死んだ俺は、神に頼まれて世界を救うことになった

藤井 サトル

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ノクスディア

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 白に満たされた空間の中で、空はしばらく瞬きを忘れていた。視界にあるのは先ほどまで世界そのものを塗り潰していた白と――その白の中に、唐突に現れた『異物』。

 ――少女だった。

 白を背景にしてなお埋もれない、淡い金色の髪。腰のあたりまで流れるそれは不思議と風に揺れることもなく、絹糸のように静かに形を保っている。透き通るように白い肌はこの空間と溶け合ってしまいそうで、それでいて確かに『人』としての存在感を放っていた。澄んだ青の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめているのに気づいた瞬間、空は反射的に息を止めていた。

 ――綺麗だ。

 頭の中に浮かんだ感想はそれだけだった。言葉にしようとしても喉の奥で引っかかる。何かを言わなければならない気がするのに何をどう言えばいいのかが分からない。ただ立ち尽くし、見惚れるように少女を見つめ続けてしまう。

 そんな空の様子を知ってか知らずか、少女は小さく首を傾げ、そして――

 一歩。

 静かにこちらへと歩み寄ってきた。足音はほとんど聞こえない。それでも、距離が縮まったことははっきりと分かった。彼女が一歩踏み出しただけで、白い空間の密度が変わったように感じられる。柔らかな微笑みを浮かべたまま、ほんのわずかに間合いを詰める。その表情には警戒も戸惑いもなく、初めからここに空がいることを知っていたかのような落ち着きがあった。

 案内役としての自覚――いや、それ以上に役割を理解し受け入れている者だけが持つ自然な自信。その佇まいは、空に向けられた『安心』そのもののようで、緊張で強張っていたはずの胸の奥が、わずかに緩むのを彼自身も自覚していた。
それでもなお言葉は出てこない。

 空はただ、その少女――シエルを前に立ち尽くすことしかできなかった。

 そして――二歩目。

「……っ」

 二歩目に足を出した瞬間、彼女の足先が、白い床の感触を正しく捉え損ねる。見た目には確かに『床』がある。だが、どこか現実味の薄いその空間は、感覚のズレを許容しないほど確かなものではなかった。

 わずかな躊躇。ほんの一瞬の重心の揺らぎ。次の瞬間、シエルの身体は前のめりに傾き、抵抗する暇もなくそのまま勢いよく――

「むぎゅっ!?」

 思わず喉から漏れ出た間の抜けた声。
 場にまったくそぐわない実に情けない音が、静まり返った白い空間に妙にはっきりと響いた。

 ぺたり、と。
 軽い音を立てて、シエルは床――のようなものの上にうつ伏せのまま倒れ込んでいた。細い腕は前に投げ出され、額はぴたりと白に触れている。

 衝撃そのものは大きくなかったはずなのに完全に油断していた分、本人の動きはしばらく止まったままだ。

 背中からは、ばさり、と慌てた音が立つ。驚きに反応したのか彼女の純白の翼が本人の意思とは無関係に広がっていた。

 まるで『今のは想定外です』とでも言いたげに不揃いに揺れている。

 ――しん、とした空間に残ったのは倒れ伏した天使の姿と、どこか気まずい沈黙だけだった。

「……」

 音のない白い空間に今しがたまで響いていたはずの気配すら溶け込んでいく。風もなく床も境界を主張しないその世界では、時間だけが静かに足を止めたようだった。うつ伏せのまま動かないシエルの小さな背中がやけに鮮明に目に映る。純白の中で彼女の金色の髪と白い衣だけが、かろうじて存在を主張していた。

 空はその光景を見下ろしたまま、一瞬、完全に思考を止めていた。
 状況を理解しきれないまま、ただ『起きた事実』だけが視界に残る。

 ――転んだ?盛大に?

