鄧禹

橘誠治

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第二章 長安編

馮愔叛乱

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 大要に着いてからの鄧禹は、長安へ意識のほとんどを集中した。
 集中の種類は、長安の動静から目を離さないというだけでなく、長安から大要にいる自分たちを意識させないという面もある。赤眉は長安の物資が底を尽き始めていることに焦りをおぼえ、それをどうにかすることだけで頭がいっぱいだが、鄧禹があまりに露骨に長安への侵攻を匂わせれば、さすがに警戒をさせるかもしれない。そうなってはせっかくの好機に水を差してしまう。
「できれば赤眉を長安から引っ張り出したいが…」
 すでに長安はかなりの荒廃を見せているが、鄧禹が侵攻して赤眉と戦えば、さらなる崩壊を招いてしまう。戦うにしても長安での市街戦は避けたいというのが鄧禹の本音だった。
 赤眉をどうおびき出せばいいか。鄧禹の思考はそちらへ傾注しはじめたが、彼の後方――栒邑では、信じられないことが起こっていたのだ。
「積弩将軍、車騎将軍を殺害! さらに兵をひきいて大要へ向けて進軍開始の模様!」
「なんだと!」
 全軍に激震が走る凶報だった。馮愔が宗欽を殺し、自軍へひきいて鄧禹へ攻撃を仕掛けてきたというのだ。
 この遠征始まって以来の大危機であった。


 事はすでに、鄧禹が軍をひきいて大要へ向かったその日から生じていた。
「車騎将軍、我が軍は出撃するゆえ、栒邑はお任せする」
 栒邑の城壁から鄧禹軍を見送っていた馮愔は、傍らにいる宗欽へいきなり告げてきた。その内容もだが、彼の居丈高な態度に宗欽は眉根を寄せ、訊き返す。
「出撃だと? どこへ? 何をしに?」
「大司徒が長安へ攻め込むなら兵はいくらあっても足りぬはず。私も諸県をまわって兵を集めてまいります」
 現在、鄧禹を中心とした主力軍は大要に向かっているが、いくつかの別動隊は、兵や食糧を徴集するためいまだ北道の城邑をめぐっている。中にはまだ降っていない城邑もあるため、攻略そのものも進行中ではあるのだが、馮愔はそのために出撃したいと言うのだ。
「…ならん」
 だが宗欽は許可を出さなかった。当然、馮愔は激昂する。
「なぜにござる!」
「我らへの大司徒の命令は栒邑を守れというものだ。おぬしの軍が出撃すれば、その分守りは薄くなる。ために栒邑が敵に奪わるることあらば、大要の大司徒も根拠地を失って立ち枯れしかねない。徴兵は他の将軍たちに任せておけばよい」
「敵などこの近辺にはもうほとんどおらぬではありませぬか!」
「この時勢、いつどこで誰が寝返るかわかったものではない。それにまだ降っていない城邑もある。それらの兵がいつなんどき栒邑を攻めるかわからぬではないか」
 整然と不可の理由を並べられ言葉を失う馮愔が再反論しようとするのを封じるように、宗欽ははっきりと告げた。
「重ねて命令するぞ。出撃は許さぬ」
 宗欽の断固とした表情と口調に、さすがの馮愔も押し黙り、きびすを返して立ち去っていった。だがその背には不満が満ち満ちているのがあらわであり、宗欽の表情も重いものにならざるを得ない。


 馮愔の意図は明白である。徴兵を口実に栒邑を出て、そのまま長安へ攻め込もうというのだ。
 馮愔は自分だけで長安を落とせるとすら考えている。だがそれは完全な思い上がりである。
 赤眉は迷走しているが、勢力はまだ充分に強大で、馮愔ふういんごときは簡単にほふられてしまうことだろう。
 馮愔が突出すれば、鄧禹も彼を見殺しにするわけにはいかず、長安へ攻め入らざるを得ない。それでは主力である鄧禹の戦力も大幅に減殺され、それどころか全滅の憂き目を見ることになるかもしれないのだ。


