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第7話 秘めた大人の愛
①おばんざいの店「あだち」
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四月初旬、桜花満開、月も朧な宇治川、中の島の篝火も霞む春の夜だった。一人の男が此処、おばんざいの店「あだち」に入って来た。黒くて太い眉毛、切れ長の鋭い眼、筋の通った鼻梁、下唇が少し突き出た受口、百八十センチを超える長身痩躯、白いワイシャツにきりりと結ばれた濃紺のネクタイ、背筋をピンと伸ばして大股で歩く、歳の頃は四十歳くらいの如何にもビジネスマン然とした男だった。
店内は、丁度、歓迎会シーズンとあってかなり混んでいた。
「おこしやす」
女将の信子が愛嬌良い笑顔で迎え入れた。彼女は三十歳中半、嶋のお召に西陣帯を締めてその上に白い割烹着を羽織っていた。零れる笑顔に気品が在った。
「おひとり様ですか?」
「はあ」
はにかむように口を少し歪めて微笑った男の口元から白い歯が覗いた。
「どうぞ、此方へ」
案内されたのはカウンターの一番奥の席だった。彼は椅子に腰かけながら、店内に掲げられたメニューを眺め、「おまかせ」を注文した。
「あっ、それから、熱燗二本も一緒に・・・」
「はい」
信子は急いでてきぱきと品を揃え、酒の癇を始めた。
瓜実顔、細長の眼に小さめの鼻、口元を少し尖らせて話す仕草は愛らしかった。
此処「あだち」は宇治駅の南側を通る宇治橋通りから一筋下がった商店街の一角に店を構える古くからの「おばんざい屋」であった。
「おばんざい」とは京都の昔ながらの普段のおかず、お惣菜のことで、四季折々の旬の食材の味を生かし、野菜をふんだんに使った極めて健康的な料理である。謂わば、京都の食文化の一つと言えるものであった。
信子はそのおばんざい屋「あだち」の四代目店主であるが、店を継いだのは二年半前、夫が食道癌で呆気無く他界して後である。二代目だった義父が厨房を切り盛りして信子を助け支えている。
店には百種類以上の食材を使ったおばんざいが二十幾つもの大皿に盛られて並んでいた。
男は、次の日も、その次の日も、独りでやって来た。その間、男は料理を注文する以外に口を利くことはなかった。男は寡黙だった。黙々と独りで食べ、独りで飲んで、一時間ほどで帰って行った。
そして、四日目の夜に、信子に言い難くそうに、躊躇いがちに、一つの頼み事をした。
「自分はこういう者ですが・・・」
差し出された名刺にはこう記されていた。
“ユニオン株式会社宇治事業所 技術課長 高井健二”
「ああ、ユニオンさんですか」
事業所は宇治では有名な歴史ある会社だった。
「明日から毎晩、此方で晩飯を食べさせて頂けないでしょうか?」
「はいっ?」
「自分はこの四月から宇治工場の勤務になったのですが、何分、東京からの単身赴任でして、毎日の食事に窮するものですから、何とか此方でご厄介になれないものかと思いまして・・・」
「はあ」
「三日間通わせて頂きまして、大変に美味しかったものですから、もし可能ならばお世話になりたいと・・・」
「そうですか。そんな風に言って戴いて、ほんまにおおきに、有難うございます。でも、どういう形で?」
「此方のお休みは?」
「はい、休業は日曜日だけですけど・・・」
「それなら、日曜日以外は毎日、晩飯をお願い出来ますか?それも出来るだけ安く・・」
「解りました。うちで宜しければ承ります。おたくも毎日では金銭的にも大変でしょうから、こうしましょう、おかずは当店のおまかせ、晩酌は日本酒二合、御飯一善、締めて大負けにして一日千五百円、如何です?」
「いえ、それでは余りに廉くて恐縮します。一日二千円でお願い出来ないでしょうか?」
「まあ、そう固いことをおっしゃらずに。とにかく千五百円でスタートしてみましょう、ね」
「はあ、有難うございます。それでは、明日と言わず早速に今日から、宜しくお願い致します」
高井は長い身体を九十度に折り曲げて礼を言った。
それから彼は毎晩八時前後にやって来て晩酌と夕食を愉しみ、きっちり一時間で帰って行った。相変わらず、聞かれたことに答える以外には必要最小限のことしか話さず、独りで寡黙に時を過ごすのだった。そうかと言って、不機嫌であったり不愉快であったりという風ではなく、一日の仕事を終えて穏やかにゆっくりと寛いでいるのは信子の眼にも明らかだった。
