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第4話 大晦日の夜に
⑤仏壇の燈明の中に妻の遺影が浮かび上がった
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柱時計に目をやった彼は、おもむろにテレビのリモコンスイッチを押した。丁度「行く年、来る年」が始まったところであった。画面には、京都の由緒在る神社や寺院、仏閣や旧跡等が映し出されていた。
ライトアップされた平安神宮には既に初詣客が詰め掛けている。撮影用のライトで明るく照らし出された東寺の五重塔。阿弥陀如来像と吉祥院天女像にスポットライトが当る国宝浄瑠璃寺。「おけら参り」客が一段と増して賑やかさ絶頂の八坂神社。修行僧の読経が厳かに響く黄檗山満福寺。早くも合格祈願の受験生が参詣している北野天満宮。淡雪でうっすらと白く薄化粧した北山杉群。画面から凍てつくような寒さが伝わって来る長岡京の竹林道。いずれもが「京都の冬は底冷えの冬」を実感するような情景である。吉井の胸に数年前に妻と二人で旅した京都の情景が鮮明に蘇えって来た。懐かしさが込み上げて来た。
画面から除夜の鐘がゴーン、ゴーンと響いて来た。日本三楼鐘の一つである祇園八坂知恩院の鐘の音であった。四苦八苦を取り除くという意味で108回撞かれる除夜の鐘は、親綱一人、子綱十六人の手で、毎年、年末に107回、新年に1回撞かれることになっている。一年間の罪を懺悔し、煩悩を除き、清浄な心身となって新年を迎える京都の冬の風物詩である。諸行無常の思いが吉井の胸に拡がった。人生は有為転変、常に移ろい、変化するものであろう。しかし、兎にも角にも、年を越した、新年である、と吉井は思う。
彼はゆっくりと立ち上がって仏壇に向かい正座した後、その扉を開いて灯明に火を点けた。
薄灯りの中に妻の遺影が浮かび上がった。ふくよかに柔和に微笑んでいる。
線香に火を点けチーンチーンと鐘を鳴らして吉井は合掌した。
「紗智子、早いものでお前が逝ってもう三年が過ぎた。この三年間、よく加護してくれて有難う、な。俺だけじゃなく娘や息子の家族も良く守ってくれた。心の底から礼を言うよ」
「あら、あなた、今日初めて私を名前で呼んでくれたわね。私の名前なんかもう忘れてしまったのかと気が気じゃ無かったのよ」
吉井は遺影を見上げて苦笑した。
「あなた、今年も又、誓いを立てるのでしょう、他愛も無い誓いを」
「ああ、立てるよ。今年こそタバコを止める。晩酌を少し控えて週に一日は休肝日を作る。仕事が無い日には一時間は散歩やウォーキングをする。好きな映画やコンサートには月に一回は出かける。通っている週一回の卓球クラブの練習は休まず頑張る。以上だ。別に特別の誓いでもないが、な」
「その他愛も無い誓いが毎年守られたことが無いのですから・・・今年も又、同じ結果にならないようにしっかり頑張って下さいね」
吉井は痛いところを突かれてまた苦笑する。
「他愛も無い誓いを立てた後は、仕事に関する年間計画と月度計画を立てるのでしょう?それはどうしても計画通り実現しなければいけませんわね」
「ああ、今年は何としても実現するからな、まあ見ていてくれよ」
「さあ、どうでしょうかね」
