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第7話 秘めた大人の愛
⑤もうこれで、生涯巡り合うことは無いのだ
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高井がユニオン(株)宇治事業所に赴任して来て間も無く丸四年になろうとする三月中旬、その時刻に「あだち」の客は高井一人だった。閉店間際の午後九時過ぎ、彼は先程から店の外の雨音を聞きながら、頭の中で言葉を捜していた。信子は高井のいつもの「おまかせ」惣菜を見繕ってお盆の上に並べていた。
高井が出されているお通しを肴に熱い燗酒を一口啜った時、信子が料理の載ったお盆をカウンターの上に置いて密やかに微笑いかけた。
信子はじっと高井の眼を覗き込みながら不安げに問いかけた。
「何か、心配事が有るみたいですね、高井さん」
柔らかい穏やかな口調であった。
「ええ」
信子は何も言わずに高井をじっと見つめて、続きを待った。
高井は深く息を吸い込んだ。
「実は・・・」
彼は後に続く告別の言葉を少しでも和らげようと間を置いた。が、良い言い方は浮かんで来なかった。
「今度、東京へ帰ることになったんです、配置換えで。本社勤務を命じられました」
「そう、ですか・・・」
信子はそれっ切り黙って俯いた。
それから、高井の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。信子の滑らかな肩の線が何かを耐えるように、一瞬、震えた。此方に振り向いた口元も微かにヒクついていた。彼女は高井の方を見ようとしなかった。
彼は言った。
「一応昇進扱いにはなっているんです。これからは幹部の一員としてバリバリやってくれ、と上の方では言っています」
その時、信子の視線が高井の眼を捉えた。
「聞きたいのはそんな解説ではありませんわ。あなたは帰るんでしょう、会社の命令に従って東京へ帰るのですね。もっと他におっしゃることは無いんですか?」
高井はぬるくなった酒を猪口に移して一気に飲み乾した。苦い舌触りだった。
唐突に信子が聞いて来た。
「ねえ、あの日のことを覚えていますか?太陽が丘の運動公園で話した時のことを」
「ええ。信吾君が自転車に乗る練習を手伝いました」
「わたし、あの時、あなたに救われたんです」
「えっ?」
あの時、二人は、信子の夫が亡くなったことに関して、こんな会話を交わしたのだった。
「私がいけなかったんです。夫があれほど悪くなるまで気付かなかった私が、いけなかったんです。家事と育児と店の仕事の忙しさに感けて、夫とちゃんと向き合っていなかった私の所為で、夫は・・・」
「女将さん、そんな風に自分を責めてはいけませんよ。運命です、寿命なんですよ。百歳まで生きたいと思っていても五十歳中半で死ぬ人も居ますし、こんな世の中もう嫌だ、こんな人生もういいよ、と思っても八十歳まで生き長らえることもあります。一人一人の個人ではどうしようもないのが運命というものです。そんな風に自分を責めて居てもご主人は決して喜んでは居られませんよ。その思いはご主人が残された大事な信吾君に注がれる方が良いんじゃないかと自分は思いますが・・・」
「わたしはあの時、ふっと身体の力が抜けて気持が楽になったんです。私はあなたに救われたんです」
信子はじっと高井の顔を見詰めて更に続けた。
「あなたの居ないこの宇治の街なんて何を見ても空虚なんです」
高井も信子を凝視して応えた。
「あなたの顔を見ない自分の眼は何を見ても朧です」
「あなたの来ない店はどんなに灯が燈って居ても、私には暗いんです」
「あなたの声を聞かない自分の耳は何を聴いても聞こえません」
「あなたの座らないその椅子は、いつまで経っても温まることはありません」
