ルビコンを渡る

相良武有

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第六話 保持した矜持

①英二と裕美、何年振りかで偶然に再会する

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 朝からしんしんと底冷えのする一日だったが、とうとう午後四時過ぎになって雪が降り出した。今月に入って二度目の雪であった。午後八時前に会社を出た時には、雪は積もるという状況には見えなかったが、生まれ育った船形山の麓まで来ると、辺り一面真っ白であった。県境である山間の町を過ぎた辺りから雪は急に勢いを増して間断無く降り続いていた。
 故郷のこの街は歴史と文化の香りに包まれた山紫水明の一大観光都市であったが、四方を山に囲まれて夏暑く冬寒い気候穏やかならざる盆地の街だった。
英二の実家は船形山の南麓に建ち並ぶ閑静な住宅街の一角に在った。
 英二は冷たい雪の降り頻る中を急いで路を行こうとしたが、靴底にくっつく雪の所為で足は思うようには進まなかった。
 この路の眺望も随分と様変わりしたなあ、眼を上げた英二は久し振りの実家への道をそんな思いを抱いてゆっくりと歩いた。嘗ては通りを挟んで、八百屋、魚屋、米穀店、乾物屋、うどん屋、駄菓子屋、酒店、自転車店、銭湯、理髪店、タバコ屋、文房具店、花屋等が軒を連ねて人の往来も頻繁だったが、今はもうすっかり寂れてしまっている。マンションに建て変ったり、コンビニや小さな食品スーパーが出来たりして、残っているのは酒店とうどん屋と理髪店ぐらいのものであった。新しく出来たらしい居酒屋やスナックも二、三軒仄かな灯りが見て取れた。
居酒屋帰りと思われる男の二人連れが急ぎ足に英二を追い越して行った。
「こりゃ今夜は積もるぞ」
「うん、積もるな。然し、こんなに雪が降るのは何年振りだろうな?滅多に降らないのだが、な」
頭から肩にかけて白く雪を被った二人は、コートの衿を掻き合せ、おお寒!と背を丸めて遠ざかって行った。
 旧商店街の通りの角で、英二は靴底にくっついた雪を落とし、傘を傾けて積もった雪を払った。実家へ連なる坂道へ左折しようとしたその時、傾けた傘に何か柔らかい重いものが触った感じがした。
人に当ったかな、英二がはっとした時、向こうから詫びの言葉が発せられた。
「あっ、済みません」
若い女性だった。通りの角を曲がろうとして、丁度傾げた英二の傘にぶつかった様子だった。
傘を上げた英二に、女性はもう一度、斜め腰に頭を軽く下げて立ち去ろうとした、が、不意に足を止めて顔を上げた。
「裕美じゃないか!」
「高木さん!」
二人は殆ど同時に声を掛け合った。
裕美は傘を差さず、ショールを頭から被って首に巻いているだけであった。
「濡れるぞ、傘の中に入れ」
取り敢えず英二はそう言って、裕美に傘を差しかけた。
軽い驚きがあった。裕美に会うのは何年振りだろうか、二年前に嫁に行ったと実家の母から聞いている。こんな所で出逢うとは全く予期していなかった。
「さあ、遠慮せずに入れよ」
英二に促されて、裕美は身体を竦めるようにして傘の中に入って来た。少し酒の匂いがした。
「なんだ、酒を呑んで来たのか?」
「はい、少しだけ」
裕美は小さい声で答えた。ひとりで酒場から出て来た姿を英二に見られて恥じているように見えた。傘の中に入っても英二に身体が触れないように気を配って歩いている。
「里帰りか?」
「いえ」
暫く言葉を切ってから、裕美が言った。
「離婚して実家に帰っています」
英二は一瞬足を止めて裕美を見た。
えっ、どうして?と言いかける言葉を飲み込んだ。
裕美は伏し目がちに黙って歩いている。
そうか、決して幸せな結婚生活ではなかったのだな、英二は、少し頬が扱け、どこか影を帯びて淋しげに見える裕美の横顔を見やった。
 船形山の麓へ続く路はやや勾配の有る上り坂になっている。雪はしんしんと降り続いていた。二人は暫らく黙って歩いた。
「俺で力になれることがあったら何でも言って来いよ、な」
英二がそう言った時、裕美がつるりと雪に滑った。慌てて手を差し出した英二に縋りながら、裕美はまた滑った。英二は、傘を離して両手で裕美を掴まえ、上へ引上げるようにした。裕美の細い小さな身体が、長身の英二の腕の中へ入って来て、二人は抱き合う形になった。小柄だが裕美はずしりと重く、靴底に雪がくっついていた英二は、押された格好になってよろめき、今度は裕美が英二を支えた。
裕美が、ふっふっふっ、と笑った。英二も連れて笑った。他人が見れば、恋人同士が戯け合っているように見えたであろうが、夜の坂道には雪が降り頻っているだけで、人影は無かった。