 ようやくその認識が追いついたとき、胸の奥がひくりと揺れる。反射的に息を吸い、身体がわずかに前へ出た。
 そして空は我に返る。

 言葉より先に不安が湧き上がったこの白い空間に痛みという概念があるのかどうかも分からない。それでも、倒れたまま動かない彼女の姿が胸をざわつかせるには十分だった。空の視線は自然とシエルへと向いたまま離れなかった。

「だ、大丈夫か!?」

 慌てた様子で駆け寄った空は、シエルの傍まで来ると、その場にしゃがみ込んだ。
 思わず伸ばした手は彼女の肩に触れる直前で一瞬だけ迷い、けれど次の瞬間にはそっと確かめるように差し出される。転んだ後に動かなくなったことを見ると打ちどころが悪かったのかもしれない。そんな最悪の想像が頭の中をよぎっていた。

 だが、その様子を横目で見ていた神はわざとらしくも控えめな咳払いを一つ落とす。

「――問題ない。初仕事じゃから少し力が入っただけじゃろ。若いもんはそういうところがある」

 そう言いながらも、神様の視線は定まらずに左右へと落ち着きなく泳いでおり、平静を装っている態度とは裏腹に、こめかみのあたりにはわずかな冷や汗がにじみ出ていた。

「え、いや、でも……」

 しかし、焦りに支配されていた空にはその神様の言動に潜む違和感を見抜く余裕はなかった。疑念を形にできないまま、彼の視線は神様とシエルのあいだを何度も往復する。まるで答えを探すようにあるいは縋るように。

 そんな空の様子をよそに当の本人――シエルの身体がわずかに動いた。

 床に伏せていた小さな身体がこくりと一度揺れたあと、もぞもぞと不器用な動きで起き上がる。両手を床についたまま一瞬固まり、それから恐る恐る顔を上げた。

 澄んだ青い瞳は衝撃の名残でわずかに潤み瞬きをするたびに今にも涙が零れ落ちそうだ。頬から耳にかけては一気に熱を帯び、真っ赤になった顔を両手で隠すように俯く。その仕草は痛みよりも盛大に転んでしまった恥ずかしさを誤魔化そうとしているようだった。

 小さく息を吸い込み、何事もなかったかのように姿勢を正そうとするがどこかぎこちない。羽根のように軽い動きのはずなのになぜか一つ一つがずれていて――その不器用さがかえって彼女の可愛らしさを際立たせていた。

「だ、大丈夫です……!」

 声をやや震わせながらシエルは慌てて笑顔を作った。

「よくあること、ですから……その、慣れてますし……!」

 そう言いながらシエルは床に手をついて立ち上がろうとした。しかし体の重心がまだ定まっていないのか足元がわずかに揺れ、細い身体がぐらりと傾く。
 その瞬間、空は考えるよりも早く腕を伸ばしていた。

「危ない――」

 差し出された手を前にシエルは一瞬だけ動きを止めきょとんと目を瞬かせる。まるでそんなふうに手を取られることを想定していなかったかのように。だがすぐに柔らかな表情を浮かべると、遠慮がちにその指先へと自分の手を重ねた。触れた掌は驚くほど細く、ひんやりとしていて、空は思わず力を入れすぎないよう気を配る。シエルは空の手を支えにゆっくりと体を起こした。

「……ありがとうございます、空さん」

 神はそのやり取りを眺めながらどこか愉快そうに口元を緩める。

「見ての通りじゃ。少々抜けてはおるが、案内役としての能力に支障はない」

「少々、ってレベルですかそれ……」

 思わず、胸の奥に溜め込んでいた本音がそのまま口をついて出た。言葉にしてしまった瞬間、空は自分で自分に驚きわずかに息を詰める。

 それを聞いたシエルは、一瞬だけ動きを止めたかと思うとゆっくりとこちらに視線を向ける。そして、ほんのわずかに——本当に拗ねた子どものように——頬を膨らませた。不満を声にするほどではないが納得していないという気持ちだけが、その小さな仕草にはっきりと滲んでいた。

「もー……ちゃんと出来ますよ。たまたまです。たまたま!」

 語尾がわずかに砕け、硬く整えられていた言葉の輪郭がふっと崩れた。
 それを見た瞬間、空の胸の奥に張り付いていた緊張がようやく息を吐くようにほどける。無意識に詰めていた呼吸が静かに流れ、強張っていた肩から力が抜けた。