「あなたに逢えない自分の心は何をしても虚ろです」
「・・・・・」
「女将さん、いや、信子さん、自分はあなたを・・・」
「駄目!おっしゃらないで!」
信子が人差指を唇に当てて強く遮った。
二人は釘づけされたように互いの眼を見つめ合った。
見る間に、信子の眼から大粒の涙が溢れ出した。彼女は顔を覆い、踵を返して、厨房から勝手口を通って街路へ出て行った。
信子は十五分ほど戻って来なかった。
その間、高井は信子の消えた勝手口辺りを凝然と見詰めていた。
「好いた」「惚れた」と犬猫の恋愛ごっこが蔓延る今の世の中、「好いた」「惚れた」は心で決めるもの、二つの心が一つに重なってそれが恋ならそれも良し、意地に消される恋も有り、義理に消え行く愛も有る・・・
やがて、戻って来た信子は目を赤く腫らしてはいたが、貌はもう普段の表情だった。
「それで、何日、発たれるんですか?」
「ぎりぎり最後の月末、三十一日の午後に発つ予定です」
「それじゃ、未だ半月近くありますわね。発たれるまでは毎日来て下さいね、精々美味しいものを見繕いますから」
そして、愈々、最後の夜、何時も通りに食事を終えた高井は信子とその義父に心からの礼を言った。
「四年間、真実にお世話になりました。有難うございました。皆さんのことは生涯忘れません」
深々と頭を垂れた。
いつの間にか、信吾とその祖母も厨房に降りて来ていた。
高井は鞄の中から軟式野球のボールを一つ取り出して信吾に手渡した。真新のボールには“高井健二”のサインが入っていた。信吾は眼を真っ赤にしてそのボールを受け取った。
戸口へ向かう高井に信子が小さな紙包みを手渡した。それは紫の生地に金色で“宇治大神守護”と刺繍されたお守り袋だった。
「これを私の心だと思って持って行って下さい」
高井は守り袋をスーツの胸ポケットに大事に仕舞い込み、それから、真直ぐに信子の眼を見乍ら、一言、「さよなら」と言った。信子は頷くようにして「さようなら」と小さく答えた。
信子は高井を見送らなかった。
閉じられた格子戸の内と外で二人は思い合った。
もうこれで、あの人とは生涯巡り合うことは無いのだ・・・
信子の眼からまた涙が滴り落ちた。
高井は小糠のような春雨の中へ歩を進め、おばんざい屋「あだち」の灯を後にした。
高井が出されているお通しを肴に熱い燗酒を一口啜った時、信子が料理の載ったお盆をカウンターの上に置いて密やかに微笑いかけた。
信子はじっと高井の眼を覗き込みながら不安げに問いかけた。
「何か、心配事が有るみたいですね、高井さん」
柔らかい穏やかな口調であった。
「ええ」
信子は何も言わずに高井をじっと見つめて、続きを待った。
高井は深く息を吸い込んだ。
「実は・・・」
彼は後に続く告別の言葉を少しでも和らげようと間を置いた。が、良い言い方は浮かんで来なかった。
「今度、東京へ帰ることになったんです、配置換えで。本社勤務を命じられました」
「そう、ですか・・・」
信子はそれっ切り黙って俯いた。
それから、高井の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。信子の滑らかな肩の線が何かを耐えるように、一瞬、震えた。此方に振り向いた口元も微かにヒクついていた。彼女は高井の方を見ようとしなかった。
彼は言った。
「一応昇進扱いにはなっているんです。これからは幹部の一員としてバリバリやってくれ、と上の方では言っています」
その時、信子の視線が高井の眼を捉えた。
「聞きたいのはそんな解説ではありませんわ。あなたは帰るんでしょう、会社の命令に従って東京へ帰るのですね。もっと他におっしゃることは無いんですか?」
高井はぬるくなった酒を猪口に移して一気に飲み乾した。苦い舌触りだった。
唐突に信子が聞いて来た。
「ねえ、あの日のことを覚えていますか?太陽が丘の運動公園で話した時のことを」
