ハルホール

沢麻

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俺とブラックタイガー

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 俺は頭がおかしくて、変態だ。

 先刻安全ピンを刺した臍を触ってみる。なんだか熱く、安全ピンがしっくりこない角度で装着されている。じっくりと見てみたくなり、部屋の明かりを点けた。午前三時だ。
 真夜中に部屋で一人で安全ピンを臍にくっつけている自分に急に違和感を覚え、俺は安全ピンを抜くことにした。穴を開けた時も俺の臍の周りの皮は張りがあり、相当苦戦した。しかしいざ抜こうとすると皮は安全ピンに密着し、離れたくないという様子を醸し出している。安全ピンも俺の一部になったつもりでいる。
 簡単に俺にはさせない。
 歯を食いしばり、安全ピンを抜いた。何事も刺すときにはじわじわと時間をかけて行動するのが好きだが、出来れば抜くときはスピーディーにやりたい。しかし、若干時間がかかってしまった。取り外し後の色白な臍の周りは綺麗なピンク色になっている。
 深く息をした。抜くのもなかなかの快感だった。
 
 俺は穴を開けることに悦びを見出だしているのだ。
 
 最初にこの感情が呼び覚まされたのは中学生の時だ。友達がピアスを開けたいから手伝ってくれ、と俺に声をかけた。放課後、友達の自宅で市販のピアッサーを奴の耳にあてがった。それだけでなんとも言えぬ胸の高鳴りを覚えた。一気にやっちゃってくれよ、と、友達は顔を歪めながら言う。待てよ。俺だって心の準備が必要なんだ。何せ生肉に穴を開けるんだ。つらっと出来るもんか。ごちゃごちゃ考え出すと止まらなかった。頭の中で大洪水が発生し、俺はパニックに陥りそうになった。ピアッサーを持つ手が震える。こんなので本当に耳に穴が開くのか? こんな簡単に人間の体に穴が開くのか?
 ガチャ。
 ……。
 俺の思考は止まった。友達は大きく息をして、まじびびったー、などと口走っている。徐々に俺に快感の波に飲まれた。やばい。あの感触。肉を貫通するあの快感。凄いことを成し遂げたかのような達成感。これまで生きてきて、こんなに気持ちのいいことはなかった。それから俺は早速自分にもピアスを開けた。男のくせに両耳に開けるのはキモい、と皆に言われたが、片耳一個では当然物足りなく、両耳に二個ずつ開けた。開けたいけれど勇気のない奴は俺に頼め、と言いふらし、中学卒業までに十人、三十一個の穴を開けた。
 周りがだいたい開けてしまうと、俺の欲望は行き場を無くした。仕方がないので自分の耳、唇などに穴を開けては塞ぐ、という非生産的なことをして暮らすことにした。
 最近まで俺は厨房で働いていた。仕事中に、どの食材にどのように穴を開けたら気持ちがいいかということばかりを考え、実験した。一番気持ちがいいのは豚カツ用の豚肉の筋を切る時だった。包丁を突き立て、ブチッ、ブチッ、という感触を味わう。たまらない。イカの使わない部分を好きに調理して食べていい、と言われた時も、生のイカに爪楊枝を刺して快感を得た。火が通っているものよりも生のもののほうが気持ちいい。必死に抵抗しても結局俺に刺されるところが愛おしい。
 俺は絶対頭がおかしい。
 
