人生の時の瞬

相良武有

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第8話 別れても・・・

③千穂と松木の出逢いと別れ

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 千穂は通りを反対側に渡ると、帽子を目深に被り黒縁のトンボ眼鏡を架けて、大きな喫茶店に入って行った、が、テーブルには座らずに真直ぐに店の奥にある化粧室へ向かった。幸い誰にも顔は見られなかった。其処で彼女は持って居る金の勘定をした。家賃が滞っていたし、事務所にも借金がある。電話代は一カ月遅れ、光熱費の催促は二度も来ていた。ぽつぽつの細切れ仕事ではとても覚束ない。第一、フリーの千穂には何の信用も無い。
化粧室を出た後、店の奥の隅のテーブルに隠れるように座って、コーヒーでピザを流し込みながら、初めて東京にやって来た日のことを思い出した。
 千穂は新大阪発の新幹線を降り立ったばかりの十九歳。東京一売れているタレント・エージェントと専属契約を結んだばかりのニュー・フェイスだった。会社からのベテランマネージャー付きと言うフレッシュで恵まれたスタートを切ったところだった。
 松木浩一と言う事務所と昵懇のシナリオライターが東京のガイドを請って出てくれた。二人で映画の撮影所を訪ね、次に大手レコード会社に寄った。その後、彼は千穂を六本木に連れて行って東京の本物の魅力を教えてくれた。一流レストランでの食事については、スモークド・サーモンにもノヴァとロックの二種類が有ることやブリンツとパストラミというユダヤ人の食べ物についてのこと、それに、ベーグルとビアリーと言う二種類のパンの違いについてなどを説明してくれた。
松木は魅力と自信に漲る良い男だった。一月も経つと千穂は松木のマンションへ引っ越していた。
東京は世界一ロマンティックな街だわ!・・・
あの年、千穂は心底そう思った。
 千穂は暫くの間歌のレッスンを受け、半年後にデビューしたポップな曲が幸運にもそこそこに売れてテレビに出るようになった。そして、小さくて可愛い容姿に大人びたルックスで次第に人気が出て歌謡界のアイドルの一人になった。その後も半年に一度ほどのペースで小さなヒットを飛ばし、大ブレークしてスターになる程のことは無かったが、アイドルとして堅実な歩みを続けていた。然し、二十五歳を過ぎるとアイドルとしては薹が立ち始め、次第にテレビへの露出が減って行った。彼女は大人の歌を唄うことよりもドラマや映画への出演を余儀なくされることが多くなり、それなりにヒロインを何本か演じたりもしたが、評判は芳しくなく興行的にも成功しなかった。千穂は次第に脇役や端役に追いやられて、やがて、仕事そのものが来なくなった。
 松木は脚本家から小説家に転じて巧く成功して行った。シナリオの修練で映像的な感覚を磨き、行と行との間にビジュアルな映像がくっきりと見えるようなエンターテイメント小説を書いて、一躍、人気の売れっ子作家になった。脚本執筆で培った構成の妙も彼の小説が売れる大きな要因の一つだったし、時代を捉える鋭敏な感覚や女性の心理を鋭く突く恋愛小説が彼の真骨頂だった。
 松木が売れ、千穂が凋落するに連れて、二人の間には亀裂が生じ始めた。
仕事のこと、二人の暮らしのこと、互いの役割分担のこと等々、毎日の生活での一寸した些細な感情のすれ違いや気持の縺れを度重ねて意思の疎通を欠き、互いに思いやりと寛容と敬愛の情を次第に失って、やがて、何方からともなく、二人は別れた。時を同じくして、千穂は事務所との専属契約も切られてしまった。
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