人生の時の瞬

相良武有

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第5話 雨の再会

①奈緒美・・・京都に来ているのか

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 漸く帰って来た、という思いで関西空港に着いた時には、疲労が骨の髄まで浸み込んでいた。シリアからトルコへ陸路を車で突っ走り、空路でイスタンブールからフランクフルト、成田を経て関西空港に戻って来た。二十四時間以上を要した帰程は心身ともにきついものだった。
事務所のアシスタントには乗り継ぎの成田で、迎えにくる必要は無い、とメールを送っていたのだが、これは失敗だったかな、と向田毅は思った。仕方なくポーターを雇ってカメラケースをタクシーまで運んで貰った。
 関空から京都鴨川畔のマンションに向かう間も、彼はずっと、うつらうつらしていた。浅い眠りの合間にも頭に割り込んで来るのは、二ヶ月半に及ぶ取材の間に目撃した映像の断片だった。
収束の気配すら見えないまま、五年目に突入したシリア内戦。
これまでの死亡者は二十万人、負傷者は百万人、国内外で避難生活を送っている人数は一千万人以上。シリアは現在、国家として崩壊寸前であり、世界で最も人道危機が深刻な場所となっていた。
内戦による暴力。
感染症や慢性疾患の蔓延。
身体中ノミやヤダニに刺されて皮膚炎を起こしている子供達。道に転がる活発な男の子のものとみられる小さな手足。校舎の四分の一が破損して五十%に激減した基礎就学率。未就学児童の数は三百万人。
多くの農民が逃げ出して疲弊した農地や損傷した用水路に綿工場、農業機械、貯蔵設備。
深刻な食糧難。高騰した食料価格。
内戦によって観光客は遠のき、壊滅状態にある観光業。
石油産業は壊滅し、生産量は以前の微々たる量に戻ってしまった。その結果、世界中の石油価格を押し上げる原因となっている。
半分以下にまで落ち込んだ実質GDP。
医療従事者の半分が国外に流出して約七割が閉鎖された医療機関。
甚大な被害を受けた世界遺産。危機遺産に指定されたものも幾つか有る。
内戦前と比べて二十年以上も短くなった平均寿命。
信教の自由が脅かされている宗教的少数派のキリスト教徒。
ISILに代表される過激派の台頭。
裁判所、刑務所、警察署などを設置して実質的な統治を始めたクルド民主統一党。
二千二百万人の人口の内、家族や友人を亡くして家を追われ故郷を失った難民の数は一千万人。シリアは世界最大の難民発生国である。
停戦など無きに等しく、街も住民もいつ銃撃されるかわからない状態に在り、その上、イスラム国やクルド人勢力も独自の動きを見せて対立構図は三つ巴、四つ巴の状態になっている。
それら全ての光景を毅はカメラに収めて来た。頭の中には未だその時々の光景が蠢いていて、生命と形を吹き込んでくれと訴えている。この現実を、この惨状を世界の隅々へ知らせてくれと叫んでいる。
 マンションに着くと毅はカメラケースを運ぶ為の手押し車を初老の管理人に貸して貰った。管理人は郵便物のいっぱい入った箱も渡してくれた。
二月半振りに自分の部屋に入った毅は荷物を床に置き、郵便物をテーブルに放り投げて、寝室に向かった。文字通りくたくたになっていた彼は疲労に圧倒されて、その侭、夢も見ない深い眠りに落ちて行った。
 
 目が覚めたのは翌日の十一時前だった。
ひげを剃り、シャワーを浴び、服を着替えて、コーヒーを煎れた。それをゆっくり啜りながら、窓の下に拡がる秋の清澄な光に洗われている街をのんびりと見渡した。
 それから徐に郵便物に眼を通し始めた。
請求書の類、雑誌やダイレクトメールの類、嘗てアフガニスタン戦争を一緒に取材した友人からのハガキや金沢に住んでいる姉からの手紙も有った。姉からのそれは、いつもの如く、彼の独り身の生活を気遣う内容のものだった。
 次に手に取ったのは清水坂のホテルの封筒だった。住所と宛名の筆致は思い切りの良い大胆なもので見紛うことのないものだった。
「奈緒美!」
思わず声が漏れた。
毅は暫く封筒に目を凝らして椅子に身を沈めた。
奈緒美・・・
京都に来ているのか・・・
ゆっくりと封を開けて、ホテル備え付けの便箋に書かれた文面に目を走らせた。
「毅さん」と言う書き出しでそれは始まっていた。
「わたし、十日ほど、テレビの取材で京都に居るの。是非お会いしたいんだけど・・・奈緒美」
素っ気無いほど簡潔で飾り気が無かった。
毅は先ず封筒の消印を、継いで腕時計の日付に眼を走らせた。
あと二日は京都に居る筈だ。二日間か・・・
最後に会ってから何年くらい経ったのだろう?十三年か?十四年か?そう、あの時、荷物を纏め二度と帰って来ない心算で東京の彼女に別れを告げてから、既に十三年が経ったのだ。
だが、奈緒美と馴れ初めてからの歳月を数えればもう二十三、四年になる筈だ。

 二十三年前、二千一年九月十一日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、その損害の甚大さでアメリカ合衆国を含む世界各国に大きな衝撃を与えた。NATOは直ぐにこのテロ攻撃に対して集団的自衛権を発動し、アメリカ政府によって、それまでに数度に亘ってアメリカに対するテロを行って来たウサマ・ビン=ラーディンとアルカーイダにこの事件の首謀者の嫌疑がかけられた。
 アルカーイダはオサマ・ビン=ラーディンが率いる反米・反イスラエルのテロネットワーク。アラビア語で「基地」を意味する。アフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦ったアラブの義勇兵など多くの組織が合体して、一九九〇年代にアフガニスタンで結成され、成長した。今回のアメリカ同時多発テロばかりでなく一九九八年のケニアとタンザニアでの米国大使館爆破事件など、数多くのテロにかかわっており、メンバーや支持者は欧米のイスラム教徒にも広がって、世界四十五カ国に散らばっている。反米という理念を共有する様々な組織がゆるやかに連合した運動というのが実態であった。
 アフガニスタンの九割を実効支配していたタリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラーディンとアルカーイダの引渡しを要求されていたが、拒否し続けて来た。NATOは攻撃によってタリバン政権を転覆させる必要を認め、十月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を開始した。
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