 それだけに宗欽としても馮愔の暴走は絶対に止めなくてはならないのだが、なかなかに難事らしいことをいきなり思い知らされる形となり、小さいながらも重いため息をつく。
「憂さ晴らしをさせるにしても出撃させるわけにはいかぬし…酒と女でもあてがい、なだめるしかないか」
 あとは折を見て話し合い、あるいは強権をちらつかせ、飴と鞭をもって時間を稼ぎつつ、鄧禹の長安攻略が始まるのを待つしかないだろう。その段階になれば鄧禹も馮愔を呼び寄せるであろうし、宗欽もようやく肩から重荷を下ろせる。
「なるべく早く始めてもらえればな」
 鄧禹の早期長安侵攻を劉秀と違う理由で願いながら、精神的に凝った肩をほぐすように腕を回しつつ、宗欽も城内へ入って行った。


 次の日から、馮愔は宗欽の命令に表立って逆らうことはなかった。その様子は不満げでありつつも従順なもので、宗欽にとりあえずの安堵を与えた。
「とはいえ油断はできぬ」
 宗欽のこの物言いは味方に対してのものだけに、滑稽こっけいでありながら深刻なものでもある。一日の終わりには酒宴を開き、馮愔や彼の幕僚と語らい、なだめ、すかし、おだて、説得する。宗欽も、馮愔の傲慢さや性情をすべて変えられると考えるほどうぬぼれてはいなかったが、それでもこの遠征の間くらいは抑え込めなければならない。それ以上の改悛かいしゅんはさらなる上位者である劉秀たちにゆだねるべきであろう。


 宗欽はそう腹を決めて馮愔に対し、馮愔の方も不満さは見せながらも宗欽の言うことにうなずいていた。
 それゆえ宗欽の安堵はわずかに深まったのだが、これは甘かった。
 馮愔の傲慢と狡猾は、彼の予想を上回っていたのである。


 数日後、馮愔はいきなり宗欽と彼の幕僚たちを斬って捨てた。
 馮愔は最初から宗欽を殺し、彼の軍隊も手中に収め、鄧禹に叛するつもりであったのだ。
 そのため宗欽を油断させようと、彼の説得にうなずくふりをしていたのである。
 全面的に改心したように見せず、不満を残している風を演じてみせたことが狡猾だった。不承不承ふしょうぶしょうをにじませたがゆえ、宗欽は返って馮愔の真意を見抜けなかったのである。 


 宗欽と彼の幕僚がすべてを殺されたことで、宗欽軍の兵は動転してしまった。馮愔はその隙を突くように、宗欽兵へ恫喝を込めて自分への忠誠を誓わせ、彼の軍を乗っ取ることにも成功した。
「よし、このまま鄧禹も攻め殺すぞ」
 宗欽らを殺したことと倍加した兵に興奮を隠さない馮愔は、副将格である護軍の黄防こうぼうに、すかさず鄧禹へ奇襲をかけることを告げた。黄防とは私人としてもつきあいがあり、友人と言っていい間柄なのだ。当然、この叛乱も馮愔から相談を受け、協力する旨を約している。
「しかし鄧禹に勝てるか」
「あのような孺子、わしがいたからこそここまで勝ち抜いて来られたのだ。あの男はその程度のこともわからぬ無能者だ。わしが負けるはずがなかろう」
 黄防にはそのような懸念がわずかにあったが、馮愔は一笑に付す。彼が主力として鄧禹の武勲に貢献していたのは事実なだけに、この自信に根拠がないわけではないが、すべてが自分の戦果のように豪語するのはさすがに傲慢であった。
 黄防もこの叛乱に勝算を見たからこそ馮愔の誘いに乗ったのだが、友人ほど自信に満ちているわけではないため、かすかな不安は覚えるのだ。
 それでも一度川を渡ってしまった以上、引き返すことはできない。そんなことをすれば謀叛人として殺されるか、逃げて他の勢力へ鞍替えするしかないのだ。
「わかった。鄧禹がこの事態を知る前に一気にかたを付けてしまおう」
「おおよ。このまま出撃だ!」
 腹をくくった黄防の言うことにさらに意気を揚げた馮愔は、兵をひきいて栒邑を出撃した。


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