主宰する「中小企業経営塾」の会員企業を二十四社から三十社に増やす。その会員企業に「経営革新講座」を毎月一講座配信する。その「経営革新講座」は有料メールマガジンとしても発行して広く販売する。ブログ「吉井秀夫の経営革新講座」は毎日更新する。ホームページ「吉井秀夫経営相談室」も毎週一回は更新する。「成果が出せる管理者の条件」と「仕事が出来る社員の条件」を「中小企業経営塾」の個人会員に毎週各一回ずつメール配信する。ネットや電話で寄せられる質問や相談には必ず返事を返す。吉井はそれら盛り沢山の項目を列記した。そうだ、経営塾の会員企業には毎月一回、巡回訪問で経営相談に乗らなければならない、これが最も重要な仕事だった、と彼は改めて思った。
「二ヶ月も経過するとぐちゃぐちゃになってしまって、見通しが着かなくなるのでしょう?今年もまた宛にしないで見ていますわ」
よくそうも憎まれ口が叩けるものだな、と吉井はまたも苦笑いした。
「でもね、あなた、健康にだけは十分に注意して下さいね。健康診断は定期的に受けて下さいよ。心筋梗塞や脳梗塞、或は癌や肺炎など、手遅れにならないように、ね」
そして、紗智子の遺影が続けて言った。
「あなたはもう少し元気で長生きして下さいね。あなた自身の為に、子供達や孫たちの為に、未だ暫く此方の世界へ来ては駄目ですよ、良いですね!」
彼は、不意に、胸締め付けられる思いが溢れて涙を溢しそうになった。咄嗟に、妻の遺影をぎゅっと胸に抱き締めて、暫く動かなかった。
食卓に戻った吉井は、殆ど飲み終えた一本のワインの、ほんの少しの残りをグラスに移して一気に飲み干した。そして、ふうっと一息ついた後、ふと思い出した。
そうだ、あのワイン酒場は高瀬川を挟んだ道路沿いに在ったから「ワインリバー」と言ったんだ・・・!
仏壇に祀った妻の遺影の口元がにっと動いたようだった。やっと思い出してくれましたか、とでも言うように・・・
「さあ、そろそろ眠るとするか」
彼は独り言ちてガウンを脱ぎ、電気毛布で温まったベッドに滑り込んだ。
俺は今もこうして生きている。今年も一年、又、こうして生きて行くだろう・・・
明日になれば、いや、今日の午後には、子供たちが家族みんなを連れて年賀に集まって
来る。久し振りに賑やかになる。孫達にお年玉もやらなければ・・・
紗智子、安らかに、おやすみ・・・
彼は心の中で合掌して、静かに眼を閉じた。
ライトアップされた平安神宮には既に初詣客が詰め掛けている。撮影用のライトで明るく照らし出された東寺の五重塔。阿弥陀如来像と吉祥院天女像にスポットライトが当る国宝浄瑠璃寺。「おけら参り」客が一段と増して賑やかさ絶頂の八坂神社。修行僧の読経が厳かに響く黄檗山満福寺。早くも合格祈願の受験生が参詣している北野天満宮。淡雪でうっすらと白く薄化粧した北山杉群。画面から凍てつくような寒さが伝わって来る長岡京の竹林道。いずれもが「京都の冬は底冷えの冬」を実感するような情景である。吉井の胸に数年前に妻と二人で旅した京都の情景が鮮明に蘇えって来た。懐かしさが込み上げて来た。
画面から除夜の鐘がゴーン、ゴーンと響いて来た。日本三楼鐘の一つである祇園八坂知恩院の鐘の音であった。四苦八苦を取り除くという意味で108回撞かれる除夜の鐘は、親綱一人、子綱十六人の手で、毎年、年末に107回、新年に1回撞かれることになっている。一年間の罪を懺悔し、煩悩を除き、清浄な心身となって新年を迎える京都の冬の風物詩である。諸行無常の思いが吉井の胸に拡がった。人生は有為転変、常に移ろい、変化するものであろう。しかし、兎にも角にも、年を越した、新年である、と吉井は思う。
彼はゆっくりと立ち上がって仏壇に向かい正座した後、その扉を開いて灯明に火を点けた。
薄灯りの中に妻の遺影が浮かび上がった。ふくよかに柔和に微笑んでいる。
線香に火を点けチーンチーンと鐘を鳴らして吉井は合掌した。
「紗智子、早いものでお前が逝ってもう三年が過ぎた。この三年間、よく加護してくれて有難う、な。俺だけじゃなく娘や息子の家族も良く守ってくれた。心の底から礼を言うよ」
