時代小説の愉しみ

相良武有

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第四話 お庭番と酌女

①笹本恒一郎と酌女おみねの出逢い

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 薄汚れた縄暖簾の脇の四角い行灯に灯が入っていた。
店の外観とはちぐはぐに、屋号だけは人目を引く名前が付いて居た。行灯には「ゆめ半」と墨で書かれていた。
小料理屋と言えば体裁は良いが、客種は芳しくはなく、遊び人や渡り中間、年季の明けぬ半端職人や賭場で手慰みをする商家の二番番頭、馬方に駕籠担に河原人足、大工や左官の手伝い、煮売りやぼてふりなどが精々であった。
店の女もお上の風紀取り締まりが喧しいので表向きは酌女だが、二階にその為の小部屋が幾つか有って、金次第では、どうにでも話の付く女たちが大半だった。
 そんな店に、黒の着流しに白羽二重の帯をきりりと締めた二本差しが入って来た時には誰もが場違いの違和感を抱いた。侍だから場違いと言うのではない。浪人ならしょっちゅう出入りしていたし、いかがわしい店と知って酔興で覗きに来る勤番者も偶には居た。
「お殿様は何方でも無いわね。食い詰め浪人ではないし、田舎出の侍でもない・・・」
笹本恒一郎と名乗ったその男がこの店へ来た時から相手をしている“おみね”と言う女が言った。
 おみねは飛切りの美形だった。
面長の顔に切れ長の涼し気な一重目蓋、筋の通った中高の鼻、小さな口元、美しく豊かな黒髪に肌理細やかな白い肌、今をときめく笠森お仙や柳屋お藤、蔦屋およしに勝るとも劣らぬ器量良しだった。だが、おみねには他の三人ほどの品が無かった。歳高で娘盛りを過ぎていたし、何処か荒んで崩れた凄惨さがあった。従って、名の有る浮世絵師が絵にすることは無かったし、お仙やお藤、およしの三人程には江戸の街に広く知れ渡ることは無かった。それでも評判は立って店は結構に繁盛していた。
「どうだ、“ゆめ半”へ一度覗きに行かねえか?」
「おみねって言う酌女の居る小料理屋か?」
「そうだ、そうだ。場違いに飛切りの別嬪と言うじゃねえか、一度拝みに覗いて見ようぜ、な」
初めて店へやって来た客は誰もが口をぽかんと開けて、暫し、おみねに見惚れた。おみねは姿容が美形と言うだけでなく、その身体からは凄艶ささへ漂っていた。然し、おみねが客と二階の小部屋へ上がることは無かった。彼女は身持ちが固かった。
「あの女には誰か言い交わした相手が居るんじゃねえのか?」
「あれだけ操を立てると言うことは、きっとそうに違え無ぇぜ」
客達はそんな噂話をした。

 おみねは酒が滅法に強かった。いつも酔っ払っていた。
店の朋輩たちが口々に言った。
「おみねちゃんは自棄で呑んで居るんだよ」
恒一郎にもそれは直ぐに判った。世の中に怖いものが何も無いかのような女に見えた。
恒一郎がこの店にやって来た時、他の女たちは何となく警戒して近寄らなかったが、おみねは面白がって自分から近づいて来た。
「店の在り態にしてはなかなか乙な屋号じゃねえか?」
恒一郎が訊くとおみねが速妙に答えた。
「ああ、あれ、“ゆめ半”ね。店も主も女も皆んな半人前だし、来る客も半端者ばかりだから、あれで丁度良いのよ」
「“ゆめ”ってのは?」
「此処の主は昔、若い頃、渡世人だったんだけど、堅気で暮らしたいとずうっと思っていたらしいから、それであんな名前にしたんじゃないの」
「なるほど・・・」
「ところで、お殿様の生まれは何処?・・・」
「おいおい、そのお殿様は止してくれ。俺はそんなに偉くは無ぇんだ」
「そう・・・偉くないの・・・じゃ、手相を見てあげるよ」
恒一郎の手を散々撫でたり摩ったりして言った。
「生まれは、このお江戸ね・・・どう?ぴったりでしょう」
「こいつは驚いたな。手相で生まれた土地が判るのか?」
「序でにもう一つ・・・独り者みたいな顔をしているけど、お屋敷にはしっかり者で美人の奥様が居らして、可愛い子供さんも独り・・・」
恒一郎が笑い出した。
「はっはっはっはっ」
「笑って誤魔化しても駄目よ。ね、当っているんでしょう?当たっているんなら、当たったっておっしゃいよ」
「冗談じゃ無ぇよ。美人でしっかり者の奥方が居たんじゃ、ちょくちょくこんな店にやって来るもんか」
「それもそうね、外れちゃったわ・・・」
小さな舌をぺろりと出してけろっとしている。
おみねがそんな風だから、最初は寄り付かなかった他の女たちも次第に慣れて来て、いつの間にか、恒一郎は「おみねちゃんのお客さん」で通用するようになった。
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