人生の時の瞬

相良武有

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第4話 大晦日の夜に

①大晦日の夜は妻と語らうことにしている

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 吉井秀夫は、この三年、大晦日の夜は家で過ごして妻と静かに語らうことにしている。昨今では大晦日の夜の街の喧騒をむしろ苦々しく憂っとうしいものに思ってもいる。溢れかえる夥しい人の波の中に居ると吉井は胸が息苦しくなってくる。そして、新年を迎える清新な気分にもなれず、神頼みの僥倖を信じることも出来ないで、自分だけ独り、社会や世間や世の中から取り残されたような寂寥感を憶えたりもする。
 彼は夕方五時から少し熱めの湯にゆっくり浸かって入浴し、真新しいカシミヤのパジャマに着替えてその上にシルクのガウンを羽織る。スリッパも新しいふさふさモヘアの上等のものに履き替える。暖房の効いた暖かいリビングで、老舗料亭から取り寄せた美味しい三段重ねの高級な「おせち料理」をテーブルの上に開いて、上質のワインを一本開ける。吉井は白ワインを好む。舌触りのなめらかさ、柔らかさ、さっぱり感が心地良い。ワインは、兎に角、芳醇なものが良い、と彼は思っている。そして、耳に優しい静かなクラシックの曲を聴きつつ、料理を食し、ワインを飲む。
 テレビは午後十一時四十五分になるまでは点けない。NHK紅白歌合戦を初め年末の騒々しい特別番組には興味が無い。吉井の楽しみは、零時十五分前から放映される「行く年、来る年」を観ながら「除夜の鐘」を聞くことである。
 
 吉井は妻に向かってワインのグラスを軽く擡げ、それから徐に一口啜る。
ああ、美味しい、と言う妻の声。二人の語らいが始まる。
「ねえ、私たちが若い頃、二人でよく行ったワインの美味しい酒場の名前を憶えていますか?あなた」
「ああ、あの酒場な。さて、何と言ったかな。名前までは憶えとらんよ」
「あのお店は良く繁盛していましたね。正面の奥に大きなカウンターがあってその中に男のバーテンダーさんが三人も居らした。カウンター席は何時もお客がいっぱいで賑やかな話声と笑い声が弾けていました」
「客は二十代後半から四十歳くらいの女性が多かったな。カウンターの後ろのボックス席も何時も満席だった。ホステスの居ない店だったから、女性客が入り易かったのだな、きっと」
「あなた、あそこでわたしにプロポーズしたのよ、それなのに名前も憶えていないの?」
「えっ、俺があの店でお前に求婚したのか?」
「そうですよ、だから、しっかり思い出して下さいよ」 
「幾らなんでも、酒場なんかでプロポーズはしないだろう」
妻がフッフッフと含み笑った。
「真実か?お前。それで、あそこでOKしたのか?」
「まさか・・・!こんな処で言っても駄目よ、って言いましたよ」
「それで?」
「そしたら、翌日の晩、あなたは私の家へやって来て、いきなり両親に、紗智子さんを下さい、って言うものだから、両親も驚いて魂げていましたよ」
「それから如何なったんだっけ?」
「その時の父親も少し変でした。お受けするにしろお断りするにしろ、直接自分の口から返答して上げなさい、って言ったの。あれには私も吃驚したわ」
「それから?」
「仕方ないから、わたしの答はYESです、って言ったの」
「仕方なくYESと言ったのか?」
「そうでもありませんけど・・・」
「そうか、それで安心したよ」
二人は其処で、笑い合った。

