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第三話 錺簪師
⑪辰次はおしのの店に出向いて夕飯を食べた
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ゆきが飲まず食わずで床に伏せっている間、辰次は自分の食い物は、簡単なものは自分で作ったり、出来合いの煮売りを買ったり、居酒屋で済ませたりした。が、それは慣れない辰次にとっては結構大儀で大変であった。ゆきは辰次の食事を殊の外、心配した。
「あんた、栄養の偏りは身体に障るからね。野菜や魚も万遍無く食べてね」
「解っている、大丈夫だ、ちゃんと食っている。余計な心配はするねぇ」
辰次はおしのの店に出向いて夕飯を食べることが多くなっていた。
おしのは、女房の大病で碌なものを食べていない辰次を気遣って、菜っ葉の煮物やお浸し、おばんざいや焼き魚など、店の献立には無いものまで作って提供してくれた。辰次は有難く感謝し、次第に心が昔のようにおしのに寄り沿って行った。
ゆきが二度目に吐いて、治療が最初からもう一度やり直しとなった夜、辰次は気がつくとおしのの店の前にいた。
引き戸を開けて中に入ると、おしのが板場の中で頬杖をついていた。客は居なかった。
近づいた辰次を見て、おしのが小首を傾げて問い掛けた。
「どうしたの?何か有ったの?」
「酒を貰おうか」
「大丈夫?」
辰次は湯呑茶碗に酒を注いでひと息に喉へ流し込んだ。苦いだけで他には何の味もしなかった。辰次は噎せ込みながらもう一盃飲み干した。
おしのが板場を出て此方へやって来てから、徐に辰次の隣に腰掛けた。
「そんな飲み方をしちゃ駄目よ。何が有ったの?」
「女房が今日また吐いたんだ。治らねぇ病かも知れねぇ」
「まあ!」
「また一からやり直しだ」
「この前のあんたの話では、直ぐにでも良くなりそうな話だったのに」
「俺は見ているだけで、どうしようも無ぇ。あいつが居なくなったらと思うと、居ても立っても居られねぇ」
辰次は不意に悲しみに襲われて肩を震わせた。
「可哀そうに、こんなに窶れちゃって・・・」
おしのは立ち上がると、店の外の提灯の灯りを消し、引き戸に心張棒を立てかけて中の行灯と蝋燭も半分消した。店の内が薄暗くなって、外から見れば休みに見えただろう。
「なんでぇ、もう閉めるのか?」
「今日はもう良いの。今日は亭主も休んであたし一人だし、陽気に燥ぐ気分でもないでしょう」
そう言ってゆっくりと近づいて来ると、辰次を背後から抱き締めた。肩の辺りにおしのの豊かな胸が押し付けられた。それから徐に辰次の向きを変えさせると、唇を重ねて来た。労わるような口づけだったが、その唇は熱かった。眠っていた荒々しく熱いものが辰次の身体の中を駆け巡った。だが、辰次の手がおしのの胸の盛り上がりを掴んだ時、おしのは慌てて辰次の胸を両手で強く押して身体を離した。
「駄目!駄目よ、いけないわ!」
辰次もハッと我に返った。
「どうしてこんなことをしてしまったのか・・・あたしにはこんなことしかしてあげられないと思ったんだけど・・・でも悪かったわね、ご免なさい」
「解かっている。謝るのは俺の方だ。悪かった、勘弁してくれ」
強い悔恨が辰次の胸を締め付けた。俺は何てことをしたんだ!
暫く沈黙が流れた。
やがて辰次は立ち上がり、それじゃ、と代金を置いて引き戸の方へ足を向けた。
心張棒を外し乍らおしのが低く言った。
「おかみさんを大事にしてあげて、ね」
辰次は答えないで店の外に出た。
「あんた、栄養の偏りは身体に障るからね。野菜や魚も万遍無く食べてね」
「解っている、大丈夫だ、ちゃんと食っている。余計な心配はするねぇ」
辰次はおしのの店に出向いて夕飯を食べることが多くなっていた。
おしのは、女房の大病で碌なものを食べていない辰次を気遣って、菜っ葉の煮物やお浸し、おばんざいや焼き魚など、店の献立には無いものまで作って提供してくれた。辰次は有難く感謝し、次第に心が昔のようにおしのに寄り沿って行った。
ゆきが二度目に吐いて、治療が最初からもう一度やり直しとなった夜、辰次は気がつくとおしのの店の前にいた。
引き戸を開けて中に入ると、おしのが板場の中で頬杖をついていた。客は居なかった。
近づいた辰次を見て、おしのが小首を傾げて問い掛けた。
「どうしたの?何か有ったの?」
「酒を貰おうか」
「大丈夫?」
辰次は湯呑茶碗に酒を注いでひと息に喉へ流し込んだ。苦いだけで他には何の味もしなかった。辰次は噎せ込みながらもう一盃飲み干した。
おしのが板場を出て此方へやって来てから、徐に辰次の隣に腰掛けた。
「そんな飲み方をしちゃ駄目よ。何が有ったの?」
「女房が今日また吐いたんだ。治らねぇ病かも知れねぇ」
「まあ!」
「また一からやり直しだ」
「この前のあんたの話では、直ぐにでも良くなりそうな話だったのに」
「俺は見ているだけで、どうしようも無ぇ。あいつが居なくなったらと思うと、居ても立っても居られねぇ」
辰次は不意に悲しみに襲われて肩を震わせた。
「可哀そうに、こんなに窶れちゃって・・・」
おしのは立ち上がると、店の外の提灯の灯りを消し、引き戸に心張棒を立てかけて中の行灯と蝋燭も半分消した。店の内が薄暗くなって、外から見れば休みに見えただろう。
「なんでぇ、もう閉めるのか?」
「今日はもう良いの。今日は亭主も休んであたし一人だし、陽気に燥ぐ気分でもないでしょう」
そう言ってゆっくりと近づいて来ると、辰次を背後から抱き締めた。肩の辺りにおしのの豊かな胸が押し付けられた。それから徐に辰次の向きを変えさせると、唇を重ねて来た。労わるような口づけだったが、その唇は熱かった。眠っていた荒々しく熱いものが辰次の身体の中を駆け巡った。だが、辰次の手がおしのの胸の盛り上がりを掴んだ時、おしのは慌てて辰次の胸を両手で強く押して身体を離した。
「駄目!駄目よ、いけないわ!」
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「どうしてこんなことをしてしまったのか・・・あたしにはこんなことしかしてあげられないと思ったんだけど・・・でも悪かったわね、ご免なさい」
「解かっている。謝るのは俺の方だ。悪かった、勘弁してくれ」
強い悔恨が辰次の胸を締め付けた。俺は何てことをしたんだ!
暫く沈黙が流れた。
やがて辰次は立ち上がり、それじゃ、と代金を置いて引き戸の方へ足を向けた。
心張棒を外し乍らおしのが低く言った。
「おかみさんを大事にしてあげて、ね」
辰次は答えないで店の外に出た。
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