「あら、あなた、今日初めて私を名前で呼んでくれたわね。私の名前なんかもう忘れてしまったのかと気が気じゃ無かったのよ」
吉井は遺影を見上げて苦笑した。
「あなた、今年も又、誓いを立てるのでしょう、他愛も無い誓いを」
「ああ、立てるよ。今年こそタバコを止める。晩酌を少し控えて週に一日は休肝日を作る。仕事が無い日には一時間は散歩やウォーキングをする。好きな映画やコンサートには月に一回は出かける。通っている週一回の卓球クラブの練習は休まず頑張る。以上だ。別に特別の誓いでもないが、な」
「その他愛も無い誓いが毎年守られたことが無いのですから・・・今年も又、同じ結果にならないようにしっかり頑張って下さいね」
吉井は痛いところを突かれてまた苦笑する。
「他愛も無い誓いを立てた後は、仕事に関する年間計画と月度計画を立てるのでしょう?それはどうしても計画通り実現しなければいけませんわね」
「ああ、今年は何としても実現するからな、まあ見ていてくれよ」
「さあ、どうでしょうかね」
主宰する「中小企業経営塾」の会員企業を二十四社から三十社に増やす。その会員企業に「経営革新講座」を毎月一講座配信する。その「経営革新講座」は有料メールマガジンとしても発行して広く販売する。ブログ「吉井秀夫の経営革新講座」は毎日更新する。ホームページ「吉井秀夫経営相談室」も毎週一回は更新する。「成果が出せる管理者の条件」と「仕事が出来る社員の条件」を「中小企業経営塾」の個人会員に毎週各一回ずつメール配信する。ネットや電話で寄せられる質問や相談には必ず返事を返す。吉井はそれら盛り沢山の項目を列記した。そうだ、経営塾の会員企業には毎月一回、巡回訪問で経営相談に乗らなければならない、これが最も重要な仕事だった、と彼は改めて思った。
「二ヶ月も経過するとぐちゃぐちゃになってしまって、見通しが着かなくなるのでしょう?今年もまた宛にしないで見ていますわ」
よくそうも憎まれ口が叩けるものだな、と吉井はまたも苦笑いした。
「でもね、あなた、健康にだけは十分に注意して下さいね。健康診断は定期的に受けて下さいよ。心筋梗塞や脳梗塞、或は癌や肺炎など、手遅れにならないように、ね」
そして、紗智子の遺影が続けて言った。
「あなたはもう少し元気で長生きして下さいね。あなた自身の為に、子供達や孫たちの為に、未だ暫く此方の世界へ来ては駄目ですよ、良いですね!」
彼は、不意に、胸締め付けられる思いが溢れて涙を溢しそうになった。咄嗟に、妻の遺影をぎゅっと胸に抱き締めて、暫く動かなかった。
食卓に戻った吉井は、殆ど飲み終えた一本のワインの、ほんの少しの残りをグラスに移して一気に飲み干した。そして、ふうっと一息ついた後、ふと思い出した。
そうだ、あのワイン酒場は高瀬川を挟んだ道路沿いに在ったから「ワインリバー」と言ったんだ・・・!
仏壇に祀った妻の遺影の口元がにっと動いたようだった。やっと思い出してくれましたか、とでも言うように・・・
「さあ、そろそろ眠るとするか」
彼は独り言ちてガウンを脱ぎ、電気毛布で温まったベッドに滑り込んだ。
俺は今もこうして生きている。今年も一年、又、こうして生きて行くだろう・・・
明日になれば、いや、今日の午後には、子供たちが家族みんなを連れて年賀に集まって
来る。久し振りに賑やかになる。孫達にお年玉もやらなければ・・・
紗智子、安らかに、おやすみ・・・
彼は心の中で合掌して、静かに眼を閉じた。
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