パラッと読める超短編集

相良武有

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第6話 解けた心

⑭解けた心(1)

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 午後五時を回って支配人の石倉裕次は京都天橋立の旅館「橋観荘」のフロントでチェック・イン状況を確認していた。粗方の予約客は既に到着して入館手続きを終えていたが、尚、二組の未着客があった。
さあ、そろそろ夕食の準備状況を確認しなきゃ・・・そう思って裕次がパソコンの前から離れようとした時、正面入口の自動扉が開いて、一人の若い女性が、今にも倒れ込みそうな覚束ない足運びと崩れ落ちそうな前屈みの姿勢で、ロビーを突っ切って真直ぐにフロントの方へやって来た。
「あのう、予約は入れていないんですが、泊めて貰えないでしょうか、お願いします」
声は擦れてくぐもり、息も切れ切れに、哀願するようにフロントの前に頭を垂れた。
髪は長く背中まで垂れ、洗いざらしのシャツは薄汚れて、履いているジーパンも黒ずんでいた。睫毛の長い大きな眼が垂れた髪の間から裕次を覗いて居る。女はまだ若かった。二十四、五歳だろうか、と裕次は慮った。
裕次はフロントの後ろのドアを開け、事務室の奥に向かって仲居頭を呼んだ。
「豊子さん、この人を二階の浦島へご案内して下さい」
四、五日逗留して躰の癒えて来た彼女が「此処で働かせて欲しい」と言ったので、裕次は、これからの海水浴シーズンにおける繁忙を考えて彼女を住込みの仲居として雇い入れた。中村道子、二十五歳、短大卒、宮崎県延岡市出身・・・
 
 道子が「橋観荘」で働き始めて三カ月が経過した。
彼女は食膳の上げ下げや食器洗い、階段や廊下の拭き掃除など小まめに良く働いたし、愛想が良く機転が利いて客受けは良かった。
 裕次はその日、駅前商店街の本通りに在る仕入先の「魚政」へ魚を診にやって来た。車をロータリー横の駐車場に預け、通りを歩いて渡ろうとしたが、生憎、信号が赤に変わったので、止む無く、十字路で立ち止まった。
照りつける太陽を見上げて顰めた裕次の顔に、おやっ、という訝りの表情が浮かんだ。彼の視線の先には駅前交番の掲示板があったが、其処に真新しい全国指名手配書とその写真が貼られていた。信号が青に変わると直ぐに、裕次は横断歩道を渡って掲示板に近づき、写真に見入った。その写真の一枚があの中村道子によく似ていた。裕次は眼を据えて覗き込むように凝視した。
道子によく似た写真の横に、元メガバンク行員、今年一月に一億二千万円を横領、年齢二十五歳、本名×××××、他に偽名が二つ・・・裕次はじぃ~っと暫く見入った。
凝視していた裕次の真剣な表情が急に歪み出して今にも泣き出しそうな顔になり、その深刻な表情のまま彼はゆっくりと歩き出した。
 旅館へ帰り着いた裕次は勝手口から調理場へ入り、冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出して水を二口、三口飲んだ。それから、事務室の支配人席に腰掛けた裕次は暫くぼんやりと考え込んでいたが、深く椅子に座り直すと恐ろしく真剣な顔で天井を凝視した。眼がぎらぎらと光っていた。
 夜になって裕次は道子を旅館の裏に在る空地へ呼び出し、真剣な表情で黙って彼女を見詰めた。道子は訝しく見返したが、その表情は裕次が口を開くのを待っている態だった。
「実はね・・・」
その一言で何かを察したのか、道子の肩がぴくっと動いて、月の光を受けたその顔が蒼く透明に見えた。
「なあ、俺の言うことを怒らんと聞いて欲しいんだが・・・」
道子は眼を逸らさずに裕次をじっと見つめた。
「君によく似た写真を交番の前で見たんだ、今日の午後に・・・」
道子の眼がぎらぎらと揺らめいた。
「見れば見るほど君によく似ていた。俺は初め、間違いだろうと思ったが、どうしても気に懸って、もう一度よく見直してみた。そして、君が初めてうちの旅館にやって来た時のことなどを考え合わせると、やっぱり君だろう、という思いに至った・・・」
道子は眼を逸らして彼方の沖を眺めたが、何も言おうとしなかった。
「間違いじゃなくて真実に君だったら、もうこの街もこの旅館も危険だから、早いとこ出て行った方が良いと思うが・・・」
道子は考えることにも疲れ果てたようにぼんやりと空を見上げた。
「俺、君をもっと人目の少ない田舎の方へ連れて行ってやろうと思っている」
道子は問いかけるように裕次を見た。
「奥伊根って言うてな、舟屋の在るところなんだが、其処に信頼出来る人がやっている民宿が在る。一先ず其処へ行って、もう少し心も身体も癒して、それから、先のことを考えれば良い、そう思うんだがどうだろうな?」
道子は眼を逸らし、口を堅く結んだまま、何も答えようとしなかった。
「俺のことは単純に信じれば良いんだよ。君のことは断じて誰にも言わないし、俺に用心する必要もない。言いたかったのは、要するに、それだけや」
道子は沖を見詰めて佇んでいるだけである。
「あっ、船・・・」
「船?」
そう言って道子の顔に視線を向けた裕次はハッと胸を突かれた。
沖を見詰めている道子の頬に一筋の涙が流れている。裕次は観てはいけないものを見たかのように眼を逸らした。と、突然、道子が裕次の手を握りしめた。
「ありがとう・・・有難う、裕次さん」
そう口走ると、いきなり裕次の胸に顔を押し付け、苦し気に頬を擦り付けて左右に振った。裕次はまごつきながらも足を踏ん張って道子の身体を支えた。道子は何時までも顔を上げなかった。茫然と突っ立った裕次が恐る恐る道子の背中へ掌を回した。道子は泣いているのか、か細い肩が震えている。裕次は背中へ回した手に力を込めて強く抱きしめた。
「抱いて!抱いて下さい、思い切り!」
身体に押し付けられた涙の滲んだ泣き出しそうな上気した顔を、裕次は両手で挟んで、唇を重ねた。
「あなたのような人に逢ったのは初めてよ、真実よ!」
道子は裕次の胸に頬をすり寄せながら、肩を小刻みに振るわせて哭いていた。
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