17 / 56
第三話 錺簪師
⑤辰次は残り仕事を全て片付けてから工房を辞めた
しおりを挟む
「丁度良い家だったわね、あの家」
ゆきは甘酒を飲みながら未だ先ほど見て来た家のことを言っていた。
「あそこならあんたが独り立ちして仕事を始めても工房も確保出来るし、家の者の生活が脅かされることも無いわ」
辰次もその家を見た時、ゆきと同じことを思ったのだった。
大通りに面したお店向きの年季の入った大きな家だった。通り庭を挟んで左側に十畳ほどの板の間が在り、その奥に六畳大の和室が二つ続いていたし、庭の右側には七畳半ほどの板間とその奥に同じ大きさの畳部屋と六畳ほどの台所が並んでいた。飯炊き場と流しはその奥に隣接していた。
十畳の板の間はそのまま仕事場に使えそうだし、右側の板の間も簪などを並べる棚を置いて客に見て貰う広さとしては恰好であった。
品物を並べ仕事場を確保して、夫婦二人が暮らすには十分に広い間取りだった。
間口が狭く家の中が少し暗いのが難点と言えば難点だったが、その他は申し分無かった。一応手付けは打って来たが、二人が其処に住むのは年が明けて辰次が独り立ちする一ケ月後のことである。
「俺たちには贅沢過ぎて勿体無ぇようにも思うが、な」
夕昏前の水茶屋は客の姿もまばらで、二人の話に聞き耳を立てるような者は居なかった。
店の女が手持ち無沙汰に外を見ていた。
辰次の胸には微かな躊躇いがあった。店賃の高さが引っ掛かっていた。今の長屋よりかなりの高値だった。独り立ちして仕事が直ぐに有るとは限らないし、喰っていける保証は何一つ無い。ゆきが共働きをしてくれているとは言え、それを生計の当てにする訳にはいかなかった。ゆきは辰次と一緒になった後も引続いて同じ処に勤めている。切れ長の澄んだ瞳が人を惹きつける十人並みの容姿を持った明るい働き者で、気持も常に前を向いて強いものを持っていた。が生活の面倒までもゆきに背負わせる訳には行かなかった。
気持の底にそんな引っ掛かりを隠して、手放しでは喜べない思いを辰次は口にした。
「良い家だが、二人で住むにはちょいと広過ぎると思うんだが・・・」
「何言っているのよ。子供が出来て、職人さんを雇いでもしたら、直ぐに狭くなるわよ」
「・・・・・」
「それにね、あたし、今までずうっと裏長屋暮らしだったの、だから表店の一軒家に住みたいと前から思っていたの。ううん、解かっているわ、あんたの気持。確かに店賃は高いわ。でも大丈夫、決して贅沢なんかしないし少しは貯えもしてある。仕事はこれからも続けるしあんたに家計の心配なんか掛けはしないわ」
ゆきの本心を打ち明けた話し振りに辰次の心の蟠りは少し解れたようだった。
ま、何とかなるだろう・・・俺も遊んで暮らす訳じゃなし、独り立ちしてばりばり仕事をするのだから、な。
辰次は、座頭の仕事で親方と常吉が別の部屋に籠もった後、年末に掛けて、残っている細々とした仕事を、職人達を急き立てながら滞り無く片付けた。辰次が亀甲堂を辞めたのは暮れも押し詰まった師走の二十九日だった。親方が執拗に引き止めはしたが、辰次はそれを振り切って辞めた。
辰次の胸には一つの思いが沸々と湧き上がっていた。
辰次は自分の創りたいものを自分の手で仕上げたいと思った。亀次郎親方の枠の中で作るのではなく、その制約や呪縛から解き放たれて自由に好きなものを創りたかった。亀甲堂では、たとえ最初から最後まで自分でやらせて貰ったにしろ、それは所詮亀次郎親方の手の中のものでしかなかった。錺簪の仕事は長年積重ねた精緻な技を要する仕事であり、それは止むを得ないことであったかも知れないが、辰次は歌舞伎役者や浄瑠璃人形が着用するような立派なものでなくても、広く一般の人が手にしてくれる身近なものを創りたいと思った。
経つ鳥、後を汚さず、辰次は残り仕事を全て片付けてから工房を辞めた。引き際は綺麗だった。