 二人が最後に逢ったのは、英二が東京へ赴任した二年目の正月休みに帰省した時だった。二人でこの街一番の花街にある守護神社へ「おけら参り」に出かけた大晦日の晩だった。
 初めての「おけら参り」を裕美は大変面白がった。「おけら灯篭」に移されている「おけら火」を竹の繊維で出来た「吉兆縄」に移し、途中で火を消さないようにぐるぐる回しながら、二人は船形山の麓の自分達の家まで持ち帰った。そして、その「おけら火」は神棚の灯明につけ、元旦の大福茶や雑煮の火種として使って、一年の無事息災を願ったのだった。英二の母は最後に燃え残った火縄を「火伏せのお守り」として、台所に祀っていた。
あの大晦日の夜の街は喧しく賑々しく、騒々しかった。酔って群れている傍若無人の若者達や慎ましやかさを欠いた十代の男女の無節操な振る舞い、パチンコ店やゲームセンター等から発せられる騒音、前へ歩くことさえ遅々として進まない夥しい人の群、そんな中で二人は除夜の鐘を耳にしつつ、新年を迎える清新な気分に浸り、神頼みの僥倖をも信じる気分だった。

 英二の胸に懐かしい思い出が拡がった。英二が東京から札幌へ転勤したのは、その年が明けた陽春四月である。それからの時の経過が、今、裕美と出逢って、一度に縮まった気がした。
「人生有為転変、冬の後には春が来るさ」
傘を拾って裕美に差し掛けながら、英二は元気付けるように言った。昔懐かしい温かい感情が胸を浸した。
「高木さんは、ご結婚は?」
「おいおい、その高木さんと言うのは止めてくれよ。何だか他人行儀でいかん、昔のように英二さんで良いよ」
真実にそれで良いの?という表情で裕美は英二を見上げ、それまで努めて身体を避けるようだった素振りを止めて、傘の中で身を寄せて来た。
「うん、結婚は未だだ」
「でも、恋人は居るのでしょう」
「まあな、婚約者は居るよ」
「そう、それはおめでとうございます」
それが、それ程めでたくも無いんだよなぁ、言葉にはしなかったが、英二は胸のうちで呟いた。
「では、ここで」
裕美が突然、言った。
坂を上り切った所で路は三叉路になっている。真直ぐ行けば船形山へ登る石段に突き当たり、右へ行くと英二の実家が在る。裕美の家は左折して数十メートル行ったところである。
「家まで送って行ってやるよ、濡れるぞ」
「いえ、此処で結構です、直ぐ其処ですから」
「そうか、じゃな」
「有難うございました。お逢い出来て嬉しかったです」
英二がもう一言何か言おうとした時、裕美は身を翻すように降り頻る雪の中へ駆け出し、その姿は直ぐに白い闇に消えて見えなくなった。一瞬、成熟した女のなまめかしい香りが漂った。
 英二は裕美と何年振りかで出逢ったことで、胸の中にぽうっと灯が燈った気がした。
婚約者の玲奈と居る時に感じる背伸びするような、気負い立つような、気詰まるような張り詰めた感情が、裕美との間には無かったように思われた。
裕美は優しく柔らかく円やかで、刺々しさなどまるで無かった気がする。英二の胸に裕美を懐かしむ思いが次第に甦って来た。
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