 コンビニに買い物に行こうと、早朝出発した。勿論寝ていない。無職とは気楽だ。二十四時間という枠の中で生きる必要がない。俺は無職で、脛かじりだ。俺が働かなくなってから、いや、働いている時ですら、親が仕送りしてくる。金が足りなくなっても電話一本ですぐに給料日直後のように懐が潤う。さっきも午前五時半だというのに構わず母親に電話して十万円送るように言った。
 「俊ちゃん、無理しなくていいからね」
 母親はいつも言う。無職になってすぐは、罪悪感に襲われた。このままでいいのか。働いていないなんてクズだ。自分を責めた。しかし今となってはこのままでいいとしか思えない。親が金を振り込み続ける限り、きっと俺はこのままでいい。いつまでも「ちゃん」付けで呼ばれることも最初は嫌だったが、金を貰っているので別にどうでもよくなった。金がある親が悪いのか、働かない俺が悪いのかはわからないが、悪者を無理して作る必要もない。
 コンビニで親から貰った金で食材を買い込んだ。無意識のうちに一日分しか買わない癖がついた。きっと毎日コンビニに来たいという深層心理が働いているのだろう。俺は他に外出する場所があまりないのだ。何せ無職、しかも求職中というわけでもない。自宅療養中とでも言おうか。コンビニまでは徒歩十分くらいだ。頑張って亀のようにスローに行動しても、往復で三十分。俺が外界と接する時間は三十分間しかない。
 いつもコンビニの裏で猫を見かける。一匹だ。ブラックタイガーという海老に似た模様がついているので、俺は奴を勝手にブラックタイガーと命名した。雄なのか雌なのかはわからない。コンビニのゴミ箱を狙って虎視眈々としている。親の金でのうのうと暮らしている俺は、正直ブラックタイガーに憧れた。独りでも堂々と生きているその様はかっこよかった。コンビニの店員と過酷なバトルを繰り広げているかもしれない。市役所や保健所に連絡されたら命を落とすかもしれないというのに、奴はふてぶてしい顔でゴミ箱を漁るのだろう。しかも野良で汚いくせに、何か気品のようなものを感じさせる。猫という生き物がそうなのか。俺は気軽にブラックタイガーに食材を与えてはならないような気がして、いつも素通りしてしまう。お前みてぇなダメ男に貰う食い物なんてねぇよ。ブラックタイガーはそう俺に言っている。俺は完全にブラックタイガーになめられている。あいつに穴を開けたらどんな感じなのだろう。いつかやってやりたい。俺を見下したことを後悔するだろう。俺がブラックタイガーを超えるのはその時だ。
 いつものようにコンビニの裏を見に行った。ちょうどブラックタイガーがこちらに向かって歩いてきて、俺と目が合った。どこかへ行くようだ。
 おい。どこへ行くんだ。
 俺は念を送った。ブラックタイガーは動じずに、俺を無視して歩いている。どうやら俺の家とは逆方向だ。ついていってみようか。別に無職で暇で予定などない。これから帰って寝ようと思ったが、あとにしよう。
 ブラックタイガーは歩道を堂々と歩いた。早朝すぎて人があまりいないもいうのもあるだろうが、まさしく奴の生き様そのものだ。一方俺はブラックタイガーの斜め後ろを、つまり歩道の端っこを狭そうに歩いている。確実に負けている。
 たまに尻尾を切断された猫を見ることがあるが、ブラックタイガーのそれは素晴らしく立派だった。汚いがボリュームのある毛でふさふさとしている。ここに穴を開けるというのはどうだろう。いや、尻尾は丸くて安定感がないから、気持ちよく開通しない可能性がある。そもそも猫は柔らかいイメージがある。穴を開けるに相応しい肉は、ある程度の弾力と硬さを必要とする。ふにゃっとしたものに穴を開けるのは労力の無駄だ。となるとまずは耳が無難か。少し硬いイメージがあるので、安全ピンなどの針で開けるより刃物を突き立てたほうが気持ちいいのは歴然だった。まぁまず耳に穴を開け、尻尾や胴体は触ってみてから考えるか。
 俺が自分に穴を開ける算段をしているなんて微塵も思っていないブラックタイガーは、公園に入っていった。寂れた印象の公園だ。砂場とベンチしかない。昼間は子供も利用せず、夜はヤンキーも利用しないような感じだ。犬の散歩コースの一部くらいにはなるかもしれないが、一体ブラックタイガーはこの公園に何の用か。それともここは目的地ではなく通過点か。まさかここに住んでいるのでは。俺は久しぶりにわくわくしていた。
 ブラックタイガーはベンチの方へ向かった。俺はそのベンチに人が腰掛けていることに気付いた。老婆だ。こんな早朝に何をしているんだ。いや、年寄りは早起きして犬の散歩をする傾向があると聞いたことがある。しかし犬の類いは見当たらず、どう見てもばあさんは単品。まさか野良と信じていたブラックタイガーの飼い主ではあるまいな。
 「おはようございます」
 老婆は俺に気付き、声をかけてきた。仕方ない、俺も会釈をした。
 「あなたの猫ですか?」
 俺が思っていたことを老婆が先に言葉にした。良かった。こいつは飼い主じゃない。一瞬俺の猫だと嘘を吐こうかと頭が働いたが、やめた。ブラックタイガーにますます軽蔑される気がした。俺は黙って首を横に振った。
 「そうですか。私は毎日この子とここで待ち合わせしてるんですよ。今日はさばの煮物を作ってきたから、分けてあげようと思ってね」
 老婆は懐からタッパーを取り出し、ブラックタイガーの足元に置いた。ブラックタイガーは当然のような顔をしてそれを貪る。なるほど、餌付けしているらしい。
 それよりこの人、何故初対面の俺にこんなに積極的に話しかけてくるのか理解に苦しむ。あんたは毎日ここに来ているかもしれないが、俺は初めて来たんだ。ブラックタイガーを尾行したのだって初めてだ。そもそも俺は暫く他人と話していなかったせいか、話し方を忘れたようだ。それでなくてもこんな年上の人間、違う生き物としか思えない。どう接していいのかわからない。母親に金の無心をする時くらいしか会話をしないこの俺が、こんな異世界の住人と会話できるわけがない。走ってこの場を去ろうか。いや、それではまたブラックタイガーが俺を馬鹿にする。
 久しぶりの肉声に混乱した俺をよそに、老婆はブラックタイガーを眺め楽しそうにしている。そんな表情を向けちゃ負けだ。相手はブラックタイガーだぞ? わかってんのかこの婆さん。あんたは利用されているんだ。
 「ほんと、可愛いねえ、ユキちゃん」
 ユキ?
 「……ユキ、ちゃん?」
 あまりの衝撃に俺は久々に声を発した。発声できたことに一瞬安堵したが、俺のショックはすぐさまそんな感情を奪い去った。
 「私が勝手につけたんですよ。若い頃、もし自分に娘が生まれたらユキとつけるつもりだったの。この子は灰色だけど、もうすっかりユキちゃん」
 「雌なんですか?」
 「そうですよ、美人じゃない」
 なんと。雌だったのか。俺の中でブラックタイガーは性別や種を超えた存在であったのに、婆さんに餌付けされている野良猫の雌のユキちゃんと称されると、なんだか格が下がった。
 しかもよりによって「ユキ」とは。
 俺はまた固まってしまった。対照的に婆さんとブラックタイガーは柔らかい雰囲気で朝日を浴びていた。
 「あなたも座ったら?」