「……そっか。なら、いいんだけれど」

「では、今度こそ送り出そう。二人とも、心の準備はよいか?」

「……はい」

「だ、大丈夫です!」

 先ほどまで胸の奥に渦巻いていた不安はシエルとのやり取りを経て静まっていた空は一度、深く息を吐く。肩の力が抜け、落ち着いた調子でしっかりと神様に向かって頷いた。

 一方でシエルは小さく背筋を伸ばし、はっきりとした声で返事をする。不安を振り払うような、けれどどこか自分自身を鼓舞するような響きだった。

 ――その言葉が白い空間に溶けきるより早く異変は起きた。

 何もなかったはずの空間が水面のように揺らぎ始める。視界を満たしていた純白が歪み、輪郭を失い、世界そのものが不安定に軋んだ。

 次の瞬間、足元から眩い光が立ち上った。床という概念が消えて光が身体を包み込み輪郭をなぞる。視界は白に塗り潰され、滲み、遠近感が曖昧になっていく。ふわり、と身体が持ち上がった。重力が反転したかのような浮遊感が内臓ごと揺さぶり、上下の感覚が意味を失う。耳に届いていたはずの音は遠ざかる。

 空は反射的に目を閉じた。
 理由を考えるよりも早く全身が本能的に拒絶を示したのだ。

 ――直後。

 足元も、重力も、空気の感触すらも失われ世界そのものが内側から弾け飛ぶように切り替わった。引き裂かれる感覚はない。ただ、今まで『そこにあったはずのすべて』が音もなく塗り替えられる。一拍にも満たない刹那、それでも確かに現実が裏返ったと分かった。

 次の瞬間、まぶたの裏を突き刺すような光が押し寄せる。

 空は思わず眉をひそめ目を細めた。白く滲んだ視界の向こうで初めて感じる風と温度が自分がまだ生きて――いや、存在していることを強く主張してくる。

 視界いっぱいに飛び込んできたのはどこまでも澄み切った青空だった。作り物めいた白一色の空間とは違い、色そのものが押し寄せてくる。高く、果てが見えないほど広がる蒼。そこに浮かぶ雲は輪郭を溶かすようにゆったりと流れ、時の進みすら緩やかに感じさせた。空気は澄み、胸いっぱいに吸い込むだけで肺の奥まで洗われていくような感覚がある。白の世界で曖昧だった『立っている』という感覚が今ははっきりと存在として実感できた。

 ――ここは、間違いなく現実であり、そして異世界だった。

「……わ」

 足元にはどこまでも続くかのような鮮やかな緑の草原が広がっていた。一本一本の草は生命力に満ち、陽光を受けて瑞々しく輝いている。踏みしめれば柔らかく弾力のある感触が靴底越しに伝わってきそうだった。穏やかな風が吹き抜けるたび、草原は波打つように揺れ、さわさわと小さな音を立てる。

 その風に運ばれて、湿り気を含んだ土の匂いと青々しい植物の香りが混じり合い、鼻先を優しくくすぐった。胸いっぱいに息を吸い込むと身体の奥まで洗われていくような心地よさがある。

 さらに視線を上げると草原の奥――なだらかに弧を描く地平線の向こうにひとつの街が姿を現していた。石造りの建物が肩を寄せ合うように並び、白や灰色の壁、赤茶けた屋根が陽光を反射している。その光景は無機質な構造物でありながらも不思議と温かみを帯びていた。

 煙突のような突起や尖った屋根が遠目にも確認でき、そこに確かに人が集い、暮らし、営みを重ねていることが伝わってくる。静かな草原の先に存在するその街はこの世界が決して無人の地ではないとはっきりと示していた。

「……ここが――異世界」

 隣でシエルが小さく頷く。

「はい。そして空さんが救う世界「ノクスディア」です」

 その声はさっき転んだ少女のものとは思えないほど、穏やかで確かな響きを持っていた。
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