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第五話 再びの出発
④二人が入ったの小さなフレンチの店だった
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笑顔を見せて直樹が案内したのは、高瀬川沿いに在る隠れ家のようにひっそりと店を構えるたった十六席の小さなフレンチレストランだった。
重い扉を押して店内に入った二人は、都会の喧騒から離れ、ゆっくりと流れる時間の中で、独創性溢れる艶やかなコース料理とゴージャスなワインを味わうことになった。
前菜に出された有機人参のムースは滑らかな口当たりで程よく柔らかく、人参と雲丹の色合いも綺麗な見た目にも楽しめる一皿だった。又、鮮度の良い鴨を炭火で焼いた青首鴨のローストは自然の中で伸び伸びと育った野生の青首鴨を炭火で炙り、濃厚な内蔵のソースを絡めた深い味わいが魅力だった。
「ワインとの相性がぴったりの一品でしょう」
更に、平目のローストは新鮮な海の幸と豊かな野菜を共に贅沢に愉しめる珠玉の逸品だった。
「京都ならではの美味しい一皿ね」
知佳が感嘆の声を挙げ、二人は居心地の良い快適な空間で食事もワインもじっくり堪能して至福とも言えるひと時を過ごした。
直樹の趣味はクラシックだと言う。
「クラシックは壮大で神々しく人間臭くて、それでいて恰好良いんだ。メロディが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものだと思いますよ」
「私も子供の頃にピアノを習っていて、よくクラシックを聴いたり弾いたりしていました。でも、高校生になってジャズと出逢って、それからジャズの虜になってしまったんです」
「ジャズ?」
「ええ。ジャズを聴いていると心も躰も痺れちゃって、嫌なことも辛いことも哀しいことも、或は、愉しいことも嬉しいことも、何もかもみんな忘れちゃって空っぽになれるんです、わたし」
「クラシックにしろ、ジャズにしろ、音楽は人生を豊かにするんだな。音楽の音には一つとして同じものは無いし、一度として同じ音を産み出すことも無い」
「そうね。音楽は奥深いものよね。指揮者や演奏者によって魅せられる音楽は違うし・・・」
「それに、音楽は人の感情を動かすしね。悲しい時に明るい曲を聴いて元気になるとか、疲れた時に美しい音楽で癒されるとか・・・」
「感情に合わない曲を聴くとどんな名演奏でも、煩い、って思ってしまうものね」
二人は音楽談議に花を咲かせて、暫し、時の過ぎ行くのを忘れるほどだった。
最後に知佳は木屋町筋に在る洋酒バーへ直樹を導いた。
扉を開けて中へ入ると、店内は混み合っていた。会社員や大学生、女友達同士の仲間、男女のアベック連れ、叔父さんも居たし叔母さんも居た。カラオケは無く、客達は流れる音楽を聴きながら、仲間同士や隣り合わせた見知らぬ客やバーテンダーなどと話していた。
知佳は顔見知りのバーテンと笑顔を交わしながら直樹に言った。
「此処はウイスキーやビールだけでなくカクテルも愉しめるの。好きな物を飲んで頂戴」
「女性客が多いんだね」
「女性だけでも気軽に入れる雰囲気だし、デートスポットとしても人気があるわ」
「君はよく来るの?」
「しょっちゅうは来ないけど、まあ、偶に来る常連、ってとこかな」
「今日はジャズが流れているね」
「そうね、でも、ジャズだけでなくビートルズやフォークも流れるし、ライブが開かれることもあるわ。多い日には百人以上の来店客があるみたいよ」
一目見た時から惹かれ合った二人はそれから屡々逢うようになり、京都ホールのジャズフェスティバルに出かけたり、コンサートホールでクラシックに耳を傾けたりして、急速に親密の度を深めて行った。
或る日、知佳が美大出であることを知った直樹は彼女を東山祇園町の「何必館・京都現代美術館」へ連れ出した。彼の心には、校閲者と言う仕事は知佳の本望の仕事ではないのではないか、という思いが在った。彼女は身過ぎ世過ぎを凌ぐ為に、止む無く、今の仕事をして居るのではないか、真実は、デザインや美術やグラフィックなどの想像力を掻き立てるクリエイティブな仕事がやりたいのではないのか、彼はそう思った。
