人生の時の瞬

相良武有

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第3話 フェード・イン

④水木は今更ながらに、斎藤に頭が下がる思いに駆られた

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 青いガラス瓶の色に似た明るい陽光が薄汚れたシェードの下から差し込んでいるのを見ると、もう正午近いのだろう。そう思いながら水木はガランとした虚ろな空間を半ば恐れつつじっとベッドに横たわっていた。だが、今朝は何かいつもと勝手が違っていた。
昨夜の斎藤との面談はきついものだった。水木の胸には重い澱が沈殿し続けている。理屈じゃない、「思い」なんだ、それは解っている。が・・・
 彼はくしゃみを一つして起き上がり、狭い洗面所へ入って口元に髭剃りムースを塗った。
今日も外は暑そうだった。もう七月の下旬なのか?夏休みも始まっているのか?彼は嘗て子供達と過ごした妻の実家のうだるような暑さを思い出した。

 昆虫の羽音、刈りたての草の青臭い匂い、ミーン・ミーンと間断無く耳を突く蝉の声、魚の撥ねる川のせせらぎ、大都会から里帰りしている家族とその子供達・・・
幼い子供たちは直ぐに田舎に馴染み、見知らぬ子供達とも仲良くなった。
「パパ、山へブンブンや蝉を取りに行こうよ。みんな行ってるよ」
朝早く子供たちにせがまれて、水木は虫かごと竿の付いた虫取り網を持って小高い山へ登った。
「ほら、お魚があんなに沢山泳いでいるよ、パパ」」
彼は娘の手を引きバケツとポリ盥を持って魚を掬いに出かけた。
近くの市営公園の野外音楽堂では高校生たちが楽器を持ち込んで、ブラスバンドが賑やかな軽音楽を奏でていた。
子供たちは時が経つのも忘れて遊び呆けた。妻が、車に撥ねられたり川に落ちたりしないように子供たちを追いかけ回し、尻を叩いたり髪を引っ張ったりして細心の注意を払っていた。その間も、ブラスバンドは軽音楽を奏で続け、子供たちはひたすら夜の訪れを待ったものだった。
 水木はひげを剃り終え、生ぬるい水で顔を洗ってタオルで拭った。
思い出は尽きなかった。
夜には花火が空を彩った。月に向かって火の矢が打ち上げられ、無数の星が煌めく夏の夜空に大きな光の輪が広がってはぐるぐると回転した。目にも鮮やかな赤、白、青、黄の大輪の花が闇を彩ったかと思うと、轟音と共に地軸が揺れた。
「うわ~っ!」
「まあ、きれい!」
子供達が叫び、女たちが息を呑んだ。
そして、心得顔に笑みを交わし合う偉丈夫の花火職人たち・・・
それは皆、遥か昔の思い出だった。思い出は消えてしまった。花火の轟音や昆虫の羽音や刈りたての草の匂いと共に・・・
 
 水木は青い夏のジャケットを着てドアに鍵をかけると、閑散とした昼の街路に歩み出た。彼はこのところ車に乗る機会がめっぽう減っている。車に乗って街を走っても心に響くものが何もない。ただ風景が通り過ぎて行くだけで何の感情も湧き上がって来ない。街を無目的に散策して、肌で風を感じ、鼻に匂いを吸い込み、心に何かが響いて欲しい。彼は車を使うのを目的地に一目散に行きつく時だけに限っていた。
夏の涼風が少し街路を吹き抜けた。
 彼は三丁目のいつものレストランへ足を向け、其処でハム・エッグを少し食べた。店の壁時計を見ると未だ十二時前だったので、また少しぶらぶらと歩き出した。酒を飲もうかとも思ったが、今日は何故か、昼間から呑むのは止そう、と思い直した。酒場も未だ開いてはいなかった。
 街の風景やショーウインドウを見るとは無しにぶらぶらと歩きながら、水木は思った。
もう少し、人や人生や世の中と真摯に向き合わなければいけないではないか?それをしなければ良い小説も良い脚本も書けないのではないか?あの安っぽいマンションの六階の部屋で、少々の酒と食料とガソリン代と、妻や子供に送る養育費と、どうにか払える部屋代を払うだけの金で暮らしていると月日の経つのさえ判らなくなって来る。それでは創作どころかその源泉さへ探り当てられない。昨夜の斎藤との語らいはそれに気づかせてくれたのだ。あいつはそれを言いたくて二十五年も経った今、わざわざ誘いをかけて来たのだ。
水木は斎藤とのやり取りを思い出していた。
「近頃、君の新刊書をあまり見かけなくなったが、創作は順調に行っているのか?」
「ああ、順調だよ、調子は上々だ、大丈夫だ、何も心配は要らないよ」
「そうか、それなら良いんだが・・・」
あいつはお見通しだったのだ、新聞出版部の編集長だったのだから、何もかも承知の上で聞いて来たのだ。俺に発奮させよう、何が根本的に欠けているか、それを悟らせようとして、あのタバコ事件の話を持ち出したのだ。あいつはあの頃の俺たちに絶望してはいなかったのだ。水木は今更ながらに、斎藤に頭が下がる思いに駆られた。
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