「あなたのお友達の河嶋さんが初めて訪ねて来られた時も驚きましたね」
「えっ?何を驚いたんだ?」
「だって部屋へ入って来るなり、いきなり、肘を枕にしてゴロッと横になられるんだもの、吃驚しましたよ」
「あれは結婚した翌年の暑い夏だったかな。和室二間の2Kの狭いアパートで未だエアコンも付いて無かった」
「幾ら親しい学生時代からのお友達とは言え、初めて訪れた家でいきなり寝転がる人は滅多に居ませんからね。何て気の置けない人なんだろう、と感心しましたよ、真実に」
「はっはっはっはっ、そんな事も有ったっけな」
「それに、あのお酒の飲み振りにも気圧されました。あっと言う間にビールが一ダースとウイスキーの半瓶が空いたんですから。あの頃は、あなたは未だ夜毎に晩酌をされる習慣は無かったですからね、私は近くの酒屋さんへ冷えたビールを買いに何遍も往復しましたよ。当時は瓶ビールが殆どでしたから、重たくて泣きたい気分でしたよ」
「家の冷蔵庫には無かったのかな?」
「在っても精々が二、三本くらいでしたよ」
「そうだったな」
 河嶋に関わるエピソードにはこんな愉快な話も有った。
それは吉井や河嶋など仲の良かった大学生四人が能登半島旅行を楽しんだ時のことである。
四人は夏休みの前半、大手工場の社員食堂で熱い飯函に火傷の危険に晒されながら夥しい数の昼食を給仕したり、新築や改築等の住宅にステンレスやポリや檜などの浴槽を取り付ける工事の助手をしたり、それらのアルバイトで旅費を稼いで、嬉々として北陸の旅へ出かけた。だが、その十日間で楽しんだのは海水浴と麻雀と飲酒だけだったのである。
「勿論、折角の能登半島旅行だから観光もあちこち見て歩きもしたけれど、四人とも殆ど記憶に無いんだ。昼間は海で泳ぐことと麻雀ばかりをしていた気がするよ」
連日の水泳と麻雀で腰が痛くなった河嶋は、それらを早く切り上げ、酒を飲んで一人就寝してしまった。残った三人はトランプで遊んだが、もう一つ盛り上がらない。
退屈した仲間の一人が持って来ていたサイコロを湯飲みに入れて、河嶋の耳元で「チンチロリン、チンチロリン」とやりだした。
やがて眼を覚ました河嶋が「おっ、やるのか」と言って二人のサシでの勝負が始まった。二人とも実に楽しそうに勝負に熱中したが、気がつくと、腰が痛い筈の河嶋が胡坐をかいて身を乗り出している。これには皆、驚くと共に爆笑したことであった。
「あの時、俺たちは四人のうち二人が酷い下痢に襲われてな。最後の二、三日は這う這うの態で金沢まで帰って来た。金沢の後藤の家でお粥を拵えて貰い、逓信病院にまで連れて行ってもらった。彼のおふくろさんには大変お世話になり且つご迷惑をお掛けしたという次第だ」
「まあ、そんなことが有ったんですか?」
「それにこの後藤は縁起を担ぐことも並外れていたんだ」
 
 大学の囲碁クラブに所属していた後藤が嘗て「国際アマチュア囲碁選手権」に出場した時のことであった。予選から楽な戦いは無く、本選に入ってからも苦しい戦いの連続で、後藤は何とか凌ぎに凌いで決勝戦まで勝ち上がった。
決勝の一局は注目の一戦とあって観戦者も多く、吉井も誘われて応援に駆け付けたが、その観戦者が皆、入室の際に一様に眼を丸くした。
「後藤の右側には編み籠のティッシュボックスとスズメバチエキスのドリンク、後方には先輩から贈られた扇子が何故か開いたまま置かれ、その後ろにはイオン発生器が鎮座していた。更に驚いたことに、後藤は青森産のりんご「黄王」を食べて縁起を担いだのだからな」
「で、その一戦の結果は如何だったんですか?」
 この一戦は初端から面白い内容になったので、いつしか観戦者の人だかりが出来た。
そんな中で対局者の二人は周囲を気にすることなく盤上に没頭した。
最初から大変な取り合いになり、後藤は自らの危険を顧みることなく、一直線に相手を潰しにかかった。誰もが頭に思い浮かばないような手で男らしく相手の全滅を目指した。そして、勝ったと思った後藤が大きく息をついて表情を緩めた。
が、勝負は勝ちを意識した瞬間が一番危ない。相手が猛然と反撃に出て、後藤は防戦一方に追われ、あわや大逆転の危機を迎えた。ギャラリーも息を呑んで勝負の行方を見守った。
「幸いに、相手は最後の詰めの一手に気付かず勝機を失してしまった。ここで勝負あり。勝った後、後藤は、いやあ、危なかった、と苦笑いしていたよ」
「冷静に見れば、有段者が気づかないことが不思議なくらいでも、それが岡目八目なのですね」
「熱くなっている対局者には判らないことがよくあるものさ」
吉井は懐かしい友の横顔を思い浮かべてワインのグラスを呷った。
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