「ええ。信吾君が自転車に乗る練習を手伝いました」
「わたし、あの時、あなたに救われたんです」
「えっ?」
あの時、二人は、信子の夫が亡くなったことに関して、こんな会話を交わしたのだった。
「私がいけなかったんです。夫があれほど悪くなるまで気付かなかった私が、いけなかったんです。家事と育児と店の仕事の忙しさに感けて、夫とちゃんと向き合っていなかった私の所為で、夫は・・・」
「女将さん、そんな風に自分を責めてはいけませんよ。運命です、寿命なんですよ。百歳まで生きたいと思っていても五十歳中半で死ぬ人も居ますし、こんな世の中もう嫌だ、こんな人生もういいよ、と思っても八十歳まで生き長らえることもあります。一人一人の個人ではどうしようもないのが運命というものです。そんな風に自分を責めて居てもご主人は決して喜んでは居られませんよ。その思いはご主人が残された大事な信吾君に注がれる方が良いんじゃないかと自分は思いますが・・・」
「わたしはあの時、ふっと身体の力が抜けて気持が楽になったんです。私はあなたに救われたんです」
信子はじっと高井の顔を見詰めて更に続けた。
「あなたの居ないこの宇治の街なんて何を見ても空虚なんです」
高井も信子を凝視して応えた。
「あなたの顔を見ない自分の眼は何を見ても朧です」
「あなたの来ない店はどんなに灯が燈って居ても、私には暗いんです」
「あなたの声を聞かない自分の耳は何を聴いても聞こえません」
「あなたの座らないその椅子は、いつまで経っても温まることはありません」
「あなたに逢えない自分の心は何をしても虚ろです」
「・・・・・」
「女将さん、いや、信子さん、自分はあなたを・・・」
「駄目!おっしゃらないで!」
信子が人差指を唇に当てて強く遮った。
二人は釘づけされたように互いの眼を見つめ合った。
見る間に、信子の眼から大粒の涙が溢れ出した。彼女は顔を覆い、踵を返して、厨房から勝手口を通って街路へ出て行った。
信子は十五分ほど戻って来なかった。
その間、高井は信子の消えた勝手口辺りを凝然と見詰めていた。
「好いた」「惚れた」と犬猫の恋愛ごっこが蔓延る今の世の中、「好いた」「惚れた」は心で決めるもの、二つの心が一つに重なってそれが恋ならそれも良し、意地に消される恋も有り、義理に消え行く愛も有る・・・
やがて、戻って来た信子は目を赤く腫らしてはいたが、貌はもう普段の表情だった。
「それで、何日、発たれるんですか?」
「ぎりぎり最後の月末、三十一日の午後に発つ予定です」
「それじゃ、未だ半月近くありますわね。発たれるまでは毎日来て下さいね、精々美味しいものを見繕いますから」
そして、愈々、最後の夜、何時も通りに食事を終えた高井は信子とその義父に心からの礼を言った。
「四年間、真実にお世話になりました。有難うございました。皆さんのことは生涯忘れません」
深々と頭を垂れた。
いつの間にか、信吾とその祖母も厨房に降りて来ていた。
高井は鞄の中から軟式野球のボールを一つ取り出して信吾に手渡した。真新のボールには“高井健二”のサインが入っていた。信吾は眼を真っ赤にしてそのボールを受け取った。
戸口へ向かう高井に信子が小さな紙包みを手渡した。それは紫の生地に金色で“宇治大神守護”と刺繍されたお守り袋だった。
「これを私の心だと思って持って行って下さい」
高井は守り袋をスーツの胸ポケットに大事に仕舞い込み、それから、真直ぐに信子の眼を見乍ら、一言、「さよなら」と言った。信子は頷くようにして「さようなら」と小さく答えた。
信子は高井を見送らなかった。
閉じられた格子戸の内と外で二人は思い合った。
もうこれで、あの人とは生涯巡り合うことは無いのだ・・・
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