彼女の気持を波立てる心算は毛頭無いが、もしそうなら、自分の原点と気持の底の芯を今一度、振り返って見詰め直して欲しい、その上で校閲者の仕事に納得するのならそれで良いのだが・・・
「“何必館”ってどういう意味なのかしら?」
知佳が最初に素朴な質問をした。
「それはね、“何ぞ必ずしも”と常に定説を疑い、真に価値あるものを自ら探りあてようとする自由な精神に基づいて名付けられたんだよ」
「観ることをより感じることが出来る美術館、っていう訳ね」
地上五階から地下一階まで、日本画家の村上華岳、洋画家・山口薫、美術工芸の分野で幅広く活躍した北大路魯山人を中心に、近代・現代の作家による国内外の絵画、工芸品、写真などが幅広く展示されていた。
特別展は「現代風景画の指標、浅田鷹司」が開催されていた。
「浅田は京都生まれの京都育ちで、京都芸術大学で日本画を学び、三十三歳で東京に居を移した。その後は東京を拠点に、日本の名所旧跡を描いた作品を発表し続けたんだ」
「それじゃ、わたしの大先輩、って訳なの?」
「そうだな。彼はこう語っているんだ。対象の風景との間には一期一会の対決のひと時がある。ある風景が私の風景となるかならないか、心が通い合えると感じた時、ただ眼の前の景色に過ぎなかった存在が私を釘付けにし、私の風景となる、ってね」
自身の故郷である京都を愛し、五十八歳の若さで亡くなるまで、精力的に描き続けた洛中洛外の風景が、日本三景の屏風を初め、スケッチを含む凡そ四十点の浅田作品が展示されていた。
「風景の奥に在る日本人の自然観や美意識や宗教観、或は、自然の持つ普遍的な美しさ、そう言ったものを作品制作を通じて再確認し、風景画の指標と言える作品を数多く遺したと言うことなのかしら」
美大出身の知佳は流石に感受性も洞察力も鋭かった。が、果たして、知佳が何を思い、何を感じたか、それは未だ直樹には判らなかった。
知佳にも、近頃、直樹と逢う度に気に掛かることがあった。濃い眉の下の切れ長の眼は快活で明るい光を湛えていたが、時折、彼はその眼に鬱屈した暗い翳を覗かせた。愁いを帯びたもの憂い直樹の眼を垣間見る度に知佳の心は痛んだ。
何か、言うに言えない屈託を胸の奥底に抱えているのだろうか?・・・あの人は私の真の思いを汲み取ってくれているのに、私は未だ彼の苦悩が何に根ざしているのか解からない・・・
だが、知佳はそのことを口にするのは憚られた。
重い扉を押して店内に入った二人は、都会の喧騒から離れ、ゆっくりと流れる時間の中で、独創性溢れる艶やかなコース料理とゴージャスなワインを味わうことになった。
前菜に出された有機人参のムースは滑らかな口当たりで程よく柔らかく、人参と雲丹の色合いも綺麗な見た目にも楽しめる一皿だった。又、鮮度の良い鴨を炭火で焼いた青首鴨のローストは自然の中で伸び伸びと育った野生の青首鴨を炭火で炙り、濃厚な内蔵のソースを絡めた深い味わいが魅力だった。
「ワインとの相性がぴったりの一品でしょう」
更に、平目のローストは新鮮な海の幸と豊かな野菜を共に贅沢に愉しめる珠玉の逸品だった。
「京都ならではの美味しい一皿ね」
知佳が感嘆の声を挙げ、二人は居心地の良い快適な空間で食事もワインもじっくり堪能して至福とも言えるひと時を過ごした。
直樹の趣味はクラシックだと言う。
「クラシックは壮大で神々しく人間臭くて、それでいて恰好良いんだ。メロディが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものだと思いますよ」
「私も子供の頃にピアノを習っていて、よくクラシックを聴いたり弾いたりしていました。でも、高校生になってジャズと出逢って、それからジャズの虜になってしまったんです」
「ジャズ?」
「ええ。ジャズを聴いていると心も躰も痺れちゃって、嫌なことも辛いことも哀しいことも、或は、愉しいことも嬉しいことも、何もかもみんな忘れちゃって空っぽになれるんです、わたし」
「クラシックにしろ、ジャズにしろ、音楽は人生を豊かにするんだな。音楽の音には一つとして同じものは無いし、一度として同じ音を産み出すことも無い」
「そうね。音楽は奥深いものよね。指揮者や演奏者によって魅せられる音楽は違うし・・・」
「それに、音楽は人の感情を動かすしね。悲しい時に明るい曲を聴いて元気になるとか、疲れた時に美しい音楽で癒されるとか・・・」