高井は無口だったが律儀だった。席は何時も一番奥のカウンターの隅で他の客の邪魔にならないようにひっそりと腰かけたし、食べた後の食器類は自分で厨房の前まで運びもした。お代は毎日キチンと殆ど釣銭の要らないようにして支払った。
店内は、丁度、歓迎会シーズンとあってかなり混んでいた。
「おこしやす」
女将の信子が愛嬌良い笑顔で迎え入れた。彼女は三十歳中半、嶋のお召に西陣帯を締めてその上に白い割烹着を羽織っていた。零れる笑顔に気品が在った。
「おひとり様ですか?」
「はあ」
はにかむように口を少し歪めて微笑った男の口元から白い歯が覗いた。
「どうぞ、此方へ」
案内されたのはカウンターの一番奥の席だった。彼は椅子に腰かけながら、店内に掲げられたメニューを眺め、「おまかせ」を注文した。
「あっ、それから、熱燗二本も一緒に・・・」
「はい」
信子は急いでてきぱきと品を揃え、酒の癇を始めた。
瓜実顔、細長の眼に小さめの鼻、口元を少し尖らせて話す仕草は愛らしかった。
此処「あだち」は宇治駅の南側を通る宇治橋通りから一筋下がった商店街の一角に店を構える古くからの「おばんざい屋」であった。
「おばんざい」とは京都の昔ながらの普段のおかず、お惣菜のことで、四季折々の旬の食材の味を生かし、野菜をふんだんに使った極めて健康的な料理である。謂わば、京都の食文化の一つと言えるものであった。
信子はそのおばんざい屋「あだち」の四代目店主であるが、店を継いだのは二年半前、夫が食道癌で呆気無く他界して後である。二代目だった義父が厨房を切り盛りして信子を助け支えている。
店には百種類以上の食材を使ったおばんざいが二十幾つもの大皿に盛られて並んでいた。
男は、次の日も、その次の日も、独りでやって来た。その間、男は料理を注文する以外に口を利くことはなかった。男は寡黙だった。黙々と独りで食べ、独りで飲んで、一時間ほどで帰って行った。
そして、四日目の夜に、信子に言い難くそうに、躊躇いがちに、一つの頼み事をした。
「自分はこういう者ですが・・・」
差し出された名刺にはこう記されていた。
“ユニオン株式会社宇治事業所 技術課長 高井健二”
「ああ、ユニオンさんですか」
事業所は宇治では有名な歴史ある会社だった。
「明日から毎晩、此方で晩飯を食べさせて頂けないでしょうか?」
「はいっ?」
「自分はこの四月から宇治工場の勤務になったのですが、何分、東京からの単身赴任でして、毎日の食事に窮するものですから、何とか此方でご厄介になれないものかと思いまして・・・」
「はあ」
「三日間通わせて頂きまして、大変に美味しかったものですから、もし可能ならばお世話になりたいと・・・」
「そうですか。そんな風に言って戴いて、ほんまにおおきに、有難うございます。でも、どういう形で?」
「此方のお休みは?」
「はい、休業は日曜日だけですけど・・・」
「それなら、日曜日以外は毎日、晩飯をお願い出来ますか?それも出来るだけ安く・・」
「解りました。うちで宜しければ承ります。おたくも毎日では金銭的にも大変でしょうから、こうしましょう、おかずは当店のおまかせ、晩酌は日本酒二合、御飯一善、締めて大負けにして一日千五百円、如何です?」
「いえ、それでは余りに廉くて恐縮します。一日二千円でお願い出来ないでしょうか?」
「まあ、そう固いことをおっしゃらずに。とにかく千五百円でスタートしてみましょう、ね」
「はあ、有難うございます。それでは、明日と言わず早速に今日から、宜しくお願い致します」
高井は長い身体を九十度に折り曲げて礼を言った。
それから彼は毎晩八時前後にやって来て晩酌と夕食を愉しみ、きっちり一時間で帰って行った。相変わらず、聞かれたことに答える以外には必要最小限のことしか話さず、独りで寡黙に時を過ごすのだった。そうかと言って、不機嫌であったり不愉快であったりという風ではなく、一日の仕事を終えて穏やかにゆっくりと寛いでいるのは信子の眼にも明らかだった。
高井は無口だったが律儀だった。席は何時も一番奥のカウンターの隅で他の客の邪魔にならないようにひっそりと腰かけたし、食べた後の食器類は自分で厨房の前まで運びもした。お代は毎日キチンと殆ど釣銭の要らないようにして支払った。
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