 なんて不思議な一日だったのだろう。俺はあの後、初対面の婆さんと一時間もベンチで話し込むという謎の行動をとってしまったのだ。当然ブラックタイガーはさばを食い終わったら早々に退散した。予定外とはこのことだ。まあ予定などないからいいのだが。
 婆さんは美代さんという名前だった。
 俺がベンチに座ってから、美代さんは自分とブラックタイガー、いやユキちゃんとの歴史を語った。どうやら三ヶ月間も朝この公園で待ち合わせをしているようだ。最初は偶然美代さんの散歩の途中で見かけただけだったが、ある時食べ物を与えてからこういう関係になったらしい。なんと俺とブラックタイガーの歴史より長い。俺が無職になったのは二ヶ月前だから、一ヶ月負けている。
 俺は話している美代さんを横目で観察した。婆さん相手でもまず耳に目がいってしまう自分がいた。ピアスの穴はなかった。美代さんの耳はしわくちゃで、耳たぶ特有の魅力的な弾力がなかった。しかも薄そうだ。この耳じゃ穴を開けても気持ちよくない。では美代さんに穴を開けるとしたらどこだ。きっと全身の皮膚も、耳のようにしわくちゃで張りがないのだろう。まるで火を通した肉のようだ。
 美代さんに相槌を打っているだけの会話形態に飽きた俺は、質問するというスタイルに移行した。一瞬自分のことでも話そうと思ったが、無理だ。久々に他人と話した俺は、自分のことをさらけ出せる状態とは程遠かった。言えたのは名前くらいだ。
 「俊也さんね。よろしく」
 よろしくと言われた瞬間、自分と美代さんに繋がりが出来たことを実感した。初めて行った場所で、初めて話した人と、初めての繋がり。
 どうして自宅で餌付けしないのかと問うと、一人暮らしでアパートの二階だから無理なんだと言われた。独居老人というやつか。俺は高齢者の身体能力についてまったく想像がつかないが、美代さんは階段を昇降できるのだろうか。危なっかしい。一体何歳なんだろう。七十くらいか。祖母がいない俺にはわからない。連れ合いはいないのかと問うと、死んだと言われた。そこから昔話が始まったが、俺は死んだという事実にショックを受け、美代さんのラブストーリーを完全に聞き流した。この人は大切な人間を亡くすということを経験している。それは衝撃だった。
 お互いに公園に何をしに来たのかということにはまったく触れなかった。説明しなくてもわかった。美代さんも俺も、寂しくて暇なのだ。今日のような出会いを、人生のスパイスを求めているだけ。その思いをブラックタイガーに、ユキちゃんに、無理矢理押し付けて公園に来ただけ。
 「では、また」
 話し疲れた美代さんは、俺とは反対方向にゆっくりと去っていった。「また」ということは、またこうやってお話しようということか。それも悪くない気がした。俺は、一人で居すぎた。
 
 家に着いた。俺は寝ていないので眠かったし、何も食べていないので腹が減っていた。
 コンビニで買った食材を開封し、暫く開くことのなかったカーテンを開けた。無意識に明るい中で食事をしようと思った。久々に部屋に日光が入ってきた。目の前の全身鏡に、 弁当を貪る俺が映っている。
 伸びきって根元が黒い金髪。それでも日光が当たって輝いている。
 スウェットの上下にネックレス。痩せている。両耳にはピアス。洗っていない顔。女のような眉毛。穴の開けすぎででこぼこした下唇。不健康そうではあるが、久々に見る自分は好感が持てる。
 美代さん、よくこんなガキと話してくれたな。
 なんだかおかしかった。
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