「感情に合わない曲を聴くとどんな名演奏でも、煩い、って思ってしまうものね」
二人は音楽談議に花を咲かせて、暫し、時の過ぎ行くのを忘れるほどだった。
最後に知佳は木屋町筋に在る洋酒バーへ直樹を導いた。
扉を開けて中へ入ると、店内は混み合っていた。会社員や大学生、女友達同士の仲間、男女のアベック連れ、叔父さんも居たし叔母さんも居た。カラオケは無く、客達は流れる音楽を聴きながら、仲間同士や隣り合わせた見知らぬ客やバーテンダーなどと話していた。
知佳は顔見知りのバーテンと笑顔を交わしながら直樹に言った。
「此処はウイスキーやビールだけでなくカクテルも愉しめるの。好きな物を飲んで頂戴」
「女性客が多いんだね」
「女性だけでも気軽に入れる雰囲気だし、デートスポットとしても人気があるわ」
「君はよく来るの?」
「しょっちゅうは来ないけど、まあ、偶に来る常連、ってとこかな」
「今日はジャズが流れているね」
「そうね、でも、ジャズだけでなくビートルズやフォークも流れるし、ライブが開かれることもあるわ。多い日には百人以上の来店客があるみたいよ」
一目見た時から惹かれ合った二人はそれから屡々逢うようになり、京都ホールのジャズフェスティバルに出かけたり、コンサートホールでクラシックに耳を傾けたりして、急速に親密の度を深めて行った。
或る日、知佳が美大出であることを知った直樹は彼女を東山祇園町の「何必館・京都現代美術館」へ連れ出した。彼の心には、校閲者と言う仕事は知佳の本望の仕事ではないのではないか、という思いが在った。彼女は身過ぎ世過ぎを凌ぐ為に、止む無く、今の仕事をして居るのではないか、真実は、デザインや美術やグラフィックなどの想像力を掻き立てるクリエイティブな仕事がやりたいのではないのか、彼はそう思った。
彼女の気持を波立てる心算は毛頭無いが、もしそうなら、自分の原点と気持の底の芯を今一度、振り返って見詰め直して欲しい、その上で校閲者の仕事に納得するのならそれで良いのだが・・・
「“何必館”ってどういう意味なのかしら?」
知佳が最初に素朴な質問をした。
「それはね、“何ぞ必ずしも”と常に定説を疑い、真に価値あるものを自ら探りあてようとする自由な精神に基づいて名付けられたんだよ」
「観ることをより感じることが出来る美術館、っていう訳ね」
地上五階から地下一階まで、日本画家の村上華岳、洋画家・山口薫、美術工芸の分野で幅広く活躍した北大路魯山人を中心に、近代・現代の作家による国内外の絵画、工芸品、写真などが幅広く展示されていた。
特別展は「現代風景画の指標、浅田鷹司」が開催されていた。
「浅田は京都生まれの京都育ちで、京都芸術大学で日本画を学び、三十三歳で東京に居を移した。その後は東京を拠点に、日本の名所旧跡を描いた作品を発表し続けたんだ」
「それじゃ、わたしの大先輩、って訳なの?」
「そうだな。彼はこう語っているんだ。対象の風景との間には一期一会の対決のひと時がある。ある風景が私の風景となるかならないか、心が通い合えると感じた時、ただ眼の前の景色に過ぎなかった存在が私を釘付けにし、私の風景となる、ってね」
自身の故郷である京都を愛し、五十八歳の若さで亡くなるまで、精力的に描き続けた洛中洛外の風景が、日本三景の屏風を初め、スケッチを含む凡そ四十点の浅田作品が展示されていた。
「風景の奥に在る日本人の自然観や美意識や宗教観、或は、自然の持つ普遍的な美しさ、そう言ったものを作品制作を通じて再確認し、風景画の指標と言える作品を数多く遺したと言うことなのかしら」
美大出身の知佳は流石に感受性も洞察力も鋭かった。が、果たして、知佳が何を思い、何を感じたか、それは未だ直樹には判らなかった。
知佳にも、近頃、直樹と逢う度に気に掛かることがあった。濃い眉の下の切れ長の眼は快活で明るい光を湛えていたが、時折、彼はその眼に鬱屈した暗い翳を覗かせた。愁いを帯びたもの憂い直樹の眼を垣間見る度に知佳の心は痛んだ。
何か、言うに言えない屈託を胸の奥底に抱えているのだろうか?・・・あの人は私の真の思いを汲み取ってくれているのに、私は未だ彼の苦悩が何に根ざしているのか解からない・・・
だが、知佳はそのことを口にするのは憚られた。
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