ゆきは甘酒を飲みながら未だ先ほど見て来た家のことを言っていた。
「あそこならあんたが独り立ちして仕事を始めても工房も確保出来るし、家の者の生活が脅かされることも無いわ」
辰次もその家を見た時、ゆきと同じことを思ったのだった。
大通りに面したお店向きの年季の入った大きな家だった。通り庭を挟んで左側に十畳ほどの板の間が在り、その奥に六畳大の和室が二つ続いていたし、庭の右側には七畳半ほどの板間とその奥に同じ大きさの畳部屋と六畳ほどの台所が並んでいた。飯炊き場と流しはその奥に隣接していた。
十畳の板の間はそのまま仕事場に使えそうだし、右側の板の間も簪などを並べる棚を置いて客に見て貰う広さとしては恰好であった。
品物を並べ仕事場を確保して、夫婦二人が暮らすには十分に広い間取りだった。
間口が狭く家の中が少し暗いのが難点と言えば難点だったが、その他は申し分無かった。一応手付けは打って来たが、二人が其処に住むのは年が明けて辰次が独り立ちする一ケ月後のことである。
「俺たちには贅沢過ぎて勿体無ぇようにも思うが、な」
夕昏前の水茶屋は客の姿もまばらで、二人の話に聞き耳を立てるような者は居なかった。
店の女が手持ち無沙汰に外を見ていた。
辰次の胸には微かな躊躇いがあった。店賃の高さが引っ掛かっていた。今の長屋よりかなりの高値だった。独り立ちして仕事が直ぐに有るとは限らないし、喰っていける保証は何一つ無い。ゆきが共働きをしてくれているとは言え、それを生計の当てにする訳にはいかなかった。ゆきは辰次と一緒になった後も引続いて同じ処に勤めている。切れ長の澄んだ瞳が人を惹きつける十人並みの容姿を持った明るい働き者で、気持も常に前を向いて強いものを持っていた。が生活の面倒までもゆきに背負わせる訳には行かなかった。
気持の底にそんな引っ掛かりを隠して、手放しでは喜べない思いを辰次は口にした。
「良い家だが、二人で住むにはちょいと広過ぎると思うんだが・・・」
「何言っているのよ。子供が出来て、職人さんを雇いでもしたら、直ぐに狭くなるわよ」
「・・・・・」
「それにね、あたし、今までずうっと裏長屋暮らしだったの、だから表店の一軒家に住みたいと前から思っていたの。ううん、解かっているわ、あんたの気持。確かに店賃は高いわ。でも大丈夫、決して贅沢なんかしないし少しは貯えもしてある。仕事はこれからも続けるしあんたに家計の心配なんか掛けはしないわ」
ゆきの本心を打ち明けた話し振りに辰次の心の蟠りは少し解れたようだった。
ま、何とかなるだろう・・・俺も遊んで暮らす訳じゃなし、独り立ちしてばりばり仕事をするのだから、な。
辰次は、座頭の仕事で親方と常吉が別の部屋に籠もった後、年末に掛けて、残っている細々とした仕事を、職人達を急き立てながら滞り無く片付けた。辰次が亀甲堂を辞めたのは暮れも押し詰まった師走の二十九日だった。親方が執拗に引き止めはしたが、辰次はそれを振り切って辞めた。
辰次の胸には一つの思いが沸々と湧き上がっていた。
辰次は自分の創りたいものを自分の手で仕上げたいと思った。亀次郎親方の枠の中で作るのではなく、その制約や呪縛から解き放たれて自由に好きなものを創りたかった。亀甲堂では、たとえ最初から最後まで自分でやらせて貰ったにしろ、それは所詮亀次郎親方の手の中のものでしかなかった。錺簪の仕事は長年積重ねた精緻な技を要する仕事であり、それは止むを得ないことであったかも知れないが、辰次は歌舞伎役者や浄瑠璃人形が着用するような立派なものでなくても、広く一般の人が手にしてくれる身近なものを創りたいと思った。
経つ鳥、後を汚さず、辰次は残り仕事を全て片付けてから工房を辞めた。引き際は綺麗だった。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる