂力の延長線上にあるものではない。世界の側に引かれている『切れる/切れない』という境界線そのものを意志で引き裂くような――そんな、常識の外側にある力だ。
空は無意識に自分の掌を見つめていた。そこには特別な変化は何もない。血の通った人間の手だ。それでも、この手に何かを握り振るった瞬間、世界の理屈が一つ壊れる――そう言われている気がしてならなかった。
「……分かりました。なんとなくですけど」
神は満足したように一つ頷くと、ふっと視線を横に逸らした。
「さて。能力だけでは足りん」
「……まだ何かあるんですか?」
「世界を渡る以上、案内役が必要じゃ」
その言葉と同時に、神は白い空間の奥へ向かって声を投げた。
「出てくるがよい」
一瞬の静寂。
次の瞬間――空気がやわらかく揺れた。
白の中に淡い光が滲む。
それは次第に輪郭を持ち人の形を成していく。
現れたのは、一人の少女だった。
年の頃は十四、十五……多く見積もっても十六ほどだろうか。
透き通るように白い肌に、淡い金色の髪。腰あたりまで伸びたその髪は光を受けて柔らかく輝き、前髪が目元を優しく縁取っている。澄んだ青の瞳は、空や春先の空気を思わせる透明感を湛えていた。
白を基調とした簡素なワンピース型の装束。
装飾はほとんどなく、それがかえって彼女の神聖さを際立たせている。背中には純白の翼が一対。大きすぎず、小さすぎず、静かに畳まれていた。
その少女は空を見て柔らかく微笑む。
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